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忘れ去られたクルマたち

これから紹介する55台の販売台数はわずかであり、その結果現在ではほとんど忘れ去られてしまっている。中にはキャデラック・シマロンやサオ・ペンザのように、完全な失敗作だと見做すべきクルマがあることは事実だが、一方で、決して失敗などではなく、むしろ別の評価を受けるべきだったクルマも存在する。

まずは米国向けのクルマから始めて欧州モデルを見た後に、最後は驚くほど名の知られていない英国製モデルたちをご紹介しよう。

米国モデル-ブリックリンSV-1(1974年)

カナダで生産されたブルックリンSV-1は起業家マルコム・ブルックリンが描く安全なスポーツカーを体現したモデルだった。マルコムは安全性の何たるかを正確に理解していたに違いない。

SV-1にはスチール製ロール・ケージとサイド・レールに加え、車両の前後には大型バンパーが組み込まれていたが、彼はスポーツ性については忘れていたようだ。当初SV-1は223psを発揮するAMC製V8エンジンを搭載していたが、後に排ガス抑制のため出力を絞られた177psのフォード製V8にとって代わられ、3段ATと組み合わされた。

このクルマは長く続いたマルコム・ブルックリンの自動車キャリアを汚す存在だろう。彼はスバルの米国市場参入を助け、1980年代にはフィアットのミッドシップ・モデルであるX1/9をベルトーネのブランドで販売した男でもあるのだ。

ジープCJ-8(1981年)

ジープCJ-8はCJ-7のホイールベースを10インチ延長したモデルである。CJ-7の伝説的なオフロード性能は受け継いでいたが、作業用というよりもレジャー向けの性格を与えられたことで、クラスのなかでは特異な存在となった。ジープ社は2004年にTJシリーズのラングラー・アンリミテッドを発売するまで、このクルマの生産を続けた。2020年までにラングラーをベースにしたピックアップ・モデルの計画が公表されている。

キャデラック・シマロン(1982年)

シマロンはBMW 3シリーズや発売間近のメルセデス・ベンツ190のようなコンパクト・ラグジュアリーカーに対するキャデラックが待ち望んだ回答だった。ゼロからエントリー・モデルの開発を行う代わりに、キャデラックはシボレー・キャバリエをベースにするというやり方を選択したが、これはメルセデスがルノー18をベースに190を仕立て上げるようなものだった。

アンダーパワーであるだけでなく、明らかに簡素なシマロンはまさに失敗作であり、V6モデルを加え(のちにはV6が標準モデルとなった)たものの、このテコ入れはモデルの命脈を保つには手遅れだった。シマロンはキャデラックの歴史の中で恥ずべきモデルとして記憶されている。2004年から2010年にかけてキャデラックの製品責任者を務めたジョン・ハウウェルは、自身のオフィスに「追悼」の文字を入れたシマロンの写真を置いていた。

メルクールXR4Ti(1985年)

欧州では馴染み深いモデルかも知れないが、多くのアメリカ人にはそうではない。フォードは欧州モデルのシエラXR4TiでBMWやメルセデス・ベンツ、アウディの攻勢をかわす事が出来ると信じていたのだ。米国市場への導入に伴い、メルクールと呼ぶ新たなブランドでの販売を選択したが、これはこのブランド名がドイツ車のような響きを持っていたからであり、計画はボブ・ルッツからも支持された。

米国向けモデルではV6に代わってターボチャージャー付2.3ℓ4気筒エンジンが搭載され、車名にはターボ付きであることを示す「T」が用いられた。何故か42,000台をドイツから輸入したあと、フォードはXR4Tiを退役させることにし、より大型のメルクール・スコーピオも同じ運命を辿る結果となった。その後、2016年のフォーカスRSまでフォードがドイツから車両を輸入することは無かった。

ビュイック・レアッタ(1988年)

クーペとコンバーチブル・ボディを持つレアッタは1980年代後半、ビュイックの最上級モデルとして位置づけられた。ミシガン州ランシングにある工場でほぼ手作業で生産され、時代を先取りしたモデルとして、購入者は16カ所の調節が可能なシート、オートマチック・ヘッドライトやタッチスクリーンも選択する事が出来たが、これら先進的な仕様はこのモデルの生産終了までに消えていった。

ビュイックは1988年から1991年までに約22,000千台のレアッタを製造したが、このモデルの後継が作られることはなく、以降ビュイックでは2シーター・モデルの販売を行っていない。

クライスラーTC byマセラティ(1988年)

クライスラーとマセラティの親会社であったデ・トマソは1980年代中盤にスポーツカーの共同生産に合意した。このアイデアは一見素晴らしいものであり、クライスラーはマセラティの名声のもとでフラッグシップ・モデルを製造し、米国市場で他の洗練された2ドアのライバルたちへ対抗しようと考えた。

しかし、TCの組立をミラノで行うという決定は約2年も生産開始を遅らせることとなった。エンジンはコスワース・デザインの16Vヘッドを持つ2.2ℓ4気筒エンジンや三菱製V6などを選択することが出来た。クライスラーは米国へ約7,300台を輸入したあと、この計画の中断を決断した。もしマセラティ製エンジンを採用する事が出来ていれば、TCの運命は大きく変わっていただろう。

ダッジ・ダコタ スポーツ・コンバーチブル(1989年)

1989年にこのクルマが正体を現した時、ダッジ・ダコタ スポーツ・コンバーチブルを見た人々は「これは何だ?」と思い、「なぜ?」と考え込むことになった。その名が示すとおり、このクルマはダコタのソフト・トップ付きモデルであったが、「スポーツ」という名前は多くの議論を呼ぶこととなった。このモデルは短命に終わり、フォードとシボレーの間での競争を生むことは無かったが、今でも1980年代の最もユニークなピックアップの1台であり続けている。

サターン・Sシリーズ(1990年)

「少し違った自動車メーカー」として設立されたサターンは、GM帝国の他のブランドと一線を画すべく、経済的なモデルを作り出すため今までにないアプローチを選択した。しかし実際には、これは1980年代を通じて日本車にシェアを奪われてきたGMの対抗策であった。

サターン最初のSシリーズはセダン、ワゴンとクーペスタイルを持つプラスティック製ボディの低燃費車だった。このモデルは値引き無しのワン・プライスを掲げ、最初のクルマが生産されたわずか5年後の1995年にはその生産台数は100万台に達した。大量に生産され、大量に廃棄されたため、現在米国の路上でサターン・Sシリーズを見かける機会はほとんど無い。

イーグル・ビジョン(1992年)

ビジョンは1990年代初頭のエアロダイナミック・スポーツ・セダンに関するイーグルのビジョン(つまらないダジャレで申し訳ない)を体現していた。欧州のルノー25をベースにしたイーグル・プレミアの後継モデルとして設計され、ダッジとクライスラーの姉妹車種とLHプラットフォームを共有していた。パッとしない性能といい加減な組立品質がこのクルマの命運を決することになり、クライスラーは1997年をもってイーグル・ブランドを廃止した。

ホンダ・パスポート(1993年)

ホンダ初のSUVの実態はいすゞ製だった。ゼロからオフロード・モデルを開発する代わりに、ホンダはいすゞに対して、ロデオにホンダのエンブレムを付けることを求めたのだ。このあからさまなバッジ・エンジニアリングにもかかわらず、ホンダの素晴らしいクルマ作りの評判によって、このクルマは米国で驚くほどの人気モデルとなった。このモデルはホンダのオリジナル・モデルであるパイロットが登場するまで2代に渡って作り続けられた。

ダッジ・ネオンACR & ダッジ・ネオンR/T(1995年&1998年)

クライスラーが平凡なモデルをベースに作り出したこのダッジ・ネオンをパフォーマンスカーに作り替えるという作業は言うほど簡単なものではなかった。ダッジはこの難問への回答として、安価でよりスポーツ性の高いクルマを求めるエンスージャスト向けにネオン・アメリカン・クラブ・レーサー(ACR)を作り出した。

ベース・モデルに対して、152psを発する2.0ℓ4気筒エンジンとショート化されたファイナル・ギア、ギア比を小さくしたステアリングに固められたサスペンションが採用された。更に1997年モデルでは調整式コニ製ダンパーが採用され、エアコンとラジオの装着も選択式となった。もちろんBMW M3ではないが、ネオンACRは1990年代に開催されたSports Car Club of Americaのイベントでは成功を収める事が出来た。1998年に導入されたネオンR/Tはより公道向けにACRを改良したモデルである。

スズキX-90(1995年)

X-90はスズキが独立したトランクと取外し可能なルーフ・パネルを採用することで、ビターラ(日本名:エスクード)をよりライフスタイル型のクルマにしようとしたモデルである。非常に安価なプライス・タグを掲げた小さなSUVモデルは米国でも大きなブームを引き起こすだろうと思われたが、X-90は完全な失敗に終わり、スズキは2年で生産を打ち切った。いまではレッド・ブルのコマーシャル車両として人々の記憶に残っている。

キャデラック・カテラ(1997年)

1990年代のシマロンの大失敗の反省から生まれたモデルである。キャデラック・カテラは何となく見覚えのあるような見た目をしているが、それはこのクルマが欧州ではヴォグゾール/オペル・オメガとして知られたモデルだったからだ。さらにこのクルマにはキャデラックがクラスを支配するメルセデス・ベンツとBMWにバッジ・エンジニアリングで対抗する狙いも込められていた。しかし、高級車の購買層がこのクルマを真剣に検討することはなく、アヒルに似たZiggyというアニメ・キャラクターを使った広告も助けにはならなかった。

いすゞ・ビークロス(1997年)

いすゞ・ビークロスは独特なスタイルのSUVを欲しがる人々の期待を越えたモデルだった。1993年にコンセプト・モデルが発表されると、その大胆なデザインが注目を集めることとなった。いすゞはこのモデルを6,000台に満たない数しか生産しておらず、そのほとんどは米国市場向けだったが、日本市場でも少数が販売された。

マーキュリー・マローダー(2003年)

2003年、マーキュリーはグランド・マーキーのハイ・パフォーマンスモデルに対してマローダーの名前を復活させた。このフレーム構造を持つ大型クルーザー・モデルはタクシー会社やハイヤー会社から高い評価を受けることとなった。

4ドアのマッスルカーとして登場したマローダーにはフォード・マスタング・マッハ1由来の306ps、4.6ℓV8エンジンが搭載された。このモデル特有のグリル・デザインと着色されたライトなどの外観上の変更により、他のパンサー・プラットフォームをベースにしたサルーン・モデルとの差別化が図られた。マーキュリーによって約11,000台が作り出されたあと、マローダーは2004年にその生産を終え、2011年にフォードはマーキュリー・ブランド自体をお蔵入りにした。

シボレーSSR(2003年)

2000年代前半にシボレーはライバルのクライスラーを追いかけてレトロカー・デザインに足を踏み入れた。クライスラーがPTクルーザーを導入した数年後にシボレーはHHRで反撃の狼煙をあげ、プリムス・プロウラーが登場すると、シボレーはスーパー・スポーツ・ロードスター(SSR)を生み出したのだ。

1940年代のピックアップ風ボディにより、シボレー・トレイルブレイザーとプラットフォームを共有していることを隠したV8エンジン搭載のモデルであった。2シーターであり、トノ・カバーに覆われた荷台とリトラクタブル式のハードトップが備えられていた。ビュイック・レアッタと同じ工場で25,000台に満たない数が生産された。

GMCエンボイXUV(2004年)

GMCは米国の人気モデルであるピックアップ・トラックとSUVを融合させたクルマを作り出そうとして、エンボイXUVと名付けた。パッと見には普通のSUVに見えるが、折り畳み可能なリア・ルーフを備えることで、背の高い荷物も簡単に積み込めるようになっていた。また、シボレー・アバランチの様にキャビンと荷室を分ける折り畳み式の中間ゲートも備えていた。

このアイデア自体は目新しいものではなかった。1963年式スチュードベーカー・ワゴニアでも同様の提案が行われていたのだ。エンボイXUVはシボレーのコピーではないGMCモデルの1台として今も傑出した存在である。

アキュラZDX(2009年)

アキュラはZDXを4ドアのファストバック・モデルとしてではなく、2ドア・クーペとして開発していたことをひそかに認めている。

市場調査の結果、2ドアモデルでは顧客の支持が得られない事が明らかとなったため、土壇場で2枚のドアが追加されたのだ。しかし、ドアの数はその独特のデザインほどには重要ではなかったのかも知れない。

米国市場におけるZDXの販売は、発売後初めて12カ月の販売期間となった2010年の3,259台をピークに急減した。2011年には1,564台、2012年は775台、そして生産が終了した2013年には362台の販売に留まり、2014年には78台となった。最後に売れ残った2台は2015年にようやく嫁ぎ先を見つける事が出来た。

サーブ9-4X(2011年)

9-4Xはサーブが長く待ち望んだ小型の高級SUVモデルだった。キャデラックSRXと基本コンポーネンツを共有していたが、2代目9-5にヒントを得たサーブ特有のデザインを纏っていた。しかし、9-4Xの登場もサーブを破綻への道から救い出すには遅すぎた。サーブの記録によれば、9-4Xは2011年の2月から12月の間に1,000台以下しか生産されなかった。

欧州モデル-ゴライアスGP700(1950年)

たった2気筒の2ストローク688ccエンジンを積んだだけのクルマにもかかわらず、GP700は前輪駆動と1952年としては現代的なデザイン、更にはフューエル・インジェクションを搭載した非常に革新的なモデルだった。

ボルボP1900(1956年)

これはタイプミスではない。有名なP1800の前にP1900は確かに存在したが、その生産数はわずか68台に留まる。FRP製ボディのシボレー・コルベットに着想を得たグラスファイバー製ボディを持つオープン・スポーツカーであった。

ファセル・ベガHK500(1959年)

もし1950年代の終わりから1960年代の初頭にかけて速くて豪華、そして高級なグランド・ツアラーが欲しければ、ファセル・ベガこそが訪ねるべきメーカーだった。

1954年のFVに始まり、このモデルは1957年に改良されて5.9ℓまたは6.2ℓシボレー製V8エンジンを持つHK500となった。

ここで紹介するどのモデルよりもよく知られたクルマであるが、ファセル・ベガはフランスが高級車ブランドを生み出す最後のチャンスでもあった。フランスの小説家、アルベール・カミュが事故死した際に乗っていたクルマとして記憶される以上の価値があるモデルである。

しかし、ファセル・ベガ自身もカミュの死から4年後の1964年に同じ運命を辿る事となった。

モンテヴェルディ375(1967年)

スイスのBMWインポーターであったペーター・モンテヴェルディは1967年に自身の手でスーパーカー生産に乗り出した。その後の10年間で名高い7.0ℓを積んだ写真の375Lハイスピードを含め、クライスラー製エンジンを搭載したスーパーカーの生産を行った。

フィアット・ディーノ(1967年)

フィアット・ディーノは同じ名前を持つフェラーリと2.0ℓまたは2.4ℓV6エンジンを共有していた。全ての車両は左ハンドルとして生産され、ピニンファリーナがデザインしたスパイダー・モデルと、ベルトーネ・デザインのクーペが存在した。

イソ・レーレ(1969年)

イタリアのメーカーであるイソはイセッタ・バブルカーの生産に端を発する。BMWがその権利を買い取ったために、イソには生産コストの高い、大型のV8エンジンを積んだレーレのような高級車の生産だけが残され、最終的に317台が作られた。

ランボルギーニ・ハラマ(1970年)

実質的にはランボルギーニ・エスパーダの小型版として、ハラマは同じく355psから391psを発生する3929cc V12エンジンをフロントに積み、1969年から1974年の間に327台のみが生産された。