東京には、いろいろな妻達がいる。

良き妻であり、賢い母でもある良妻賢母。

夫に愛される術を心得た、愛され妻。

そして、あまり公には語られることのない、悪妻ー。

これは、期せずして「悪妻」を娶ってしまった男の物語である。

女性の美に並々ならぬ執着を持つ藤田は、若く美しい妻、絵里子と結婚するも、振り回され続ける。




目覚めたら、消えていた妻


眩しいほどの日差しで、藤田は目を覚ました。

独り住いの時とは違う、陽の光が当たる大きなベッド。ここで寝起きするのにも、藤田はようやく慣れてきたように思う。

だが、いつもと少し感覚が違うことに、すぐ気がついた。

横に寝ているはずの絵里子がいないのだ。

いつもは、自分よりもずっと後に起きてくるはずの絵里子。

シーツを確認すると、だいぶ冷たい。一体、いつからいないのだろうか。

急いでサイドテーブルのメガネをかけ部屋中を探したが、絵里子の気配はない。

「あいつ、どこに行ったんだ…?」

他の部屋にいるのかもしれないと思い、リビング、バスルームと一通り見て回る。しかし、絵里子の姿はどこにもない。その時、スマホのアラーム音がなった。

ー午前6時。

絵里子のためと引っ越したここ広尾のマンションから、大手町の会社まではドアツードアで40分近くかかる。

必然的に以前より朝早く起きることになった藤田だが、そんな暮らしを続けているうちに自然に体が午前6時前に目覚めるようになったのだ。

アラームをオフしようとスマホを見ると、消えた絵里子からのLINEがきていた。

ー最近の藤田さんの度を越した束縛には辟易しています。帰りたくなったら帰ります。絵里子

にっこりと微笑む絵里子の自撮りのアイコンが、このメッセージの冷淡さとそぐわず、藤田は奇妙な感覚を覚える。

ここを出て、絵里子は一体どこに泊まるというんだ?

だが、”度を越した束縛”というものに少しだけ身に覚えのある藤田は、その場で悶々としてしまった。


絵里子は一体、どこへ消えたのか?


「優しい」女性


確かに自分は、少し絵里子に干渉しすぎていたかもしれない。

だが、いきなり梅原という得体の知れない起業家の秘書として働くと言い出し、週に3度は昼も夜も梅原と食事をしているらしい絵里子の生活を見ていれば、それは夫として当然の心の動きなのではないか。

帰りの時間を知らせるように口を酸っぱくする自分が、絵里子から疎まれていることは気がついていた。

だが、どうしても嫉妬心をコントロール出来なかったのだ。




とにかく絵里子を探すしかないのだが、藤田は絵里子を探そうとして、自分が絵里子の友人や交友関係などを一切把握していないことに気がつく。

梅原の会社に連絡してみることも考えたが、夫としてのプライドがあり、それは出来ない。

絵里子の実家の連絡先は一応控えているが、こんな形で連絡を取るのも気が引けた。もちろん、絵里子はLINEにも電話にも返信をよこさない。

どうせ週末の間だけ友人の家にでもいるのだろうとタカをくくっていたが、絵里子は月曜日の朝になっても帰宅せず、藤田は精神的に消耗していった。



「藤田さん、どうしたんですか?顔色、凄く悪いですよ…?これ、よかったらどうぞ。」

声をかけてきたのは、同僚の小野友里江だった。

週末はろくに眠れず、食事もほとんど摂っていなかったからか、自分でもひどい顔をしているという自覚はあった。

そんな時に、良い匂いのするカップスープを持ってデスクに来てくれた小野に、藤田は素直に好感を持つ。

いつもはインスタントの食品になど目もくれないのに、体は正直に空腹を知らせた。一気に飲み干し、礼を言う。

「何か悩みごとですか?私で良ければ、いつでも相談に乗りますよ。」

そう言って笑顔を見せる小野は、普段よりもいくらか女性らしく見えた。ふと、絵里子のことを相談してみようかという考えが脳裏を過ぎる。

妻が家出をしたことを知られるのは痛手だが、藤田は小野をランチに誘うことにしたのだった。


常識のある女の考えとは?


女の敵、絵里子


「え…それ、藤田さん全然悪くないじゃない。」

小野友里江は、カップスープのお礼にと招待した『クラブ レストラン センチュリーコート 丸の内』の席で、絵里子の家出の話を聞き、文字どおり目を丸くしている。




「そうなのかなぁ…。」

藤田が自信無く答えると、小野が力強い口調で続ける。

「結婚した女性がそんな風に奔放に過ごす事自体、ありえない事だと思う。それに、藤田さんからそんなに尽くしてもらっているのに、ワガママ過ぎるわ。」

藤田は、極めて自分の感覚に近い考えを持つ女性がいる事に、安堵した。やはり、自分がおかしいわけではないのだ。

だが、小野が発する”藤田さん”と、絵里子の発する”藤田さん”の違いと言ったらどうだろう。

絵里子に藤田さん、と呼ばれると、なんとも満ち足りた、甘やかな、それでいて危険な魅力を感じる。

言ってみれば、雄としての本能を最大限に刺激されるような…。

そんな蜜のように甘ったるい声をしているのが、絵里子という女だ。

「ともかく、藤田さんはこのまま強硬な態度に出て良いと思います。若い女性って、謝ったり下手に出たりしたらますます調子に乗っていくだけだと思いますから。で、帰ってきたらきちんと怒ることですね。」

小野の発する乾いた「藤田さん」に現実に引き戻されたが、やはり女性目線のアドバイスはありがたかった。

そのまま出先でのミーティングに向かい、重い足取りで帰宅した。

誰もいないリビングで独り赤ワインを飲んでいると、急に母から連絡があった。

「もしもし直樹?あなた、今週末何してるかしら。2人の新居に遊びに行きたいんだけれど…。」

よりによって、絵里子がいないこんな時に来てもらっても困ってしまう。今週は都合が悪いことを告げると、母は畳み掛けるように続けた。

「もうすぐ40歳になる息子の決断にあれこれ言いたくはないんだけどね。あのお嫁さんは、私どうかと思いますよ。」

いかに絵里子が妻としての常識がないかを、この生活の内情を知らない母でさえ訴えてくる。小野や母の言う通り、やはり絵里子は美しいだけの、とんでもない悪妻なのかー。

そんな風に思案していると、玄関のドアがゆっくりと開く音が聞こえた。

「絵里子?」

慌てて駆け寄ると、そこには3日ぶりに見る絵里子の姿があった。変わらず、神々しいまでに美しい。見たことがないニットのワンピースを着ているが、それがとてもよく似合っている。

藤田はプライドも、母たちから言われたことも忘れ、絵里子に抱きついた。

「心配したよ…。LINEにも全然返信ないし。よく帰ってきてくれたね。お帰り。」

「ただいま。」

絵里子は疲れた顔で、スタスタとリビングへ戻りソファに座り込んだ。赤ワインを注いでやると、「チーズとかないの?」と言う。いつもの絵里子だ。

日常が戻ってきたことで嬉しくなった藤田は、絵里子がどこへ行っていたかなどどうでも良い気がしてきた。

だが、今後またいなくなっては困るので、機嫌を伺いながら確認する。

「で、絵里子ちゃん。どこに行ってたの?心配したんだよ。」

絵里子はゆっくりと口を開き、家を空けた3日間のことについて語り始めたー。

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絵里子は一体どこへ行っていたのか?次週、明らかに。