港区在住。遊びつくした男が、40歳で結婚を決意。

妻には、15歳年下で、世間知らずな箱入り娘を選んだ。

なにも知らない彼女を「一流の女性」に育てたい。そんな願望もあった。

誰もが羨むリッチで幸せな結婚生活を送り、夫婦関係もうまくいっていたはず…だったのに。

4年後、妻が、何の前触れもなく、離婚を切り出す。しかも、思いもよらぬ「離婚条件」を提示して。

世間を知り尽くして結婚した男と、世間を知らずに結婚してしまった女。

これは港区で実際に起こった、「立場逆転離婚」の物語。

15歳年下の妻・利奈(りな)に突然離婚を切り出された夫・昌宏(まさひろ)。2人はすぐに別居したが、夫が強引にマンションでの話し合いに持ち込む。そしてお互いの本心を知った夫婦に最終決断の時が迫る!




「私たちは、これから…このまま一緒にいて、お互いが望むような人に変われるのでしょうか?」

妻・利奈が、つぶやくように発した言葉。

それは僕が「僕が今から変われたら、僕たちはまた始められるか」と聞いたことに対する答えなのだろうか。

「それはつまり…僕は、君が望むようには変われない、って言いたいのか?」

もう遅い。私たちがやり直すことはできない。

そう言われた気がして、やるせなくなった。妻の顔を見つめていられず、視線を泳がせると、ガラスのテーブルの上に置かれた妻の手に、ギュッと力が入るのが見えた。

―指輪、どうしたんだろうな。

何もつけられていない左手の薬指。

いつもピンクページュに上品に整えられていた爪は短く切り揃えられ、ネイルは塗られていない。

ああ、そうだ、料理教室の先生だからだよな。

分かっていながら、自分の知らない変化に寂しくもなる。

黙ったままの妻が、必死に言葉を探しているのが分かる。そのための沈黙だとわかっていても、もどかしくて、辛い。もう一度同じ質問を投げかけようと思った時、妻が口を開いた。

「あなたが、というより、私が変われるのかということなんです。」

「利奈は努力して変わったじゃないか。だから僕にも…。」

―チャンスをくれないか。

そう言おうとして、言葉に詰まってしまった。自分の言葉が随分安っぽく感じる。

何をどう伝えれば、彼女に僕の本気が伝わるのだろうか。今度は僕が言葉を探す。その沈黙を破って、彼女が言った。

「でも今変った私は、あなたが望んだ私ではないでしょう?」

正直に言うと、そうだ。けれど。

「僕が望む、望まないというより、新しい君を、僕が知らなかった君を知りたいと思うよ。その気持ちに嘘は無い。」

信じてもらえなくても、何度でも言わなければならない。彼女を失いたくない。今、この瞬間本当にそう思っているのだから。

「あなたが、こんなに正直に話してくれたのは初めて、ですね。」

そう言った彼女の表情は穏やかで、僕は少しだけ、嬉しくなる。

「だから私も、正直に話そうと思う。たとえあなたを傷つけることになっても。」

彼女の語尾から、意図してなのか敬語が消えた。

「私が変わろうと決意したのは、きっと、あなたに復讐したかったから。」

―復讐したかった。

強く言い切られた言葉が、耳鳴りのように僕の頭の中で鳴り響く。そして…。

そう言い切った妻の…利奈の顔が、痛みに耐えるように歪んでいたことが、僕をますます混乱させた。


妻が自分でも気が付ついていなかった、夫への思いとは?


利奈「あなたに、私と同じくらい傷ついて欲しかった」


さっき…夫に「やりなおせないか」と問われたことで、私は、自分が抱えていた本当の「問題点」に気が付いてしまった。

「私は藍子さんみたいに、自分の力で生きていける女じゃないから、あなたにバカにされているのだと…。だから無理やり夢を奪われたのだと思って、必死で強くなろうとしてきました。」

夫は、私が何を言おうとしているのか、全く分からない様子だった。

「あなたが、私のことを思ってお茶を取り寄せてくれたみたいに…。あなたが本当はどう思っているのか、どれだけ私を思ってくれていたのか、あなたのことを思いやる余裕なんか全くなくて。」

今なら彼が私を、なぜ「守ろう」としていたのかがよくわかる。

私は本当に子どもだったのだ。自分のことしか考えられなかった子ども。

自分の言葉に情けなくなり私がうつむいた瞬間、冷蔵庫のファンの音が鳴った。

外の騒音が聞こえない、防音システムに守られたマンションのリビングで、耳障りな重低音が響く。その音がおさまるのを待つ、という言い訳を自分に許し、気持ちを落ち着かせる。

ファンの音が止まり、完璧な静寂が訪れた。私は覚悟を決め、顔をあげ言った。

「ただ、自分の恨みや憎しみにとらわれて…自分だけが傷ついていると思っていたから。あなたを恨んで、あなたに私と同じくらい傷ついて欲しかった…んだと思います。今思えばあなただって辛かったはずなのに。」

夫の表情が少しだけ、揺らいだ気がした。

「私の大切な夢を奪ったあなたを、私が裏切ることでダメージを与えたくて、力をつけようと着々と準備を進めたんです。自分のことしか考えていなかった、そんな私を許せますか?」

「…許せると思う。」

「もう一度話し合う努力もせず、自立していくことが楽しくなって、それで自分が強くなれたのだと勘違いした。そして」

夫の返事を待つのが怖くて、一気に続ける。

「ずっとあなたのお金に守られて暮らしていたのに、自分で生活ができるようになったところで、あなたに離婚を切り出すような女を、あなたは、この先ずっと、本当に許せますか?信じられますか?」

「…努力する。」

優しい声に心が揺れる。でも、努力しなければならないのは彼より私のほうだ。

ずっと、彼に振り向いて欲しいと思い続けた結婚生活だった。彼が私のことを見ていてくれたことを知って嬉しいと思った。きっとまだ彼のことを愛しているのだろう。

だけど私には、もう一つ…今日、気がついたことがある。

「私はたぶん、ずっと、あなたに劣等感がありました。そこから解放されなければ、きっとまた同じことを繰り返してあなたも傷つける。だから、あなたと離れるしかないと、今は思うんです。」

外の世界に出て1人で生きていくことが大変だと知った。それでも、何も知らなかった頃にはもう戻れない。

「あなたに甘えず、今度こそ、本当に…自立したい。」

そう今度こそ私は、本当に大人になりたい。

精一杯、彼から目をそらさず言いきった。彼も私をまっすぐに見つめている。

悲しくて胸が痛い。

けれど今、私たちが求めるものが違ってしまったことを、もうごまかすことはできない。


昌宏「僕も立ち上がり、彼女に背を向けた」


テーブルの上に置かれた利奈の手が、真っ赤に染まるほど強く握られ、可愛そうなほど震えている。

―もういい。彼女の言う通りに…解放しよう。それが今僕が彼女にできる、唯一のことならば。

僕は彼女の手に、そっと自分の手を重ねた。彼女の肩がびくっと震え、彼女は顔を上げた。

「離婚届、君の判はもう押してあったよな。とってくる。」

その言葉に彼女が泣きだす。僕もこみ上げてきた涙をごまかしたくて、立ち上がり彼女に背を向けた。



ついに離婚。年下妻の旅立ちに、その時夫は?




ー翌朝―

エントランスを出て、マンションを振り返る。手にはトランクが1つ。残りは郵送したが、それでも私がこの家から持ち出した荷物は少なかった。

私は、4年暮らした、夫がいる最上階の部屋を見上げた。

―今まで、ありがとうございました。

心でつぶやきながら、頭を下げる。

彼は今、どんな顔をしているだろうか。

昨夜、離婚届けに夫が判を押してくれた後、私は涙が止まらず、2人とも眠れぬまま、夜が明けた。

朝日が昇ると、彼は私の荷造りを手伝い、私は見送られたくないと言ったけれど、彼は玄関まで送ると譲らなかった。ドアを開け、振り返ると、離婚届けを手渡された。

「利奈の好きな時に出して。僕が持ってると、いつまでも出せそうにないから。」

彼は笑ってそう言った。このままでは、また泣いてしまう。

本当はきちんと挨拶をして別れたかったのに、もうこれ以上涙を見せたくなくて、私はあわてて彼に背中を向けた。背中を向けたまま「じゃあ、行きますね」というのがやっとで、それが最後の言葉になってしまった。

私が歩き出してからも、玄関のドアが閉まる音は聞こえなかった。エレベーターの前まできて、恐る恐る振り返ると、彼がまだこちらを見送っていた。

私が小さく手をあげると、彼も同じように手をあげ、部屋の中へ入った。扉が閉まるとき、彼が最後にどんな顔をしていたのかはわからなかった。

マンションの前に立ち尽くす私を怪訝に思ったのか、車寄せのスタッフが、何かお困りですか、といったような目配せをする。私は、無理やり笑顔を作って首を横に振り、息を大きく吸い込み深呼吸をすると、マンションに背を向けた。

「…ありがとう。」

もう一度つぶやいて、マンションから…彼から離れる、最初の一歩を踏み出す。二歩、三歩、マンションが遠ざかっていく。

ガラガラというトランクの音が、不安と寂しさをごまかしてくれている。もう守ってくれる人はいない。けれどそれが幼いなりに、今の自分が選んだ道なのだから。



「指輪は、リビングの引き出しに入れてあります。」

利奈はそう言って出て行った。主(あるじ)に置いて行かれた結婚指輪の箱。

―こういうのって、どうするものなんだろうな。

箱を開け指輪を手にとり小指にはめてみる。第一関節で止まった華奢で小さな指輪を眺めながら、利奈の未来を思う。

―もう本当に…そこに、自分が存在することはできないのだろうか。

離婚届けに僕が判を押した後、彼女は泣き声のまま「4年間、ずっと子どもでごめんなさい」と言った。

けれど変わろうと努力する今の彼女こそが、成長した証だということを、僕は教えずに、別れた。

―捨てられたんだから、これくらいの意地悪、してもいいだろ。

今さら、彼女をこんなに愛おしく思うなんて。

虚しい思いで、ため息をついた。

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ついに離婚した2人。しかし新しい関係がはじまる!?