東芝メモリの売却先が米ベインキャピタル率いる「日米韓連合」に決まった。しかし、米ウエスタンデジタルとの訴訟が控えている上に、各国司法省における独占禁止法の審査を受けなくてはならない。もし、独禁法の審査が2018年3月末までに完了しなければ、東芝は2年連続、債務超過となり、上場廃止が決まる。

 そこで東芝は、海外の特定の機関投資家に新株を割り当てる「第三者割当増資」によって、6000億円の増資を行うことにした(「日本経済新聞」11月21日)。ゴールドマン・サックス証券が、買い手として集めたヘッジファンドを中心とする海外60社に、12月5日の払い込みで割り当てる。この6000億円の増資により、米原子力会社ウエスチングハウス(WH)の保証債務6000億円を一括返済する。これが税法上の損金として認められ、最低2400億円の税負担軽減による純利益の増加が見込めるため、7500億円の債務超過が回避できるという。

 上記により、仮に独禁法の審査が間に合わず、東芝メモリの売却が遅延しても、上場維持が可能になるとのことである。このような手法が使えるのなら、東芝の営業利益の9割を稼いでいるメモリ事業を売却する必要はないのではないかという疑問が湧いてくる。

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NOR、NAND発明から東芝を去るまで

 というようなことを考えていた最中の11月23日、NHKが放送した『ブレイブ 勇敢なる者「硬骨エンジニア」』という50分のドキュメンタリー番組を見た。この番組では、東芝でNORおよびNANDフラッシュメモリを発明した舛岡富士夫(ますおか・ふじお)氏と、その開発初期の頃のメンバーが実名で登場する。そして、発明から事業化へ至るまでの過程を、インタビューなどを交えて生々しく再現している。

 NORは主としてプログラムを記憶し、NANDは主としてデータを記憶するために用いられる半導体メモリである。IoTやビッグデータの普及により、市場が途轍もない速度で急拡大しているのは、後者のNANDである。

 舛岡氏が相当尖った人物であるということは噂に聞いていたが、番組で語られていた姿は、驚嘆すべきものであった。また、NANDの事業化に際しては、想像を超えた困難さがあったことが理解できた。

 本稿では、舛岡氏の経歴と動向を述べ、舛岡氏がどれほど尖っていたタレントで変人奇人だったかを番組で語られたエピソードを元に紹介する。その上で、なぜ舛岡氏がNANDを発明することができたのか、なぜ東芝がこれを事業化できたのかについて論じたい。

 最初に結論の1つを述べておくと、筆者は元日立の半導体技術者であるが、「このような研究開発や事業化は(たとえ舛岡氏がいたとしても)日立では絶対できなかった」と思われる。

日本では評価されなかった舛岡氏のアイデア

 まず、2種類の代表的な半導体メモリであるDRAMとフラッシュメモリ(NORおよびNAND)の世界市場規模の推移、そして舛岡氏の動向を見てみよう(図1)。

図1 DRAMとフラッシュメモリ(NOR&NAND)の市場規模と舛岡氏の動向
出所:電子ジャーナル『半導体データブック』などを元に筆者作成


 舛岡氏は、1971年に東北大学工学部電子工学科の博士課程を修了した後、東芝に入社する。最初は、半導体の研究開発部門に配属されたが、77年に営業部門へ異動となる。その際、IBMやインテルなどを“ドサ周り”してセールス活動を行ったが、「まったく売れなかった」という。

 1年で営業から外され、78年に半導体工場の製造技術部門の所属となる。東芝は、1MビットDRAMで大勝利を収め、世界の60%のシェアを独占し、舛岡氏はその技術開発に貢献した模様である。

 それから3〜4年後(1980年以降)に、再び半導体の研究開発部門の「ULSI研究センター」へ異動となる。舛岡氏を引っ張ったのは、当時の所長の武石喜幸氏であった。そして、舛岡氏は、80年頃にNORのアイデアを思いつき、84年にこれを国際学会で発表した。ところが、東芝をはじめ日本では全く評価されなかった。

 その一方、インテルがこのNORに着目した。インテルは直ちに東芝とクロスライセンスを結び300人からなる「フラッシュメモリ事業部」を立ち上げた。香港出身の技術製造本部の副社長(当時)であるステファン・ライ氏は、「東芝が発明したNORをインテルが改良し、量産と低価格化で成功を収めた」と述べている。そして、自身の広大な自宅を見せて、「これがアメリカンドリームだ」と語っている。

 NORを発明したにもかかわらず、インテルに事業で先行されてしまったが、舛岡氏はこれにめげることなく、87年頃にNANDのアイデアを思いつく。そして、“ゆるゆるの天才”のチームリーダー白田理一郎氏(現台湾清華大学教授)、舛岡氏の世話係兼叱られ役で通称“サンドバック”の作井康司氏(その後ソニーやインテルに転職)、元ラグビー選手で“影のチームリーダー”である百富正樹氏(現東芝メモリ技術研究所長)ら、個性豊かな10人ほどのメンバで、わずか3年後の1990年にNANDの試作に成功し、事業化に向けて動き出す。

 ところが、91年に、舛岡氏の後ろ盾であったULSI研究所長の武石氏が急逝してしまう(享年63歳)。当時は、主力のDRAMが1日に2億円の経常利益を上げており、その中で主流派に反してNANDを手掛けていた舛岡氏は、最大の理解者であり、擁護者を失ってしまった。

 舛岡氏の先輩であり上司でもあった飯塚尚和氏は、「舛岡君は、ダイレクトにものを言うタイプだから、上の者に気に入られることは滅多にない。舛岡君も他の上長ではやりにくかっただろう」と状況を説明している。

 そして、舛岡氏は93年に「技監」への昇進を命じられ、「部屋は与えられたが、部下を取り上げられ、予算も無くなり、東芝では研究ができなくなった」ため、1994年に東芝を退社し、東北大学教授に転じる。折しも、NANDの量産が開始された頃だったにもかかわらず―。

舛岡氏の強烈なキャラクター

 舛岡氏は、想像以上に尖った技術者だったようだ。よく言えば“タレント”であり、悪く言えば“変人奇人”である。番組では、舛岡氏の変人奇人ぶりを示す様々なエピソードが紹介されている。NANDの開発初期の頃のメンバーのインタビューなどを紹介しよう。

・作井氏は、朝からずっと怒られっぱなしで、周りから“舛岡さんのサンドバック”と呼ばれていたという。現在、湘南工科大学教授の渡辺重佳氏も、「舛岡さんには、しょっちゅう怒られましたが、舛岡さんは怒りながら眠っちゃうんですよ」と言っている。

・現在、東洋大学教授の堀口文雄氏は、「舛岡さんは、“地球は俺のために回っているんだ”と言っていました。“俺ファースト”という感じです」と述べている。

・外資系半導体メーカーに転じた有留誠一氏は、「舛岡さんの普段の仕事ぶりですか? はっきり言ってよく分からないですね。会社ではいつも寝ています。退社時間の5時頃になると、“飲みに行くか”というんですよ」という。作井氏は、「あんな人、他にいませんよ、目立っていましたよ、いい仕事をするので大目に見てもらえたのかもしれません」と述懐している。

・作井氏によれば、「舛岡さんは、午後3時に庶務の女性に紅茶を入れてもらうんだけれど、“香りが足りない”といってブランデーを継ぎ足すんですよ」という。その結果、伊藤寧夫氏によると、100人ぐらいの大部屋に酒の臭いが漂っていたそうである。

・舛岡氏は、家に帰ると徹夜で特許を書いていたらしい。それゆえ、会社に来るといつも寝てしまっていたようである。しかし、その結果として、東芝在籍中に500件もの特許を出願していたという。その中に、NORやNANDの特許が多数含まれているわけである。

・舛岡氏の直属の部下で、NANDのチームリーダーである白田氏とは仲が悪かった。多くのメンバーが、当時は、「白田さんは舛岡さんを避けていた。犬猿の仲だった」と言っている。白田氏も、「正直、舛岡さんとは距離を置いていた」と述べている。有留氏は、「朝、出勤すると、舛岡さんと白田さんの間にプランターが置いてあるんですよ。そのプランターで、2人が直接顔を合わせないようにしたようです」という。当の白田氏は、「僕が置いたんです。でも舛岡さんは、それを笑っていたようだ」と述べている。有留氏は、「ちょっと普通の人には理解しがたい関係でした」と述べている。

 キリがないのでこの辺にしておくが、NANDを発明した舛岡氏は極めつけの変人奇人で、NANDのチームリーダーの白田氏も、作井氏曰く「東芝以外では勤められない」ほどの変人であり、「舛岡さんとは違ったタイプの天才」だったようである。

なぜ舛岡氏はNANDを発明でき、東芝は事業化できたのか

 続いて、なぜ舛岡氏がNANDを発明でき、東芝はそれを事業化できたのかを考えてみたい。

(1)舛岡氏はタレントだった

 舛岡氏は、1971年〜1993年までの22年間の東芝在職中に、約500件の特許を出願しているという。1年で約23件、1カ月に約2件というとんでもないペースである(ちなみに筆者は16年間で55件。それでも日立では多い部類だった)。

 舛岡氏を知る人によれば、国際学会に行ってきて、分厚い予稿集を手に入れると、それを隅から隅まで読んで、それだけで数十件もの特許を書いたという。

 このようなエピソードから、舛岡氏は、スーパー技術者、いわば“タレント”だったと言えよう。その上、「地球は俺のために回っているんだ」と公言するほどの自信家であり、「誰の言うことも聞かない」自己主張の強い人物であるようだ。

 そのような強烈な個性が、「当時の常識では考えられない」ような発想をし、NORやNANDを生み出す源泉になったと思われる。

(2)営業と工場を経て研究開発部門に来た

 舛岡氏は、営業部門にいた時、「どんなに性能が良いメモリでも価格が高いとまったく売れない」という挫折を味わった。また、(おそらくDRAMの)工場で生産技術に関わった。そのような経験から、「メモリは安くなければならない、安くつくらなくてはならない」ことを痛感したのだろう。

 そこで、「わざと性能を落として安くする」ことを考えたという。これは、『イノベーションのジレンマ』で知られるハーバード・ビジネススクール教授のクリステンセンがいうところの“破壊的技術”に他ならない。

 実際、NORの後に発明したNANDは、当初は書込み速度がNORの1000倍遅かったという。この超遅いメモリに、誰もが「あきれた」そうである。

 筆者は、日立を退職した後、2003〜2008年に同志社大学で、「なぜ日本のDRAM産業が凋落したのか」を研究した。そして、「日本は、メインフレーム用に25年保証の高品質DRAMをつくって世界を席巻したが、PCの時代になってもつくり方を変えなかったため、結果的にPC用としては過剰技術で過剰品質のDRAMをつくってしまい、PC用に安価に大量生産したサムスン電子の破壊的技術に駆逐された」ことを突き止めた。

 したがって筆者は、「安くつくれるメモリ」を考えついた舛岡氏は、当時としては“常識はずれ”だったかもしれないが、“慧眼の持ち主”だったと思う。そして、それは営業や工場の経験に裏打ちされた信念に基づく発想だったと推測する。

(3)ドデカイ夢を語る

 さらに、開発初期の段階で、舛岡氏は、就職活動で面接に来た学生相手に、「NANDがハードディスクを置き換える!」と将来の夢を語ったそうだ。“サンドバック”の作井氏は、「あー、言っちゃった!」と肝を冷やし、長谷川氏は、誰もが、そんなバカなことがあるはずないだろうと思ったという。

 しかし、現在、舛岡氏の夢が現実になった。それに対して、伊藤氏は、「ある意味、舛岡さんの言う通りになっていますね、悔しい感じがしますけど」と語っている。舛岡氏が貫いた“非常識”が、30年の歳月を経て“常識”になったのである。

 筆者は、このエピソードから、新規ビジネスを開始する時、ドデカイ夢を持つことが、いかに大事かということを実感する。「着眼大局、着手小局」という諺があるが、リーダーたるもの、大局の“夢”を語ることができなければならないということだ。

(4)個性豊かな部下たちを自由にさせた

 しかし、「着眼大局」で“夢”を語ったら、「着手小局」とある通り、できることから始めなければならない。NANDの初期の開発チームには、“ゆるゆるの天才”のチームリーダー白田氏がいて、「電子量を制御する回路(Bit by bit verify)」を考案し、その結果、データの書き換え速度が上がり、性能も向上した。

 その白田氏は「何を言っても良い」という自由なチームを目指し、それがチームのカラーになった。その結果、会議をやっても何も決まらないことが多かったようだが、百富氏が“影のリーダー”となってチームをまとめていた。そして、“舛岡氏の世話係兼サンドバック”の作井氏がいて、白田氏、百富氏、作井氏の3人がお互い苦手なところをカバーし合うような絶妙なコンビネーションとなり、個性が強いメンバーなのにまとまっていたという。

 白田氏は、「舛岡さんは、細かいことは言わずに、自由にやらせてくれた。ある意味、僕らを信用してくれていたのかもしれない」と語っている。一方、当の舛岡氏も、「実際に技術開発をやったのはあの人たち。僕は“やれ”って言っただけ」と述べている。

 堀口氏は、「舛岡さんがとっても嫌な人だったから、部下たちは結束するしかなかった」という。また百富氏は、「舛岡さんは、戦略とか作戦とか複雑なことは全然考えない、マネジメントなんかしない」という一方、堀口氏は「実は舛岡さんはマネジメントがすごかったんじゃないかと思う。絶対に成功するような布陣を組んでいた」とも述べた。

 渡辺氏は、「舛岡さんが素面のとき、自分は方針しか言わない“お釈迦様”で、部下たちは全員“孫悟空”だと言っていた。舛岡さんは、“ふーふー”と吹いて、部下は自分の力でやっていると思い込んでいるけれど、実は“部下に自由に泳がせている”」と述べている。作井氏は、「舛岡さんは我々に時として“主役”を演じさせてくれた、後で考えると、舛岡さんは“黒子”のような存在だったかもしれない」という。

 中井弘人氏は、「技術は、自由にさせるマネジメントがないと絶対発達しない」と述べているが、舛岡氏が形成したNANDのチームは、個性豊かな人材が自由にのびのびと開発を行っていたようだ。これが成功した要因の1つだったと推測される。

(5)武石所長の後ろ盾があった

 舛岡氏が1987年にNANDを発明し、初期の開発チームがNANDを93年に事業化した頃は、DRAMが全盛の時代だった。東芝の半導体部門がDRAMに注力していた時、舛岡氏のチームだけが、別の方向を向いていた。

 作井氏は、「我々は日の当たらない坂道を上っていた、いわゆる日陰者です」と言い、堀口氏は、「東芝としては、そんなものに力を入れてはいけないというスタンスだった」という。渡辺氏は、「舛岡さんのことを“お荷物”だと思っていた人が多かった。NANDをやるくらいなら、“DRAMをやれ”とあらゆる人に言われた」と述べた。

 しかし、堀口氏が「舛岡さんが必死に守ってくれた」という。実際、舛岡氏は、「DRAMをやれと言われたら、僕はNANDをやると言い張った。それができたのが東芝だ」と言っている。

 そして、舛岡氏のNANDチームを擁護していたのは、ULSI研究所長の武石氏だった。「舛岡君のやり方で方向性は合っている。それでちゃんとやればいいんだ」とDRAM派閥に対する防御壁になっていたようだ。上司の武石氏こそ、舛岡氏の最大の理解者であり、NAND事業化の本当の立役者かも知れない。

 前述した通り、武石氏は91年に急逝する。最大の理解者であり、擁護者を失った舛岡氏は、「部下もいない、予算もない技監」に祭り上げられ、研究開発できない環境に追いやられた結果、93年に東芝を辞することになる。もし、武石氏がもう数年早くこの世を去っていたら、東芝はNANDを事業化できなかったかもしれない。

(6)東芝だったからできた

 タレントの舛岡氏が営業と工場を経験した後に、「性能を落とした安いメモリ」としてNANDを発明し、個性豊かな部下たちを自由にさせて開発させ、そのようなNANDチームを武石所長が擁護した。その結果、東芝は、NANDの事業化を実現した。

 以上が、「なぜ舛岡氏がNANDを発明でき、東芝が事業化できたか?」に対する筆者の回答である。

 しかし、もう一言、どうしても言わなければならないことがある。それは、「東芝だったからできた」ということである。

 冒頭で述べた通り、筆者は元日立の半導体技術者である。日立に、同じメンツが揃っていて、舛岡氏がNANDを発明できたとしても(いや、営業→工場→研究センターという異動があり得ないから、発明も無理かもしれない)、NANDの事業化は不可能だったと思う。DRAMの主流派に叩き潰されただろう。

 日立出身の筆者には、東芝の知人友人が多数いる。東芝で15回も講演している。その過程で、東芝の技術文化に触れることが多々あるが、間違いなく東芝の方が日立より、技術者の自由度が高いと感じる。そして東芝には、舛岡氏のような尖った変人奇人でも、居場所を与える懐の深さがあるように思う(武石所長の後ろ盾があってのことだったかもしれないが)。

 もし、舛岡氏が日立にいたら、間違いなく“出る釘”と見做されて、打たれ続け、引っこ抜かれて、捨て去られるだろう。NANDの事業化などは、不可能だ。

NANDの無い世界はもはや考えられない

 番組の最後で、作井氏が街を歩きながら、「スマホにも、家電製品にも、定期のICカードにも、クレジットカードにも、フラッシュメモリが入っているんです。あの回路が動いていると思うと、ワクワクしますね。何がすごいかっていうと、フラッシュメモリが入ったものを皆が持っているということです。そんなメモリは今まで無かったんです」と述べている。

 そして、「逆に、今、フラッシュメモリがなかったら、世界はどうなっちゃうんでしょうかね? スマホもこんなに普及していないかもしれないし、考えられないですね」という。まったく同感である。

 作井氏が言う製品だけでなく、現在、IoTやビッグデータが普及しつつある。IoTのセンサや、ビッグデータを記憶するサーバーに、大量のNANDが必要になっている。そして、IoTやビッグデータが産業革命を起こそうとしている。

 確かに、東芝が生み出したフラッシュメモリによって、世界が変わったのだ。それは、東芝の自由な技術文化によってもたらされたものだと思う。

 東芝は、メモリ事業を売却することになったが、“自由な技術文化”を失ってはならない。この“自由な技術文化”によって、“第2のNAND”を生み出さなければならないからだ。

筆者:湯之上 隆