社員を貫く「人間としての根本的本質」(写真:muu / PIXTA)

経営を考えるとき、まずは「人間」とは何かを考えなければならないことは、案外、論じる人が少ないように思います。しかし、会社など組織の長たる指導者、あるいは社長という立場の人は、マネジメントや経営戦略などの知識に、もちろん精通していることも必要ですが、究極、人間とは何か、人間の本質とは何かということに思いを巡らし、自分なりの人間観を構築しておくべきだと思います。


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会社は、多かれ少なかれ、社員を雇用し、社員に活躍してもらう場です。その社員は、「人間」。個々の社員の特徴、特質で、それぞれの社員を配置し、その成果を期待するということになりますが、やはり、個々の特質、性格、得意だけを考えるだけではなく、それぞれの社員を貫く「人間としての根本的本質」を把握し、そのうえで、それぞれの社員の特質を考えることが大切ではないでしょうか。

どのような人間観を構築すべきか

では、どのような人間観を構築すべきか。それは、それぞれの長たる社長なり、指導者なりが考えることですが、申し上げておきたいことは、なにも学問的な形で構築する必要はありません。いくら、客観的であっても、哲学的であっても、その人間観によって、社員がやる気をなくし、会社が衰退するようなことであれば、そのような人間観は、百害あって一利なしということになります。

おおよそ、人間とは何かというような定義は、それぞれの哲学者や識者、論者によってさまざまで、これが絶対的に正解だというものはありません。絶対的正解がないというのなら、社長たる者、指導者たる者は、会社が発展するような、社員がやる気を起こすような、社会全体が明るくなるような、自分なりの人間観を構築すればいいのです。

その人間観に基づいて社員の特質や性質、特徴を活用する。そのうえで、実践哲学を感じさせる「哲人経営者」が求められると思います。筆者は2045年の技術的特異点(technological singularity)を通過した後には「哲人経営者」の時代がやってくると思います。

筆者の人間観を一例として書き記しましょう(繰り返しますが絶対的な正解はありません)。まず、「人間とは偉大な本質を持った存在だ」と定義します。「人間は罪深い」「人間は罪業深重の凡夫」という人間観ではなく、「人間、誰もが輝くような能力を持っている。自分も持っているけれども、それぞれの人が持っている」。こんな人間観を確立するということが必要ではないかと思います。

もちろん、人間には、愚かしい面、弱い面、自己中心の面、争いごとを起こす面、他人をうらやみ貶める面など、確かにあります。しかし、逆に、賢明な面、強い面、温かい心の面、和する面、などもあります。そのどちらかを見るかによって、人間の本質は善だという人もいれば悪だという人もいるわけです。

しかし、人間をそのように一方の角度から見るのは止めるべきです。そうではなくて、人間の本質は「この宇宙や地球を、よりよくしていく力を持っている一方で、それらを破壊、消滅させてしまうほどの大きな力を有する偉大な存在」だと考える。善とか悪だとかではなく「偉大な力」「とてつもない能力」を有しているととらえてみたらどうでしょうか。

人間は卑小な存在ではない

「つまらない存在」「小さな存在」ととらえるならば、人間がどのような悪事をしても(たとえば、汚水を海に垂れ流しても、大気汚染をしても、あるいは、森林を伐採し地球を温暖化しても)、人間の行いだからささいなこと。人間なんて小さな存在なのだから、この宇宙が、この地球が、大自然が、それらを受けとめ、許容し、浄化してくれるはずではないか、と考えてしまう。神はそのような人間の「ささいなこと」を受け入れる寛容さがあると考えてしまうのではないでしょうか。

しかし、現実はそうではありません。いまや、人間は核使用によって、生産活動によって、生活空間の建設によって、宇宙に人工衛星の残骸をばらまき、地球を破壊し、自然を消滅させ、万物を抹殺するほどになっています。

これほどの力を持った人間を「卑小な存在」とか、「小さな存在」「ほかの生物と同じ存在」と理解していいはずがありません。そのような人間観を持ち続けるかぎり、この宇宙に対して、また、地球に対して、お互い全人類に対して、全万物に対して、まったく責任も感じることなく、したがって、環境破壊もなくならないし、戦争さえなくならないと思います。

いとも簡単に、まるで蟻を潰すように、牛や豚を殺すように殺し合うのは、人間は小さな存在、つまらない存在という人間観が根本原因といえるのではないでしょうか。

経営についても同じです。経営者がしっかりと人間観を確立すれば、社員に対する見方も変わります。

「いいものをつくらなければならない」「いいサービスをしなければならない」ということも、「そうすれば、よく売れるから」「そういうサービスをすれば、お客が集まってくれるから」ということではなく、「お客様が偉大な存在だから、そういう存在にふさわしい良品を提供しなければならない」ということになるでしょう。

不正や不祥事もなくなる

社員に対しても、社長として、心の中で手を合わせながらの接し方になるはずです。「この社員も、あの社員も、自分にはない能力を持ったすばらしい人間だ、能力のある社員だ」「彼があまり成果を上げないのは、彼の能力を理解できていない社長の自分に責任がある」となる。こうなれば「役に立たないから人事異動!」という結論にはならないはずです。

また、社長が、そのような人間観をもって経営をすれば、不正や不祥事もなくなるはずです。「偉大なる人間は不正を行ってはいけない、不良品をつくって、お客様に提供してはならない、資格のある品質管理者を置いて最終検査をしっかりと行い、お客様だけでなく、多くの人たちに迷惑をかける事故が起こるようなことを断じてしてはいけない」ということになるのではないでしょうか。

「すべては偉大なる人間のために」ということです。そうした人間観があってはじめて、会社を「公のもの」と考えられるわけです。言い換えると、こういう考え方でなければ、真の経営はできません。

とはいえ、ここに書き記した人間観は、1つの人間観にすぎません。決して、これが最良最善の人間観だと申し上げるものではありませんが、いずれにしてもこれからの時代、技術が人間を超える時代が指呼の間でやってくる。それまでの、この時点でこそ、立ち止まって、経営者、指導者たる人たちは、「人間とは何か」「人間の本質とは何か」を自問自答してみる必要があるのではないかと思います。