「Thinkstock」より

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 メディアでは「親の所得格差が子の教育格差を生み、貧困が連鎖する」という記事をたびたび目にします。「親の経済力によって大学進学率に差がつくのはおかしい」「親が貧しく進学させてあげられないから教育格差が生まれ、子も貧しくなる」「奨学金の返済で将来苦しむのはおかしい」と考える人は多いようで、奨学金の無償化や、公的な教育投資を増やすような論調が大きくなっています。

 しかし、それは「大学に行けばすべて解決する」「カネを配れば万事解決」と言っているようなもので、本質ではありません。

 確かに相関関係はあるかもしれませんが、私は直接的な因果関係ではないと考えています。昨今ではすでに高等教育を受ければいい会社に就職もできて安泰という図式は崩れつつあります。大卒でも貧しい人はたくさんいます。

 また、奨学金制度があるので経済的理由で大学に進学できないというケースは稀です。奨学金返済の問題も、たとえば親自身が自制して借り過ぎさせないようにするとか、返済についても子としっかり議論し、真剣な学生生活を送るよう言い聞かせることもできるでしょう(私自身、高校・大学には奨学金で進学し、15年かけて完済しました)。

 それよりも、貧困が連鎖する本当の原因は親の子育てにあるのではないか、というのが私の考えです。たとえば、難しい課題に取り組もうとしない、新しい仕事に挑戦しようとしない、逆境を乗り越えて目標を達成しようとしない、勉強して能力を高めてより成長しようという意欲が低い、つまり親自身が勉強することの価値を理解していない場合、「学ぶこと、努力することによってのみ自分を成長させることができるのだ」ということを、子どもに伝えることはできません。

「勉強しろ」「早く宿題を済ませろ」などというのは、教育でも躾でもなんでもなく、単なる強制です。大人でも会社で上司から「仕事しろ」「さっさと終わらせろ」などと言われたら気分は良くないでしょう。親でさえモチベーションが下がる言葉を自分の子どもには使うとしたら、なんという矛盾でしょうか。

 そして、そういうマインドは当然、日常生活での親の振る舞い、そして子どもにかける言葉にも違いが出てきます。「自分にはムリ」と思っている親の口から出る言葉は、「お前にはムリ」ではないでしょうか。じっくり考えるのを面倒くさがる親は、子どもが「それ、どういうこと?」と、聞いてきても「知らない」「どうでもいいよ」で終わってしまうかもしれません。

 また、親が感情的になりやすく、よく子どもを怒鳴ったり、「とにかくダメだ」などと理由のない命令をしていれば、子どもも当然それを見習います。

●日々の会話のなかから伝わる

 反対に、積極的に学習する姿勢を持ち、難しい問題に果敢に挑戦したり、スキルアップのために日々研鑽している親は、学ぶことの意義を認識していますから、子どもにもそのように伝えます。子どももそんな親の姿を見て育ちます。

 親自身が「努力が大切だ」と思っているから、「やってみろよ。失敗したって、またがんばればいいんだから」と子どもに挑戦することの大切さを教えます。子どもが「それ、どういうこと?」と聞いてきたら、「それはね、こういうことで、こういう理由があるからなんだよ」と答えるか、わからなければ「なんでだろうね、一緒に調べてみようか」と答えるでしょう。

 考え方も論理的で、躾をするときには「こういう理由があるからダメなんだよ」と子どもをひとりの人間として尊重し、丁寧に接します。論理的であれば、自分の行動がどういう結果になるかを想像できるので、一時の感情に任せて爆発させるということもなく、できる限り感情をコントロールしようとします。

 そういう親の態度に毎日接して育てば、子どもも親と同じような行動パターンを受け継いでいきます。そのため、「勉強しろ」などと直接言わなくても、日々の会話のなかから、親の論理的な考え方や勉強することの大切さは子に伝わるものです。ちなみに、東京大学の学生には、子どもの頃から一度も親に「勉強しろ」と言われたことがない人も多いようです。

●自己責任論は悪なのか?

 こういう話をすると、「自己責任ばかり強調するのは良くない」「社会の仕組みが悪いせいだ」という人がいます。では、責任の所在を社会という漠然としたものに転嫁することで、何か良いことが起こるでしょうか。自分や子どもの生活が改善するでしょうか。「政治が悪い」「社会が悪い」「日本は未来に希望が持てない国」などと他者のせいにすれば、自分が努力をしなくてもいい言い訳ができ、安心できます。

 しかし、誰か他人のせいで自分が不幸なのだとしたら、その誰かに振り回され続けることを意味します。その誰かがいないと生きていけない、あるいはその誰かに変えてもらわなければ満足できる人生にできないとしたら、これは非常に不安定な生き方ではないでしょうか。

 野球にしても、うまくボールを打てなかったら、打ち方を変えるなど工夫します。同じ打ち方を続けていて打てるようになりたい、というのは無茶な話でしょう。これと同様に、社会のせいにして同じ生活を続けて、それで違う結果を求めるというのは、まったく整合性がないことに気がつきます。

 あるいは「努力する気持ちを削ぐ、やる気を見いだせない今の社会に問題がある」という人もいます。しかし、たとえば同じ試験を受けて不合格になったとき、「次は絶対受かってやる!」と発奮してさらに努力する人もいれば、「自分はダメだ」とがっくり挫折する人もいます。では、こうした違いも、社会の仕組みや政策がおかしいからもたらされるのでしょうか。

 もちろん、孤児であったり、早くに親を亡くしたり、虐待などで心の傷を負っていたり、ケガや病気をしたり、さまざまな事情を持つ人はいます。そうした人々を社会的に支援すべきなのはいうまでもありません。

 そういった特別の事情がないのに、現在の生活を社会や政治や他人のせいにするのは、努力を怠っているといえるのではないでしょうか。

●本を読み、思索する

 そうした状況に陥らないための方法のひとつは、やはり本を読むことです。「怠惰な人間の部屋には本がない」という話を何かの本で読んだことがありますが、本という多種多様な価値観に触れて考える習慣がないと、今までの自分が持っていない判断軸を取り入れられる頻度が少なくなり、生きる上での選択肢が狭くなるのだと思います。

 今やあらゆる領域に関する書籍が出版されていますから、自分が目指すべき生き方や方法論を簡単に知ることができます。

 ただし、自分の価値観と違うからと反発するだけでは、本を読む意味はまったくありません。著者の主義・主張をいったん自分の中にくぐらせて、「では自分はどう考え、どう行動するか」と、自分の人生に応用する姿勢を持つことです。本の内容を参考に、自分の人生がレベルアップし、幸福感につながる行為こそが「本から学ぶ」ということです。単なる反発や否定は何も生み出さないし、それは「自分とは違う意見を受け入れられない頭の固い人間」ということであり、つまり「学習能力がない」ことを意味します。

 あるいは、著者の価値観や指摘している懸念・不安・リスクなどに対して、「なぜ自分は著者とは違う意思決定をし、違う行動をしたのか」と振り返ってみることです。すると、自分の判断を支える根拠がより強くなり、自分の選択や生き方に自信が持てるようになります。

●旅をして日本との違いを考える

 もうひとつの方法は、旅、特に海外旅行をすることです。もう10年ほど前になりますが、私自身のカンボジアでの経験をご紹介します。

 平均月収が1万円ちょっとというカンボジアの首都プノンペンでは、1台1500万円もする高級車レクサスがたくさん走っています。カフェブームでコーヒー1杯500円のカフェも乱立しています。

 一方、そこから車で約20分のゴミ処理場では、5〜10歳くらいのたくさんの子どもが働いていました。みな上半身ハダカで、靴も履いていません。カンボジアでは、親の教育放棄によってたくさんの身寄りのない子どもがいるといいます。彼らはうず高く積まれたゴミの山から鉄くずを取り出す仕事をしています。夕方に来るブローカーから、見つけた鉄くずと交換にお金を受け取ります。しかし、丸一日働いてもらえるお金は、日本円にしてわずか40円ほどという。彼らは限りなくブローカーに搾取されているのですが、生きていくために、もくもくと働いています。

 現在は状況は変わっているかもしれませんが、ゴミ処理場に住んでいて、家もお金もなければ、学校にも行けないし、おいしいものも食べられない。携帯電話もパソコンも持てず、就職もできず、パスポートも持っていないから海外にも行けない。人生を変えたくても変えられない。どこかへ逃げたくても、逃げられない。挑戦したくてもできない。

 ひるがえって「日本は格差が広がっている」「夢が見られない格差社会」などと言われますが、カンボジアに限らず、私がアジアの諸外国を見てきて感じるのは、日本は世界一格差の小さい国のひとつではないかということです。世界水準で比較すれば、日本には格差なんてないに等しい。確かに日本もいろいろ問題はありますが、世界のすさまじい格差を知れば、格差だなんて言えなくなります。

 私はこの経験を通じ、自分がどれほど恵まれているかということに感謝するとともに、環境を言い訳にすることなく、自らの責任において、自らの努力で人生を切り拓こうという、前向きなモチベーションを得ることができました。そして、「やりたいことはなんでもできる、あとは自分次第」と考えるようになりました。

●子どもが考える場を増やす

「そうはいっても個人ではもう、いかんともしがたい」という心が折れた親、知的に怠惰な親から子どもを救うには、どのような政治的解決方法が考えられるでしょうか。

 私のひとつの提案は、子どもの義務教育を変えることです。本来は親がすべきことであっても、強制することはできません。そこで親ができないなら、ある程度は強制可能な学校教育を変えるしかないというわけです。

 具体的には、まず理数系科目のウエイトを高くすることが挙げられます。理数系科目は論理的思考力の基礎となるからです。論理的に考えることが苦手な場合、感情や思いつきで判断したり、自分の行動がどういう結果を招くのかという想像もできません。

 もうひとつは、授業の中で自分で考える習慣をつける機会を増やすこと。現在の学校教育の多くは、教師が知識を伝え、生徒は受け取るのみであり、そこに「自分の頭で考える」「自分の意見・主張を持つ」「自分の考えを発表し、他者との違いを認め合う」という場はほとんどありません。また、テストでは問いを与えられ、最初から答えが存在していることばかりですから、自ら問いを発する、つまり課題を発見するという機会にも乏しい。

 たとえば国語では、小説の問題でも「こういうふうに解釈しなさい」と感じ方まで強制されます。正確に読む・書く・話す能力は重要なので、それを否定するわけではありません。そういう基本は押さえつつ、でも「そういう意見や考えもあっていい」という多様性が認められる場を盛り込むべきではないでしょうか。

 現状に疑問を持つことが少なく、「こうすべき」「こうしてはいけない」という強固な固定観念に縛られると、自由な発想ができません。言われたことしかできず、標準化された仕事はできるけど創意工夫して変えることが苦手だと、環境変化にも適応できず、所得が下がってしまう可能性もあります。

 学校の中で「あなたはどう考えるの?」「僕はこう思う」「私はこう考える」という討論やディベート、グループ研究・発表会などで、一人ひとりの個性を発揮させ、それを相互に認め合うような授業を増やすべきではないでしょうか。

 むろん、義務教育をちょっと変えるくらいで解決できるテーマではないし、集団の中ではどうしても差ができてきます。だから完全に格差をなくすことは不可能です。とはいえ大学以前に子どもが自分の頭でしっかり考えるような教育をすれば、「雇われるため」の進学だけではなく、たとえば高校を卒業したら起業家デビューとか、多様な人生の展開が自己責任においてできるようになる人が増えるのではないでしょうか。

 そういえば、お金に関する知識は学校教育では習わないですよね。生きる上ではとっても大切なことなのに。同様に、子育てに関する知識や、論理的な思考方法やコミュニケーション技術、挑戦しよう、努力しようというマインドセットのつくり方も教わらない。壁や逆境にぶつかって心を立て直す方法も教わらない。もしかすると、学校では教わらないことのほうが、実は人生においては重要なのかもしれません。
(文=午堂登紀雄/米国公認会計士、エデュビジョン代表取締役)