万千代の中に生きる政次の意志ーー『おんな城主 直虎』“おとわ”が直虎へと戻るとき

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「やってみねばわからぬではないか!」

参考:男冥利に尽きるーー『おんな城主 直虎』“之の字”こと中野直之の生き様に賞賛の声

 柴咲コウ演じる直虎が、再びこの言葉を使った。「奪いあわずとも生きられる世を作りたい」と21話で龍雲丸(柳楽優弥)に語り「世を作る?」と笑われた時、直虎は同じように「やってみねばわからぬ!」と答えた。だが、政次(高橋一生)はじめあらゆるものを失った後の38話で、直虎が語った夢を蒸し返してきた龍雲丸に、彼女は苦笑まじりに「若かったの」と答える。そしてようやく彼女は、47話において「戦わずして勝つ」ために死力を尽くす家康(阿部サダヲ)と万千代(菅田将暉)の姿に、自分と政次のかつての姿を重ね、「やってみねばわからぬ」と白い碁石を手に持ち「世を作る」という途方もない夢を追いはじめるのである。

 このドラマを喪失と再生の物語であると定義するならば、『おんな城主直虎』はこれまで3度の転換期を迎えてきた。1度目は三浦春馬演じる直虎の元許婚・直親の死、2度目は、高橋一生演じる井伊家家老・小野但馬守政次の死、そして3度目は、平埜生成と菜々緒演じる、家康の嫡男・徳川信康と家康の正室である瀬名の死である。そしてその悲劇は常に、主人公はじめ残された人々がその死をどう乗り越えるかという課題と共にあった。彼らは苦しみぬき、それを乗り越えることによって、新たな道を切り開いてきたのだ。

 瀬名と信康の死によって、それぞれの悲しみ・無力感・憤りを抱え、人生の岐路に立たされた家康、万千代、直虎の3人。彼らはこれからの人生を定め、亡くなった人々の意志を継ぎ、生き残った人々の中で新しい関係を構築していくことになる。万千代の後見としての直虎、家康の息子代わりの相談相手としての万千代という理想の関係がようやく築かれようとしている。

 47話において特に目を引いたのが、登場人物たちの中でこれまでになく頻繁に現れる、政次の存在だ。なぜ彼の死後10数話以上経った後でこんなにも頻繁に彼の存在が強調されるのかというのは、特筆すべき点である。

 父親・家康の努力の甲斐もなく信康が死に至るまでの45・46話は、それこそ政次と直虎の関係、その死を重ね合わせるかのような「囲碁」の物語だったことを影の伏線していた。46話の終盤において南渓(小林薫)が、政次の死によってボロボロに傷ついた直虎から一旦取り上げ、その後幼い万千代にチラつかせた、政次の「次の一手を託す」という思いを意味する白い碁石。それを直虎に戻すことによって、彼女は再び政次に関わる意志を持つ。之の字こと中野直之(矢本悠馬)が、直虎にまたも振り回される戸惑いを1人井戸に話しかける形で政次に語りかけ、それを聞いていた直虎もまた、政次の真似をして返すのも、微笑ましく印象的だった。

 万千代は、亡き信康の意志を継ぎ、その変わり身となって家康に仕えようと決めるが、彼が変わり身となったのは、信康だけではなかった。「かようなことはいつまで繰り返されるのか。同じように首を望まれ、同じように差し出すことを止められず」と直虎に吐露した万千代の心には、信康や瀬名だけでなく、慕っていた家老・政次、父親である直親の死の記憶がある。だから彼は「生き残ったものにできるのはせめてその志を宿すこと」という直虎の助言通りに、「負けた意味は次に勝つためにある」という政次の言葉を失意の家康に語って聞かせることで、信康だけでなく政次の意志もそこに宿すのである。

 46話の終盤で、万千代の中に確かに息づいている政次の意志が示された後、47話において、今度は直虎が、家康の言動に政次の姿を重ねる。そして家康と万千代が碁石を並べながら戦わずにすむ方法を練っていることを知り、かつての自分と政次を重ね、「そうか、そうなるのか虎松は」と涙ぐむのは、万千代の中に確かに政次が生きているということを認識したからであろう。

 直虎はかつて戦さから逃げようとして逃げられなかった過去、死んだ政次と、虎松(幼少の万千代)の身代わりに殺された名もなき幼な子、気賀で行方知れずになった龍雲党の仲間たちのことを振り返り、「戦さをせぬという戦さ」をするという形で彼らの「弔い合戦」をしたいと告げ、動き始める。城や家名を捨てることで、井伊谷の地と人々を守り抜き、「おとわ」として平穏な日々を過ごしながら虎松の成長を待ち、満を持したタイミングで、彼女は再び亡くなった人々の思いを背負う。おとわは、徳川を動かすことによって戦国の世までも動かそうとするタイトル通りの「おんな城主 直虎」に戻ろうとしている。(藤原奈緒)