「『賞が欲しい』のは、偉くなりたいんじゃなくて、お笑いのため(笑)」と語る/撮影=山田大輔/取材・文=magbug/スタイリスト=市村幸子

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週刊ザテレビジョン創刊35周年のメモリアルとして、本誌を彩ってきたテレビスターたちがテレビとの思い出を語るSPインタビュー企画を連載してきた。今回は最終回にして真打ち登場!! ビートたけしが描くテレビの未来とは? 「『何でレモン持つの?』なんて疑問も持たずに撮られてたけど、雑誌の表紙になるって、それなりにうれしかったよ」と語ってくれた“殿”に、これからのテレビについて聞いてみた!

【写真を見る】自身が表紙に写る'89年8月18日号を手に、思い出に浸る/撮影=山田大輔/取材・文=magbug/スタイリスト=市村幸子

■ 空前の漫才ブームからのサバイバル

デビュー以来、常にテレビ界のど真ん中に君臨し続け、第一線を張ってきたビートたけし。芸人、俳優、映画監督と、さまざまな顔を持つ彼が最初に世にその名をとどろかせたのは、27歳で結成した毒舌漫才コンビ、ツービートの片割れとして。’80年代初頭、日本中を席巻した漫才ブームの“台風の目”としてだった。

「漫才ブームのころは、平日テレビの演芸番組を掛け持ちして、土日は地方に営業に行くの。1日2回公演で、その営業が増えると同時にテレビの露出も増えるんで、テレビでやったネタを営業でやると、お客が『見たことある』と思ってるだろうなって感じがあって。だから新幹線や飛行機の中でネタを作るのが、ちょっとキツかった。それでも、キャーキャー言われるのがうれしい時代だから、まぁやってたんだけど、自分は漫才ブームなんて『ブ―ム』って言うくらいだから、いずれなくなるとは感じてたよね。だから俺が一人でしゃべって相方にツッコませるっていう当時のやり方には限界があるなと思ってた。その当時、萩本欽一さんがコント55号として出た後に、形を変えてテレビでメーンの立場で番組を仕切るようになってたんで、俺もあそこに行かなきゃダメだな、と」

その読み通り、ブームは程なくして終了。だが、後に一時代を築く「オレたちひょうきん族」(’81〜89年、フジ系)と、前後して始まった初の単独仕事であるラジオ「ビートたけしのオールナイトニッポン」(’81〜90年、ニッポン放送)との両輪で、「ツービートのたけし」にとどまらない才能を発揮。裏番組を蹴散らし、お笑い界のトップへと上り詰めていく。

「『―ひょうきん族』は最初の目標が打倒・ドリフ(裏番組のTBS系「8時だョ!全員集合」のザ・ドリフターズ)だったから、正反対のことをやろうと。あっちの、作り込んだコントの舞台の生放送という形に対抗して、話がどこに転がっていくか分からない、アドリブ連発の収録スタイルというふうにね。当時のテレビって世間のリアクションも大きくて、番組でウケなかったとき、次の日に街を歩いてると『あいつ、きのうつまんなかった』って言われちゃうの。ウケた翌日は、用もないのに外に出て歩いてたんだけどさ(笑)。で、そうするうちにだんだん中学生くらいの世代から支持されるようになって、ついにドリフを(視聴率競争で)ひっくり返してね。でも、もともとそれしか目標がなかったもんだから、向こうがダメになった後、こっちもすぐダメになっちゃったんだ(笑)」

■ 悪ガキ精神で無茶なヒット企画を連発

以後は破竹の勢いで「―元気が出るテレビ!!」(’85〜96年、日本テレビ系)、「―風雲!たけし城」(’86〜89年、TBS系)と、次々とヒット番組を連発。「スーパーJOCKEY」(’83〜99年、日本テレビ系)の名物コーナー「熱湯コマーシャル」など、今では絶対にあり得ない無茶な企画は、たけしの代名詞になっていった。

「テレビの全盛期だから『これはやっちゃダメ』とか全然ないんだよね。俺なんか足立区の悪ガキだったからさ、当時の遊びをそのままテレビでやってただけなの。(たけし)軍団を逆さ吊りにして水に漬けたり、緑山スタジオの敷地内に城建てて素人を泥だらけにしたり、よくやったよ」

「―たけし城」がいまだ海外で“類似番組”が絶えないのも、彼が遊びのルールを考える天才である証明だ。

「この前、もし著作権みたいなものを主張してたらって計算したヤツがいてね、70〜80億円はもらってるはずだって。実際はタダなんだけど(笑)。『―元気が出るテレビ!!』でも、テリー伊藤っていう頭のおかしい天才がいてさ(笑)、くだらない企画ばかり持ってきたな〜。『バカに東大生の血を輸血しても、やっぱりバカなのか』なんて、撮ったけどこれはさすがにマズイっていってボツになった企画もたくさんあるんだ」

■ 「笑われない」ために笑いを捨てた役者道

バラエティーで“殿”としての絶対的地位を確立する傍ら、彼が役者としての研さんを積んだ場所もまた、テレビだった。

「『戦場のメリークリスマス』(’83年)を映画館にそっと見に行ったとき、スクリーンに俺が出てきた瞬間、観客が一斉に笑ったんだよね。あ、みんなは(役の)ハラ軍曹を見てるんじゃないんだ、ビートたけしを見てるんだって、すごいショックだったの。そのイメージを切り替えるために、あえて凶悪な役ばかり演じてやろうと思ったんだ」

女性8人を次々に殺害し、後に死刑となった大久保清や、日本初の劇場型犯罪と言われる「寸又峡事件」の金嬉老といった実在の犯罪者を演じることで見せた、今に通じる“すごみのある狂気の芝居”は、当時の“売れっ子芸人・ビートたけし”にとっては賭けでもあった。

「お笑いが凶悪犯の役なんかやると、イメージがついて客が笑わなくなるよ、なんてかなり止められてね。だけどそんなこと関係ない、お笑いはお笑い、ドラマはドラマ。たけしは役者としては悪い役でも何でもやるんだってイメージをつけたかった」

■ 深夜での密かな挑戦とバイク事故からの再起

 ’90〜00年代には、視聴率のプレッシャーも少なく、企画の自由度も高い深夜番組にも触手を伸ばす。「オールナイトニッポン」のテレビ版「北野ファンクラブ」(’91〜96年、フジ系)や「たけしのコマネチ大学数学科」(’06〜13年、フジ系)など。自身も楽しめる企画を追求した結果、後者は海外でも評価を受けた。

「そう、数学の番組ね。予算もかかんないし、それなりに好評だったのに終わっちゃった。うーん…結局さ、理想を言うとテレビは番組購入式になるべきだと思うよ。この番組だけは見たいからお金払う、というね。今は番組1本の予算が極端に減ってるんで、イスだけ並べて、ただトークするみたいな番組が多くて。それじゃ何かつまんないよね」

‘94年、バイク事故に遭い、7カ月もの休業を余儀なくされる。今や北野武監督作の中でも屈指の傑作と名高い映画「ソナチネ」(’93年)の公開からおよそ1年後のことだった。

「『ソナチネ』っていうのは、自分としては相当すごいものができたなって手応えがあったんだけど、ふたを開けてみたら、箸にも棒にもかかんない。1週間で公開が打ち切られちゃったの。今思うと、ちょっとヤケクソになってたのかもしれないね」

そして復帰後は、純粋なお笑い番組より「たけしの万物創世紀」(’95〜01年、テレビ朝日系)など情報バラエティーでの司会を多く務めるように。

「事故で顔がすごいことになっちゃうし、死にかけたヤツってことはもう、お笑いとしては致命的なわけ。で、そんな状態が何年か続いたときに、情報番組とかにちょっと顔を出してて…俺にとっては停滞期というか。でも、ここで小休止しておいて、絶対にひっくり返してやるんだっていう気はあって。そこから映画で賞を取りだして、また新しいことを考えられるようになっていったね」

「大御所」「巨匠」と讃えられるようになっても、かぶり物や気ぐるみを好み、「FNS27時間テレビ」(フジ系)では毎年、人気キャラ“火薬田ドン”で体を張る。その振り幅の大きさこそが、ビートたけしの行動原理であり、彼の芸人としての矜持(きょうじ)でもあるのだ。

「お笑いは、落差だから。普通の人がくだらないことやるより、有名な賞を取った偉い人がやった方が面白い。だから理想は、ノーベル賞を取った後に、立ちションや食い逃げで捕まりたいわけ。俺が『賞が欲しい』って言ってるのは、偉くなりたいんじゃなくて、お笑いのためなの(笑)」

■ ‘17年は快進撃! そして新時代のテレビへ

70歳の古希を迎えた’17年も、新たな分野を開拓し続けるビートたけしがいた。村上信五と2人で総合司会を務めた「FNS27時間テレビ にほんのれきし」に続き、放送禁止ネタ満載の単独ライブや、「立川梅春」という高座名での古典落語への取り組み、また、初の連作となった映画の完結編「アウトレイジ 最終章」の公開。さらに、書き下ろしの恋愛小説「アナログ」と新書「バカ論」は、いずれもベストセラーを記録した。

「元気というか、バカなんじゃないかな(笑)。俺もいくつになったな、とか年齢が頭にないんだよね。相変わらず若い衆とくだらないことをしゃべってね、負けず嫌いで。常に何かやっていたいんだよ。『アナログ』も又吉(直樹)が芥川賞取れるんだったら俺が取ってやる!てね。で、『火花』読んだら、出だしから『あ、これは芥川賞だわ』って。熱海の光景なんかが、実に文学的に表現されてて。これは俺には書けないと思って、いっそパロディーを書こうかとも考えたんだけど、それじゃ読んでてつまんないから、とっとと本題に入るような書き方にして。そうすると、掛け合いのくだりになると漫才師としての自分が出ちゃうんだ。くだらない話が延々続いて、このネタなら又吉が『火花』で書いたネタより面白いだろ!勝ったぞ!なんて言って喜んでるんだけど(笑)」

10月には、「おはよう、たけしですみません。」(テレビ東京系)で、5日連続で早朝の生放送に挑戦。犬猿の仲で知られる浅草キッドの水道橋博士と爆笑問題の太田光を同席させた上、自身は番組を欠席するという離れ業を演じ話題を振りまいた。

「もう深夜の生放送は無理だし、早朝っていうのは何か面白そうでね。でも『やる』って言っといて、休んじゃった。そしたら『たけしドタキャン』って新聞の一面になって、それをテレ東が『番組の宣伝になった』って喜んでるっていう(笑)。でも、クレームと褒める声と半々だったらしいんで、またやろうかと思って。今のテレビは、いいものも悪いものも排除して、ただの“環境”になってるんだよ。もっと言いたい放題毒づいて、見るか消すか、どっちかさせないと何のインパクトもないよね」

そう、規制も増え窮屈になった今のテレビでも、次に風穴を開けるべき場所を、この男は狙っているのだ。

「ネットなんかもあるんだろうけど、見てみると素人のハプニングみたいな、どうでもいいのが多いよね。そういうのじゃない、もっと計算して作る時代だとは思う。今のこの状況をもういっぺんひっくり返して、『あれ見たいな』って思えるような番組を作らないと。タケちゃんマン復活とか、前にやった“バカ笑点”(’16年、フジ系「ビートたけしのオワラボ」の大喜利企画「昇天」)とか、いろいろ考えてはいるんだ。’18年は、バラエティーでも新しいことを何かやりたいね。それと、『アナログ』でまぁまぁの評価をもらったんで、また小説を出そうかなと思って、今書いてる。あと、ドラマも1本くらいは出たいかな。ここのところ西田敏行さんや塩見三省さんに、さすが役者って芝居を見せつけられたからね。俺も役が来たらちゃんと懸けたい。そうやって、ことし(’17年)よりも、ちょっとだけでも進化したいなって思うよね」(ザテレビジョン)