「健康格差」対策の成否の鍵を握る3つの可能性について考える(写真 : プラナ / PIXTA)

講談社現代新書から11月15日に発売された『健康格差 あなたの寿命は社会が決める』。著者であるNHKスペシャル取材班の「この問題を幅広く読者にアピールしたい」との熱い思いを聞き、東洋経済オンラインも全文公開プロジェクトに協力しました。本記事は第4章からの転載となります。書籍の内容を省略せずにそのまま転載しており、かなりの長文である点をご容赦下さい。

東洋経済オンライン編集長 山田俊浩

「低所得者の死亡率は高所得者の3倍高い」といった驚きの格差について伝えるとともに、健康寿命を伸ばすための自治体の取り組みなどについて紹介している『健康格差 あなたの寿命は社会が決める』。この「健康格差」の問題をより多くの読者に知ってほしいという著者の強い思いを受け、その問題意識に共感くださったWebメディア6社(日経ビジネスオンライン、ダイヤモンドオンライン、プレジデントオンライン、東洋経済オンライン、ビジネスインサイダージャパン、ハフポスト 順不同)に、出版社メディアの垣根を越えてご協力いただき、現代ビジネスを含めた計7媒体合同で本書の全文公開を行うことを決めました。(講談社現代新書編集部)

第4章 「健康格差」解消の鍵は?


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第3章では、「健康格差」を解消するための国内外の取り組みを紹介した。共通する点は、健康リスクを抱えている人たちに限定した取り組みではなく、全体を巻き込んだ包括的な施策だった点にある。対象を限定しない「ゆるやか」な取り組みが、なぜこのような成果をあげることができるのか。

本章では「健康格差」対策の成否の鍵を握る3つの可能性について掘り下げて考えてみたい。1つ目が「ポピュレーション・アプローチ」。2つ目が「ソーシャル・キャピタル」。そして、3つ目が「楽しい仕掛け」である。

健康へのリスクが高い人たちを選び出し、その人たちに重点的に施策を講じる手法を予防医学の専門用語で「ハイリスク・アプローチ」と呼ぶ。くだけた言い方をすれば「狙い撃ち」である。

この手法は、合理的かつ効率的なものとして、かつて結核などの伝染病対策で高い効果をあげた。「健康格差」対策でも、健康を害しやすい層にターゲットを絞って取り組めるのではないかと考えがちだが、千葉大学教授の近藤克則さんは、この手法は「健康格差」対策では「うまく機能しない」と分析する。

それは、どうしてか。近藤さんは国が主導した「メタボ対策」を例に「ハイリスク・アプローチ」の限界を指し示す。メタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)は、高血糖、高血圧、脂質異常症の3つのうち、2つが重なったものを指す。高血糖、高血圧、脂質異常症はそれぞれが独立した症状だが、このうち2つが重なると動脈硬化が著しく進行し、心臓病、糖尿病、脳卒中など様々な生活習慣病の発症リスクを高めるとされている。

2008年にWHO(世界保健機関)が診断基準を発表したことを受けて、日本でもいわゆる「メタボ対策」として、特定健康診断が実施され、メタボ該当者やその予備群に対して、血液検査やお腹の周径を巻き尺で測り、内臓に脂肪を蓄積した肥満者に対して、生活習慣の改善を促す施策が取られた。

ところが「メタボ対策」の成果は芳しくなかった。国が取り組む「21世紀における国民健康づくり運動」(健康日本21)では、2000年から2010年までの10カ年の数値目標を掲げたが、メタボ対策においては「メタボリックシンドロームを認知している国民の割合の増加」という目標こそ達成したものの、肝心の「メタボリックシンドロームの該当者や予備群の減少、高脂血症の減少」は「(スタート時点と)変わらない」という評価に終わってしまった。

なぜうまく機能しなかったのか。近藤さんは「ハイリスク・アプローチ」が有効であるには、次の4条件を満たす必要があると分析している。

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▲魯ぅ螢好者を診断する方法が確立している

D拘間にわたり有効な予防あるいは治療法も確立している

い修譴ほとんどのハイリスク者に対して現実に提供できる

近藤さんは語る。


「かつて結核などの感染症対策では、この4条件がほぼ満たされていました。結核のリスクがある人はツベルクリン反応強陽性者に限られていましたし、診断方法や治療法も確立されていた。それを結核のリスクがある人に対して確実に提供できました。ところが、『メタボ対策』ではそうはいかなかった。メタボのリスクがある人の数は、当時2000万人超(平成19年国民健康・栄養調査)と言われ、極めて多数でしたし、治療法も確立されていませんでした。世界の研究論文を網羅的に集めたシステマティックレビューでは、一般集団を対象とする健康指導の効果は短期的なものに止まり、長期間にわたり健康状態を維持するための指導法は確立されていないんです。しかもメタボの診断基準にすら疑義を唱えている人がいたほどですから、4条件がそろっていなかった。厚生労働省には、結核の時の成功体験があるから、メタボ対策もこの戦略で押さえ込めると考えたのでしょうが、これでは対策が上手くいかないのは無理もありませんでした」

「ポピュレーション・アプローチ」の可能性

「ハイリスク・アプローチ」だけでは機能しないとすれば、いかなる追加対策を講じればいいのか。今、予防医学の分野で最も高い支持を得ているのが「ポピュレーション・アプローチ」という考え方だ。これは、対象を健康へのリスクが高い人(ハイリスク集団)だけに限定するのではなく、広く一般的に健康状態がいい人を含む大勢(一般集団)を対象とするものだ。リスクの高い「個人」を狙い撃ちするのではなく、一般的な人を取り巻く「環境」や「原因の原因」そのものを狙い撃ちすることで、結果として全体の健康度を改善しようという意図がある。

第3章で紹介した足立区の糖尿病予防対策「ベジタベライフ」は、糖尿病患者だけではなく、区民全体の健康度を高めようという狙いで取り組まれた。その結果として、糖尿病患者だけでなく、区民全体の野菜摂取量が増えたという。「ポピュレーション・アプローチ」の典型的成功例といえるだろう。

「メタボ対策で用いられたハイリスク・アプローチは、病気の原因になる生活習慣に直接介入する、ある意味わかりやすい手法です。これに対してポピュレーション・アプローチでは、人がなぜ不健康な行動をとってしまうのか、まずその『原因の原因』を探ることから始めます。『原因の原因』が特定できたら、それを取り除いたり減らしたりすることによって不健康な行動を減らす取り組みです。これは一見、遠回りなやり方に捉えられがちですが、いわば『川下』で起きている現象だけに目を奪われることなく『川上』で起きていることに着目し、より根源的に『元を断つ』戦略といえます。また、集団全体に働きかけるポピュレーション・アプローチは、一人ひとりへの影響は小さいように見えますが、対象となる集団が極めて大きいため、働きかけが有効となる人の数も多くなり、結果的に大きな成果を挙げることができるんです」

「ポピュレーション・アプローチ」は、個人に負担をかけるのではなく、社会の環境そのものを変えることにより、より多くの人々が健康的な生活ができるようにする取り組みである。具体的にいえば、公共空間や職場での禁煙、タバコ代の値上げ、給食や社員食堂などでのヘルシーメニューの提供などがあげられる。

ポピュレーション・アプローチ先進国=イギリス

こうした「ポピュレーション・アプローチ」に、いち早く国をあげて取り組んでいるのが第3章でも取り上げたイギリスだ。

イギリスは1人当たり塩分摂取量を8年間で15%減少させて、高血圧を危険因子とする虚血性心疾患と脳卒中の10万人当たり死亡者数も4割削減した。これらの改善により、イギリス全体で年間約2300億円の医療費を節約したといわれている。背景には1980年からの20年間で国民全体の肥満が3倍に増えたことがある。1998年には女性の21%、男性の17%が肥満で、過体重を加えると、女性の半分以上、男性の3分の2がこれに該当した。このまま肥満を放置すれば、将来的な生活習慣病患者の急増を招き、医療費が膨らみ、財政を圧迫しかねないという危機感があった。

第3章では、製パン会社の協力を取り付け、パンに含まれる食塩摂取量を減らした話を紹介したが、減塩プロジェクトに協力したのは製パン業界だけではない。食品基準局は当時、パンだけでなく、チーズ、バター、ケチャップ、ポテトチップスなど85品目の食品について塩分量の目標値を設定、メーカーに自主的な達成を求めたところ、スタート時点で25社が協力を表明し、その後も有力企業が次々に名乗りをあげて、4年間で76社まで取り組みが広がっていった。

イギリスではさらに肥満対策として、ジャンクフードのテレビCMを規制することにも踏み込んでいる。ジャンクフードは、カロリーや脂肪分、糖分、塩分が多く、ビタミン類などの栄養素が少ない商品で、スナック菓子や清涼飲料水、ハンバーガーなどがこれに該当する。こうした露骨とも捉えられる国の介入に対しては、「国家が国民の健康をコントロールしているのではないか」といった批判的な意見もあるものの、国民が負担を強いられることなく、自然に健康状態が改善される効果が期待できるため、イギリスではおおむね好意的に捉えられている。

イギリスでは、こうした国を挙げた「健康格差」への取り組みが実を結び始めている。社会的困窮者が住む地域と富裕層が住む地域における平均寿命の差が縮まっているのだ。1999年から2003年では差が6.9年あったのに対し、2006年から2010年では、その差が4.4年にまで縮まったという結果が出ている。

日本でも、こうした国家レベルでの「ポピュレーション・アプローチ」の取り組みが求められるところだが、依然として活動は自治体や地域レベルに留まっている。その「胎動」と言える取り組みを紹介したい。

高齢者を対象にした「健康格差」対策で「ポピュレーション・アプローチ」を導入し、先進的事例として注目されているのが、埼玉県北東部にある幸手市と杉戸町で展開されている「幸手プロジェクト」である。幸手市は、人口5万2000人の市で、江戸時代から日光御成街道と日光街道(奥州街道)の合流点に位置する宿場町として栄えてきた。高度成長期に、市内に大規模な工業団地がつくられ、移住してきたファミリー世代で賑わってきたが、働き盛りだった世代がそのまま高齢化した結果、住民の高齢化率が年々高まっており、今後急増する後期高齢者や要介護者への対策が喫緊の課題となっている。こうした問題は、大都市郊外の自治体が抱える共通の課題である。

幸手市では、以前から人口に対する医師の数が全国最低レベルに止まっている。手をこまねいていれば、団塊の世代が全員後期高齢者になる2025年には、医療や介護施設がパンクするのは目に見えていた。

「このままでは立ち行かなくなる」――地域の拠点病院、東埼玉総合病院の医師で経営企画室室長の中野智紀(なかのともき)さんは、現状に危機感を覚え、近隣のかかりつけ医や総合病院とネットワークを構築し、患者のカルテを共有。患者がどの病院を受診しても、必要な情報が入手できるようにした。

「幸手プロジェクト」の進んでいる点は?

ここまでの取り組みはよくあることだが、「幸手プロジェクト」はさらに一歩先に進んでいる。中野さんらは、高齢者が病状を悪化させ重症化してから病院に来るのを防ごうと、事前に病院自らが地域に出向く取り組みを行っている。それが移動式の保健室「暮らしの保健室」サービスだ。運営は、地元自治体や医師会から委託を受ける在宅医療機関「菜の花」が業務を請け負う仕組みで実現した。

「暮らしの保健室」は、お年寄りが普段から集まる場所を探し出し、ケアマネジャーの資格を持つ看護師が直接出向き、医療や介護が必要な人がいないか確認して回っている。運営側が特定の場所を指定し、そこに足を運んでもらうのではなく、自分たちから出向く。

こうした一見、面倒なことをするのは、普段はあまり病院を訪れることのない高齢者や、病院や検査を避けたがる高齢者に、気軽に病院とつながりを持ってもらいたいという狙いがある。その際、参加者に対象年齢を設けたり、病気の症状を限定することはしない「ポピュレーション・アプローチ」の手法を用いている。2017年度、地域の35ヵ所で開催された「暮らしの保健室」には約2700人の住民が参加した。のべ相談件数は183件で、このうち医療機関を紹介したのは約4割の72人。「暮らしの保健室」がなければ、こうした高齢者が重症化するまで放置された可能性が高いと中野さんたちは考えている。


埼玉県幸手市の「しあわせすぎキャバレー」

「幸手プロジェクト」では、こうした「暮らしの保健室」で培った地域とのつながりを高めようと、高齢者向けイベントを開催するようになった。「しあわせすぎキャバレー」と題されたこの自主開催イベント。ネーミングがユニークなこの取り組みは、一体どんな狙いがあるのか会場を取材した。

昔懐かしいキャバレーを模した会場では、赤いドレスを着た歌手やバニーガールの耳飾りをつけた女性が、高齢者の横に座って親しげに歓談する。普通のキャバレーと違うのは、テーブルに並んでいるのが、アルコールや乾き物ではなく、とろみつきのドリンクに誤嚥をおこさないように加工された嚥下食である点だ。しばらく歓談が続いた後、ジャズシンガーの赤いドレスの女性が参加者の前に立ち、「私、認知症専門の病院でずっと作業療法士として働いているんですけど……」とカミングアウトした。実は会場にいるホステスは、看護師、介護福祉士、作業療法士などの医療・看護のプロフェッショナルだ。古きキャバレーを模したイベント形式にしたのは、地域社会では孤立しがちな男性たちに興味を持ってもらうためだという。イベントでは先ほどのジャズシンガー兼作業療法士が、介護予防のための体操を実演しだした。

「必ず手を上げるときは掌を内側にしてください、外にすると肩をいためちゃうから」

このイベントの狙いは、介護予防という目的を前面に押し出すのではなく、キャバレーという楽しい仕掛けを前面に出し、多くのお年寄りに参加してもらうことにある。会場には、認知症介護や高齢者医療のプロが参加しているので、何らかの措置が必要と思われる高齢者には、治療や医療機関への来院をそれとなく促すこともできる。もちろん、このイベントでも「ポピュレーション・アプローチ」の手法を用いて、参加者を認知症やその予備群の方などと限定することはしない。「しあわせすぎキャバレー」を企画した小泉圭司(こいずみけいじ)さんは、こう説明する。

「特定の高齢者ではなく、すべての高齢者を対象にすると、閉じこもりがちな高齢者の方も参加しやすくなります。こうした仕掛けをしていくことによって、地域の高齢者を誰かしらの目に触れさせようという狙いです。こうした取り組みが、高齢者の皆さんの身にいざ何かあった時に、速やかに専門職の方につなげられるようなきっかけになると考えています」

「幸手プロジェクト」を主導する中野さんは、こうした普段からの「さりげない対応」こそが、今後の超高齢社会に重要になってくると指摘する。

「たとえば『認知症』という、ある病気だけをクローズアップしてしまうと、高齢者の方々にとっては、やっぱり怖いものであったり、何か得体の知れないものだったりして身構えてしまうわけです。医療や介護は、もっと頭を使って、その地域の方々が馴染むような形で入っていかなきゃいけない。『しあわせすぎキャバレー』のように、さりげない日常会話から解決の糸口が出てくるのが、ひとつの自然な方法なのかなと考えています」 

愛知県武豊町に世界が注目するワケ

「幸手プロジェクト」は、地域のコミュニティの力を活用し、小規模ながらも「ポピュレーション・アプローチ」の手法を導入している点が活動の成功につながった。近年、こうした地域住民どうしの「つながり」を作ることが「健康格差」の解消にも有効であることが様々な調査で明らかになりつつある。公衆衛生学では、地域における個人や組織間の結束、信頼、助け合いの規範の度合いなどを「ソーシャル・キャピタル」(社会関係資本)と定義している。

人と人とのつながりや、人の絆こそが社会的資源であるという考え方だ。日本は古くから地域コミュニティの基盤があり、住民相互の「つながりの力」が強固だと言われてきた。こうした「つながり」や「絆」は時に「しがらみ」を生み出すこともあり、煩わしい面もあるが、未曾有の超高齢社会の到来を前にして、これを有効に活用しようという気運が世界で高まっている。

戦後、核家族化が進み、子育て世代の都会への流出が進んだことから、地域の「つながりの力」が弱体化しつつある日本社会。本来であれば、こうした地域住民のつながりは自然に生まれるもので、国や自治体が介入するものではないが、行政がきっかけを提供する形で「ソーシャル・キャピタル」の再構築を進める取り組みが全国各地で行われている。

その中で、世界からも注目されているのが、愛知県武豊町で行われている介護予防プロジェクト「憩いのサロン」である。愛知県武豊町は、知多半島のほぼ中心にある人口4万3000の町だ。武豊町では、2007年から町の介護予防施策として、高齢者が集い、楽しみ、交流できる「憩いのサロン」を開設する取り組みを行ってきた。その結果、サロンに参加した人たちの要介護認定率が半減したという実に驚くべき結果を残したのである。

武豊町の高齢化率(総人口に対して65歳以上の高齢者人口が占める割合)は2015年時点で23.4%と高い。WHOや国連の定義では、高齢化率が21%を超えた社会を「超高齢社会」とするが、武豊町はどっぷりと「超高齢社会」に突入した先進地区である。町の危機感も強く、早くから介護予防対策に取り組んできた。

「憩いのサロン」の参加費は、菓子代のわずか100円。おしゃべりや体操で健康増進を図るのが目的だが、実は同じような取り組みは全国にいくらでもある。他の自治体との大きな違いは、要介護リスクの高い高齢者の参加率が高いことにある。

「憩いのサロン」には、ひとり暮らしや閉じこもりがちなど、もともと要介護になるリスクの高い人たちが多く足を運んでいる。その割合は、全国の介護予防教室などと比べて、2.5倍にもなる。さらに、健康診断の受診に消極的になりがちな、教育年数が短い人や低所得の高齢者の参加率が高いこともわかっている。普段、こうしたイベントに参加しないとされる高リスク者が、なぜこれほどまでに集まるのだろうか。

高齢者は「余計なお世話だ」と猛反発


愛知県武豊町の「憩いのサロン」

実は「憩いのサロン」も最初から活動が順調だったわけではなく、様々な試行錯誤を積み重ねて集客のノウハウを培ってきた。当初、武豊町も健診結果などから要介護になるリスクの高い人を見つけ、職員が「健康教室に参加してください」と高齢者一人一人に働きかけていた。いわゆる「ハイリスク・アプローチ」の手法だ。しかし、こうした呼びかけは高齢者にとっては逆効果だった。高齢者からは「余計なお世話だ」「どうして行かなければならないのか」「自分はまだまだ大丈夫!」と猛反発を招いてしまったという。武豊町で保健師を務める小林美紀さんは、こう反省する。

「高齢者の方に『もうすぐあなたは、寝たきりになるかもしれない、介護保険が必要になるかもしれないから』っていう誘い方をしていたんですね。でも、そんな誘われ方では、サロンに行く気になりません。誘われる立場に立ってみれば、不安を煽られているだけです。そこで要介護になるリスクの高い方に限定することをやめて、健康な高齢者の人たちにも門戸を広げて『自分から行きたい』と思っていただけるような工夫を凝らしました」

武豊町では、「ポピュレーション・アプローチ」の手法を導入し、まず参加者の対象を広げるとともに、サロンを開催する場所の配置も戦略的に行った。ポイントは高齢者が住んでいる家の近くに、たくさんつくること。単純に地区全体で割る方法ではなく、高齢者が多い地域に重点的にサロンをつくり、ほとんどの人が徒歩15分以内で通えるようにしたのである。

さらに呼びかけにも「人と人とのつながり」を最大限利用した。比較的元気な高齢者には、まずボランティアスタッフとして声をかけ、参加と運営の一部を任せる協力を呼びかけた。募集の説明会では、研究結果として「ボランティアなどに参加している高齢者ほど要介護状態になりにくい」というデータも紹介し、50〜60人を集めることに成功した。こうして集まった大量のボランティアを母集団として、その人たちのつながりを駆使して、ひとり暮らしや閉じこもりがちな高齢者たちに参加を呼びかけたところ、参加者が芋づる式に増えていったという。

町内でひとり暮らしをしている河西元子さん(77歳)もボランティア経験者だ。河西さんの趣味は、家でひとりテレビゲームをすることだったが、「憩いのサロン」の会計係になるのを勧められたのが通うきっかけだったという。

「サロンでね、コーヒー飲んでお茶菓子食べて、みんなとしゃべって、すっきりして帰ってくるんですよ。会計のお手伝いもするから働くし、健康にもいいと思うわ」

こうした「ソーシャル・キャピタル」を最大限活かした「憩いのサロン」の取り組みは功を奏し、2015年度には11ヵ所で年間190回開催、ボランティア登録者数は282人、のべ参加者は1万2636人、実人数でみても町の高齢者のおよそ1割にのぼる。2016年5月には13ヵ所目となるサロンが開設されるまでになった。

また介護予防効果という意味でも「憩いのサロン」は絶大な効果を発揮している。2007年から2012年までの5年間に「憩いのサロン」に参加した高齢者のデータを詳細に分析したところ、サロンに参加した人の要介護率は7.7%で、参加しなかった人たちの14%に比べて半分程度に抑えることができ、認知症のリスクについても、3割も抑制されたことがわかった。

費用対効果の面でも成果が出ている。武豊町は「憩いのサロン」の事業費に、年間630万円を投入しているが、その効果によって年間1500万円程度の介護給付費が削減できたと試算している。

このように、人のつながりを活かした、幅広い層への働きかけは、高リスク者だけを選別した手厚い健康指導よりもはるかに大きな成果を生む可能性があることを武豊プロジェクトは教えてくれる。

「仕掛け」が「健康格差」克服の可能性を高める

「健康格差」を解消するための具体的な対策を検討する上で、ボトルネックになるのが「所得が低い人は生活に余裕がなく、健康に気を配ることができない」ことだ。不健康な生活を送っている方々に対して、「塩分の取りすぎに注意」「甘いものはほどほどに」「野菜食中心の食生活を」「適度な運動を心掛けよう」と、いくら呼びかけても効果は出ない。実は、こうした健康に気を配ることができるのは、もとから健康問題に関心があり、健康意識が高い層ばかりであり、健康な人はより健康になる一方、そうでない人はどんどん不健康になるという、むしろ「健康格差」が拡大する方向に向かってしまう。

こうした対策のジレンマを乗り越えるため、イギリスや足立区に代表されるような新たな政策の流れや、「ポピュレーション・アプローチ」や「ソーシャル・キャピタル」といった公衆衛生学で培われた手法を駆使する取り組みを紹介してきた。共通するのは、個人の心掛けや努力を促したり、個人のモラルに訴えるのではなく、普通に生活しているだけで健康になる、むしろ何もしなくても健康になったり、不健康にならない環境を自然に作るという考えだ。

ここからは、いわば「仕掛け」の力を利用して「健康格差」を解消しようというアプローチで参考になる、世界各国の取り組みを紹介する。

\諺食品を買いやすく! アメリカ

アメリカ・ニューヨークでは、貧困地域に進出する生鮮食品店を税優遇し、新鮮な野菜をなるべく安く手に入れられるようにする政策を打ち出している。FRESH(健康支援のための食品小売拡大策)と呼ばれるこの取り組みは、生鮮食料品を買える店が少なく、肥満や糖尿病の率が高い貧困地域を対象に、スーパーマーケットが出店・改装・拡張を行う場合、税を優遇するなどの支援をする政策だ。

条件として、販売スペースの半分以上で自宅調理を想定した食料品を扱うこと、また3割以上で野菜、肉、魚、乳製品などの生ものを扱うことがあるが、これまでに20ほどの店がこの制度を利用している。FRESHを運用するニューヨーク経済開発公社が、対象店の利用客に実施した2015年2月の調査では、9割以上が「以前より新鮮な商品を買いやすくなった」、8割が「スーパーが開店したことで以前よりも果物と野菜を買っている」と答えたという。

ニューヨークは、世界中の有名シェフが店を並べ、腕を競うレストランの聖地だ。美食家たちが集まる一方で、貧困地域では生鮮食料品を手に入れられないことで健康問題が引き起こされている。こうしたアメリカの格差社会を象徴するような光景は、社会の分断を助長しかねない。政策の持続的な取り組みと効果に期待したいところだ。

▲好ワットで地下鉄乗車券をゲット メキシコ

メキシコでは、スクワットをわずか10回するだけで、地下鉄乗車券が無料でもらえる仕組みを導入している。首都メキシコシティでは、政府が地下鉄やバスの主要駅30ヵ所に専用の機械を設置した。センサーで動きを感知し、画面で回数がカウントされる。回数が増えるたびに、「毎日最低30分は歩きましょう」といったアドバイスが表示され、10回こなすと乗車券が画面の下から出てくる。

また係員から先着8万人に無料で万歩計を提供するというキャンペーンも行った。取り組みを導入した狙いはメキシコ人の肥満改善だ。メキシコの肥満は32%(2012年)とOECD加盟国ではアメリカに次ぐ水準で深刻化している。この状況を改善すべく、「運動すればタダになる」という仕掛けを取り入れたという。

トウモロコシ、豆、唐辛子の3つを基本とするメキシコ料理は、2010年に食文化として世界無形文化遺産に登録されている。そんな世界に評価される伝統料理を持つ国の人々には、是非とも健康的であってほしいものだ。

「ジャンクフードのように食べよう!」

政策に「仕掛ける」力が必要

こうした「仕掛け」の力を「健康格差」対策のアプローチとして、積極的に取り入れるべきと考えているのが、東京大学大学院准教授の近藤尚己(こんどうなおき)さんだ。近藤さんは特に、企業のマーケティング手法には、商品に無関心な消費者に興味を持たせる力があり、その手法を「健康格差」対策に応用したいと考えている。その思いを強くさせたのが、健康食品をジャンクフードのようなパッケージで販売したアメリカの例だ。

2010年、「ジャンクフードのように食べよう!」というキャッチコピーを冠した野菜食品が、アメリカで話題になった。中に入っているのは「ベビーキャロット」という、ニンジンを一口サイズにあらかじめカットしたものだが、パッケージがまるで、ポテトチップスが入っているかのようなデザインだったのだ。

「ベビーキャロット」は、日本ではあまり知られていないが、アメリカでは家庭料理に使われたり、ディップにつけて、そのまま食べる人もいる。こうした野菜食品をジャンクフードに見立てる斬新な試みに取り組んだのは、食品メーカー「ボルトハウス・ファームズ」社だ。ニンジンの販売では、全米2大企業のひとつとされている。当時売り上げが伸び悩んでいた同社は、打開策を見つけられずにいた。

そこへCEO(最高経営責任者)としてやってきたのが、コカ・コーラの幹部だったジェフリー・ダンさん。ダンさんのもと、新たなマーケティング戦略として打ち出されたのが「ジャンクフード化」だった。ダンさんは、メディアに対し、「ソフトドリンクやスナック菓子のメーカーがするような、直感に訴えるキャンペーンをしたかった」と語っている。

「ベビーキャロット」は同年9月、一部地域で先行的に販売されると、売り上げは前年比1割増に転じた。さらに、2つの高校に「ベビーキャロット」の自動販売機を設置し、1袋50セント(約50円)で販売すると、わずか1週間で80〜90パックが売れた。さらにこの話題を聞きつけた多くの学校が、同社に問い合わせてきたという。

この出来事は、「ボルトハウス・ファームズ」社にとっては、売り上げを伸ばすためのマーケティング戦略にすぎないが、近藤さんは、健康に無関心な層をいかに巻き込むかという面で、大変参考になる事例だと評価する。

「健康食品を売る際に『ビタミン豊富』『栄養たっぷり』などと健康面の良さを訴えても、反応するのは、健康に意識が高い人たちばかり。圧倒的多数に届けるには、むしろ『おいしい、楽しい、大好き』といったメッセージを伝えなければならないと気づかされました」

近藤さんは自省を込めて、従来の「健康格差」対策は、「運動をしよう、野菜を食べよう」といった知識啓発や、健康へのリスクが高い人向けの個別指導に終始しがちだったと話す。しかしそこに、このようなマーケティング手法を取り入れることで、これまでとは違った効果的なアプローチができると考えている。

「人を動かすノウハウを山ほど持つ産業界と、公衆衛生の研究者、そして行政の三者がこれまで以上に連携することが必要です。企業は、魅力的なパッケージで製品を包み、『20%増量!』といった販売促進キャンペーンを行い、商品のブランドイメージと合わせて、消費者が思わず買いたくなる仕掛けを作っています。企業は製品が売れなければ経営に響くわけですから、たいへんな努力をしている。その叡智を政策にも活用することで、「健康格差」を解消する政策や公的サービス、商品を作るべきだと考えます。消費者に無意識のうちに選んでもらう『仕掛け』。これが鍵だと思います」

進化する「セルフ健康チェック」

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「健康格差」解消に、あの手この手の「仕掛け」が求められる中で、悩みの種となっているのが、健康診断の受診率だ。

健康診断は、自分の健康状態を検査することで、現状に気づき、食事や運動、病院での受診などの行動を通じて、生活習慣を見直したり、健康について考える大きなきっかけだ。本人はもとより企業にとっては従業員、自治体にとっては住民の状態を把握するためにも、必要な手続きだが、健康に無関心な層や、健康のために時間や費用を割く余裕がない人たちの受診率は伸び悩んでいる。

成人男女で1年間に1回も健康診断を受けていない人たちはなんと3600万人にものぼっている。その多くが専業主婦や自営業者、非正規雇用者などだ。こうした「健診弱者」とも言うべき人たちが、少しでも健康診断に足を運び、自分の健康状態を把握し、早期対応や病気の予防に力を入れてくれれば、自身の健康だけでなく、国の医療費も抑制されることになる。

こうした中、どのようにしたら健康診断に足を運んでもらえるか。注目の取り組みを行っている企業がある。「セルフ健康チェック」という健康診断サービスを行っている「ケアプロ」だ。

「セルフ健康チェック」は500円から血液検査を受けることができるのが強みだ。例えば、血糖値は500円、貧血などを判別するヘモグロビン量検査は3000円、脂質セット3000円、肝機能セット3500円などとなっている。

また、血液以外では、骨密度1000円、血管年齢500円、肺年齢500円となっており、結果はその場で数分でわかる。また、保険証や予約は不要で、誰でも気軽に好きな時に安価で健康診断を受けることができるのが魅力だ。

利用者の多くは、子育て中の主婦や病院に行く時間がない自営業者、フリーター、非正規雇用者、無保険者など、健康診断を1年以上受けていない「健診弱者」ばかり。検査をしてその場で異常がわかったことから、そのまま病院へ直行する人もいたという。

こうしたサービスがあれば、病院で健診を受ける時間がない非正規雇用者や、定年後に会社の特定健診の対象から外れた高齢者にとっても有効だ。健診さえ受けていれば、重症になっていなかったかもしれない人たちや、健診を受けるべき人が受けていない現状を考えると、「健康格差」を解消する鍵となる画期的なサービスとも考えることができる。

「ケアプロ」創業者で社長を務める川添高志さん(35歳)が「セルフ健康チェック」を立ち上げたきっかけは、慶應義塾大学看護医療学部時代に視察で訪れたアメリカのスーパーマーケットで「ミニッツ・クリニック」という簡易な健康診断サービスと治療をセットにした店舗を目にしたことだった。

「医師が常駐するのではなく『ナース・プラクティショナー』と呼ばれる医療行為もできる看護師の資格を持つ人が、最低限の診断と治療を、短時間で、通常の病院よりも安価に行うんです。アメリカでは医療費が非常に高く、病院に行くことを避ける人も無保険者も多いですから『病院に行くほどではないが、ちょっと診てもらいたい』というニーズを捉えた事業というわけです。これは面白い、と思って、そういうことが日本でもできないかと考えるようになりました」

川添さんの事業への思いを一層強くさせたのが、帰国後、東京大学病院に勤務した時だった。病院で直面したのは、早く病気が見つかっていれば重症化を防ぐことができた糖尿病患者だった。「どうして健康診断を受けなかったのですか」と尋ねると、患者たちは口々に「機会がなかった」「仕事が休めなかった」「お金がかかる」「いきなり病院の健康診断だと怖い」と答えたという。

川添さんは、病院の患者たちに、ワンコインで健診できるサービスを必ず立ち上げると約束し、病院を退職。2007年冬に、大学時代から貯めていた1000万円を起業資金に「ケアプロ」を立ち上げた。

「セルフ健康チェック」の立ち上げから9年。サービスは、累計42万人もの人が利用するまでに成長した。最近では、パチンコ店や競艇・競輪場、住宅展示場、ショッピングセンターなどに出張店を出すことも増えている。これは「健診弱者」が普段どこにいるか、健康診断を受けていなさそうな人たちはどこにいるか、知恵を絞った結果だ。特にパチンコ店の駐車場で行ったケースでは、多くの人に「セルフ健康チェック」に参加してもらおうと、看護師のコスチュームを着た若い女性を配置し、呼びかけを行ったところ、無職の人の受診率が男女ともに上昇したという興味深い結果も得られた。

「健康診断には、アクセシビリティという考えがもっと必要だと考えています。参加者に来てもらうものではなく、参加者のいるところに出向くという発想が行政側にもっとあっていいのではないかと考えています。健康を届けに行っているんだという姿勢です。

行政の役割には、邪魔しないこと、後押しすること、マッチングの3つがあると思いますが、こと健診に関しては、マッチングがもっとも大切です。健康に無関心な人や健康のことを考える余裕のない人は、どこにいるか、どうすればアプローチできるか。マッチングに徹底的にこだわることが、健康診断の受診率をあげることにつながりますし、「健康格差」を解消できる大きな手法になるのではないかと考えています」

「セルフ健康チェック」の出張店は、これまでに全国1500ヵ所以上で開催され、2017年9月には、東京23区で最も高齢化率が高いとされる北区と共同でイベントを開催するなど、自治体との共同事業にも乗り出している。また、2015年からは、経済発展とともに生活習慣病が急増しているインドでも、「セルフ健康チェック」を始めるなど、取り組みは国境を越えて広がっている。

「健康格差」を解消するためには、生活者が健康に接する、ありとあらゆる局面で「仕掛け」を大胆に変えていく必要がある。

位置ゲームには人を屋外に連れ出す効果がある

ァ屮櫂吋皀GO」の可能性

番組の収録では、評論家の宇野常寛(うのつねひろ)さんからも「仕掛け」についての提案があった。それは、ゲームの魅力を存分に駆使して、健康に結びつけるというアイデアだ。

散歩が趣味という宇野さんは、スマートフォン向けゲームアプリ「イングレス」に夢中だという。「イングレス」とは、スマートフォンのGPS機能を使ったオンライン位置情報ゲームだ。現実世界を実際に移動して行う「陣取り合戦」で、現実世界とゲームを融合した新感覚のもので、世界200の国と地域で、累計2000万回以上ダウンロードされる大ヒットとなっている。

このゲームを開発したのは、アメリカのIT企業「グーグル」の社内ベンチャー「ナイアンティック」社。この会社の名前を聞いて、ピンときた方もいるかもしれないが、あの「ポケモンGO」を開発・制作したゲーム会社だ。「ナイアンティック」社は「イングレス」で培った、現実世界を巻き込んだ「陣取り合戦」の構造を応用し、「ポケモンGO」を企画開発。日本でも、2016年7月にリリースされると、瞬く間に社会現象となった。

「ポケモンGO」は、2017年6月現在、世界200の国と地域で、累計7億5000万ダウンロードを突破する天文学的なヒットゲームアプリとなっている。宇野さんは、これらのゲームを開発したデザイナーの哲学に、健康に無関心な層や、配慮できない層へのアプローチの可能性が隠れていると考えている。

「僕が散歩を好きになったのは、イングレスの影響が大きかったですね。名所旧跡を回っては、陣取り合戦する遊びにハマっているんですね。世界中が青軍と緑軍に分かれて戦うという。今、この瞬間も世界のどこかで戦っているんですよ。その同時感とかが好きで。ちなみに、僕は青軍なんですけども(笑)。このゲームを開発したデザイナーは『このゲームの目的は人を外に出すことだ。歩かせることだ』って言っているんですね。なので、健康になるために国家的プロジェクトを立ち上げて取り組むという真っ向勝負も大いに結構なんですけれども、それとは違う方法で、僕ら一人一人が民間の立場からもうちょっと、健康に生きられる未来を作っていくことはできるのではないかということで、イングレスやポケモンGOのような知恵をマーケットのレベルで作っていくことって大事だと思うんですよ。人間の動機として、何かしろとか何かをすると正しいって言われても、あまり強いモチベーションにつながらないと思います。そうではなくて、野菜を食べるとおいしいよ、とか運動をすると面白いよという文化で巻き返すことが大事だと考えています」

人が物事に取り組んだり、継続させたりする要因のひとつに「うれしい」「楽しい」「好き」という直感的な感情がある。そうした感情を自然に起こさせるような体験と健康のための活動を結びつけることができれば、国や行政が音頭を取らなくても、人は好き好んで自ら健康になっていくのではないかと考える宇野さん。「健康格差」対策への政策は、うれしいこと、お得なこと、などとセットで、「仕掛け」そのものを再設計していく必要があるのではないだろうか。

「ナッジ」自然に健康を選ぶ仕掛け

ここまで「ポピュレーション・アプローチ」や「ソーシャル・キャピタル」、そして「仕掛け」の可能性を探ってきたが、通底するのは従来の「啓蒙」や「啓発」といった政策の手法が限界に達しているということだろう。むしろ、健康への意識を変えて欲しいと呼びかけるより、健康への意識を変えようが、変えなかろうが自然と健康になれる仕組みを作った方が、明らかに効果的ではなかろうか。

こうしたアプローチは、実は経済学の分野でも注目されている。経済学に心理学を応用した「行動経済学」のパイオニアであるアメリカ・シカゴ大学のリチャード・セイラー教授は、人々が経済活動を行う上で、誰かにしつこく言われるよりも、肘で軽く突くよう小さく誘導された時の方がいい結果を出すという理論を実証している。これは「ナッジ(nudge=肘で軽く突く)」と言われるもので、規制や強制ではなく、本人が自発的に自分の利益になる選択をうながす仕組みや仕掛けとして、企業のマーケティングに応用されるだけでなく、イギリスやアメリカを中心に、政府の政策を効果的に高める手法としても注目されている。


奇しくも今年、この「ナッジ」を提唱したリチャード・セイラー教授が、スウェーデン王立科学アカデミーが選定する2017年のノーベル経済学賞を受賞。社会を良く変える方法として「行動経済学」が、いま最も注目される研究として、世界的評価を浴びた。「ナッジ」に代表される行動経済学の知見を「健康格差」対策でもこれまで以上に応用し、実践していくことが求められるだろう。

本章でも触れてきたアメリカの生鮮食品を買いやすくする政策や、メキシコの肥満改善策、ジャンクフードのようなパッケージで健康食品を販売するアイデア、ワンコインから始められる「セルフ健康チェック」、そして「ポケモンGO」の健康への可能性などを、もっともっと健康政策に導入していくべきだ。

個人の自己管理に訴えるのではなく、知らず知らずのうちに健康になる環境を国や行政が作るという視点は、健康政策の大転換かもしれない。しかし、対策にこれまでにないアプローチが求められる現状を考えれば、大変賢く、全面展開すべき手法なのではないかと考える。