【E−1選手権前に振り返る】日本代表、中国との激闘の歴史

写真拡大

 日本サッカー界に夜明けが訪れる前の、プロとアマチュアのはざまで揺れ動いていた過渡期。中国代表に喫した痛恨の黒星とともに、日本代表は非情な現実を突きつけられた。

 旧国立競技場で1987年10月26日に行われた、ソウル五輪出場を争うアジア予選最終戦。FW原博実(三菱自動車)のゴールを死守し、敵地・広州での第1戦を1−0で制した日本は、引き分けでも20年ぶりの五輪出場を決められる状況にあった。

 アジアの盟主・韓国が開催国となった関係で、アジア枠が一つ増える。銅メダルを獲得した1968年のメキシコ大会を最後に遠ざかっていた五輪出場の夢はしかし、0−2の完敗とともに打ち砕かれた。

 冷たい雨が降り続いた90分間。徹底的に守備を固め、カウンターに活路を見出す日本の戦法は、残念ながら可能性を感じさせなかった。5万人近い大観客が失望感を味わわされた。

 石井義信監督に率いられた日本の「10番」は、当時のプロサッカー選手登録制度「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」で第2号となったDF奥寺康彦(古河電工)がつけていた。

 当初は10月10日に予定されていた一戦は、まさかの理由で16日も後送りされた。実は11日に国立競技場で、日本サッカーリーグ(JSL)のオールスター戦が開催されている。芝生を保護する意味で、同じピッチで続けて試合はできない。収益面などが考慮され、日本サッカー協会(JFA)とJSL事務局はオールスター戦を優先させた。10月4日の第1戦を落としていた中国に、心理面と戦術面で立て直す時間を与えてしまった。

 ブンデスリーガ帰りの奥寺を擁しても届かなかった夢。守備的に戦わざるを得なかった状況やJFAの体制を含めて、プロ化を実現させなければ世界がさらに遠ざかってしまう。中国戦を機に共有された危機感が、Jリーグ発足への動きを加速させた。
 これまでの中国との対戦成績は11勝7分け7敗。ソウル五輪出場をかけた一戦では苦杯をなめさせられたものの、日本が頂点に立ったアジアカップではいずれも勝利を収めている。

 ハンス・オフト監督に率いられた1992年広島大会と、フィリップ・トルシエ監督に率いられた2000年レバノン大会はともに準決勝で激突。前者はFW中山雅史(ヤマハ)の、後者はMF明神智和(柏レイソル)の決勝弾で3−2で振り切った。

 そして、ピッチの内外で忘れられないのが、2004年中国大会だ。ジーコ監督に率いられた日本は、グループリーグ及び準々決勝の舞台となった重慶から、ピッチの外を騒然とさせた中国人ファンによる抗日行動とも戦い続けた。

 迎えた8月7日の決勝戦の相手はくしくも中国。北京の工人体育場には約6万人を超える大観衆が集結し、試合前の国歌斉唱はブーイングでかき消され、日本の選手がボールを持つ度に野太い罵声が浴びせられた。

 それでも日本は動じなかった。何度も直面した絶体絶命のピンチを乗り越え、決勝まで進んだ選手たちのメンタルは一回りも二回りもタフになっていた。逆風の中で団結力も高まっていた。例えば延長戦を終えてPK戦にもつれ込んだヨルダン代表との準々決勝では、GK川口能活(FCノアシェラン)がスーパーセーブを連発して敗退寸前だった日本を救った。

 済南で行われたバーレーン代表との準決勝では、40分にMF遠藤保仁(ガンバ大阪)が一発退場。2−3とリードされた後半の最後のプレーでDF中澤佑二(横浜F・マリノス)が起死回生のダイビングヘッドを決め、突入した延長戦でFW玉田圭司(柏レイソル)が決勝弾を叩き込んだ。

 そして中国との決勝戦。日本が誇る司令塔・中村俊輔(レッジーナ)の左足が黄金色の輝きを放つ。22分に直接FKをファーサイドの中澤の頭へ正確無比に通し、折り返しをMF福西崇史(磐田)が頭で決めて先制した。