春香が、24歳のとき。

心から愛していた男が、ある日忽然と姿を消した。

その日から、春香の時計の針は止まったまま。食事会に行っても新しい恋人が出来ても、まとわりつくのはかつて愛した男の記憶。

過去の記憶という呪縛から逃れることのない女は、最後に幸せを掴み取る事ができるのか?

最愛の恋人・祐也が姿を消してから3年経った頃。

真紀に誘われて訪れた美術館で春香を待ち受けていたのは、慶一郎と、ホームパーティーで再会したばかりの祐也。

「3年前に恋人が突然いなくなって酷い目にあった」と皆の前で爆弾発言した春香に向かって、祐也は「突然姿を消した恋人にもやむを得ぬ事情があったのかもしれない」と告げ、春香は動揺していた。




“地球上に、男は何人いると思っているの?”

今年大流行した女芸人がキレのあるネタを披露しているのを、春香はテレビ越しにぼんやり見つめていた。

そのとき携帯電話が鳴った。親友の恵子からだ。

「もしもし、春香?元気にしてた?」

久しぶりに聞く親友の声にホッとして、春香はここ最近起きた一連の出来事を一気に報告した。祐也と再会したこと、慶一郎と時々会っていること、そして美術館での祐也からの衝撃の一言。

「突然姿を消した男にだって事情がある」という祐也の言葉を聞いた恵子は、怒りに震えた声で言った。

「今更なんのつもりなんだろう…。いい、春香。祐也君の言うことになんて耳を貸しちゃダメ。金輪際、関わってもダメ。電話も無視するの」

でも、と言いかける春香に、恵子はさらに言った。

「慶一郎のことは応援する気満々だったけど、まさか祐也君と友達だったなんてね。祐也君を完全に切るためなら、ちょっと残念だけど、慶一郎とももう距離を置いた方がいいかもしれない」

春香は驚いて叫ぶ。

「えぇ!?慶一郎君のことも切るの?彼、何も悪いことしてないのに?」

恵子に尋ねながら、美術館の帰り道に春香を追いかけてきた慶一郎のことを思い出していた-。

「春香ちゃん、さっきの話、本当?3年前に消えた恋人の話」

春香が無言で頷くと、慶一郎は言った。

「あのさ、実は俺も」

そして言いにくそうな表情で、頭をかく。

「俺も、少しは気持ちわかるんだ。大学時代に別れた彼女のこと、当時2年くらい引きずったから」

春香は驚いて尋ねる。

「でもどうやって、未練を断ち切ったの?」

「ある日、彼女が新しい彼氏と歩いているところを見かけて、気づいた。もう彼女はあの頃の彼女じゃない、俺を好きだった頃の彼女とは別人なんだって。そしたら急に馬鹿らしくなったよ」

そして慶一郎は強い口調で言った。

「春香ちゃん、過去を見るんじゃない。今を見てほしい」

真剣な眼差しに吸い込まれそうになりながら、春香は慶一郎を見つめ返したのだった-。


「話がある」と春香を呼び出す慶一郎


ついに夢にまで現れた、あの人


「もしもし、春香。聞いてる?」

受話器の向こうから聞こえる恵子の声で、はっと我に返る。

「いい?もし仮に今後、慶一郎と付き合うとするじゃない?そうすると、絶対に祐也君の影がつきまとうと思うの。だって二人は友達なんだもの。そしたら春香、また苦しむと思う。だから、慶一郎とももう会わない方がいいんじゃないかな」

黙り込んでしまった春香に恵子は優しく語りかけた。

「春香、またゼロから頑張ろうよ。大丈夫だよ。男なんて星の数ほどいるんだから、出会いだってたくさんあるよ。ねえ、この世の中に一体何人の男性が存在すると思う?」

春香は弱々しく呟いた。

「…35億」

恵子との電話を終え、ソファに転がりながら呆然としていると、慶一郎からLINEがやってきた。

-春香ちゃんに、話があるんだ。直接顔を見て言いたいから、来週6日の水曜、仕事のあとに会えないかな。

そのLINEを見て、胸が高鳴った。

-話って、なんだろう。もしかして…?

春香は大きく深呼吸をして、手帳の12月のページを開き、6日のところに大きく印をつけた。

恵子の「もう会わないほうがいい」という忠告が頭によぎりながらも、最後にどうしても自分の気持ちを確かめたかったのだ。




女芸人のネタを見たせいだろうか、その晩は奇妙な夢にうなされた。

太いストライプのシャツに、黒のタイトミニスカートを履いた春香が、リズミカルな洋楽に合わせて無表情で踊っている。

そしてその後ろには、ネクタイ姿の祐也と慶一郎が腰に手を当てたポーズで立っているのだ。

「35億!」

自分の叫び声ではっと目が覚めた。額にはびっしょりと汗をかいている。

春香はベッドの中で頭を抱えた。

-悩むあまり、ついに祐也がwith Bになって夢にまで出てきたじゃない…!これは重症だわ…。

すっかり眠気から覚めた頭で、冷静に考える。

恵子からはもう二度と祐也には会わないよう忠告された。でも、このまま中途半端な状態で、事実から目を背けて逃げ続けていたら、春香はずっと心のどこかで祐也を引きずるのではないだろうか。

これからどこの誰と付き合っても結局、過去の恋人に理由もわからず逃げられたという傷を一生負いながら生きることになるのだ。

-今度こそ、蹴りをつけよう。祐也の“事情”とやらもちゃんと説明させて、納得したら、きっと前に進むことができる。

固く決意した春香は、朝が来るのを待って祐也にLINEを送った。

ついに最終決戦の幕開けだ-。


祐也についに勝負を挑む春香。その結末やいかに。


“忘れられない男”との最後の闘い


祐也を呼び出したのは、ミッドタウンの『ユニオン スクエア トウキョウ』だ。

春香が仕事を終えて店に着くと、祐也は先に来てメニューを眺めながら座っていた。

「祐也。姿を消した事情があるんだったよね。今日こそ聞かせてもらう」

春香が低い声で言うと、祐也は笑った。

「今日はずいぶん機嫌悪いんだね。まず、とりあえず食べようよ」

そして、メニューを指差し、春香の好きな牡蠣があるよ、と言って勝手にオーダーをしていく。

それからも祐也のペースは続き、春香が本題を切り出そうとするとうまくかわして、メニューを広げ、また春香の好物があったよ、とはぐらかす状況が続いていた。

やっぱり、祐也が居なくなったのに事情なんてそもそも無いのかもしれない。祐也は自分をからかっているだけに違いないと、春香は確信した。

「もう、話にならないから私帰るね…」

震える声で言うと、祐也は待って、と言って春香の手を取った。

「もう少し一緒にいて欲しいんだ」




そして春香の目をじっと見つめる。

「春香といると、純粋な気持ちになるんだ。またあの頃に戻ったみたいに。ねえ、俺たち、失った3年を今からもう一度はじめてみようか」

その言葉を聞いて、思わず春香は祐也の手を振り払った。

「私のこと、からかってるの?ねえ、なんでことごとく私の幸せを邪魔するの?せっかく新しい幸せを掴もうとしてるのに…」

悲痛な声で訴える春香を見て、祐也はしばらく黙り込んでいたが、突然はっとした表情で尋ねた。

「新しい幸せって、まさか慶一郎のことじゃないよね?あいつには気をつけた方がいいよ」

意味がわからず怪訝な顔をすると、祐也はふっと口元を緩める。

「やっぱり春香は純粋で、何もわかってないんだね。慶一郎は全部知ってるんだよ。俺と春香の関係も。知っていて春香に近づいたんだから」

-どういうこと…?

目の前が真っ暗になった。春香は動揺に耐えきれず、椅子から立ち上がる。

「ごめん…今日は私、やっぱり帰る」

ふらふらと歩き出した春香の背中に向かって、祐也は叫んだ。

「春香とやり直したいって言ったの、俺本気だよ。もし俺を許してくれるなら、来週の水曜日、ヒルズの展望台に来て。俺、待ってるから」

六本木ヒルズの展望台は、かつて二人で何度もデートした、思い出の場所だった。そんな心の傷をえぐるような場所に、二度と行くはずがない。行くわけがないじゃない。

自分に何度も言い聞かせながら、春香は重大なことに気がついた。

来週の水曜は、慶一郎に呼び出されている日でもあるということに。

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