glicoさんのデザインする帽子を求めて、数多くの帽子愛好家が訪れています

イヴ・サン=ローランをはじめとする、海外ハイブランドの帽子制作に20年以上携わってきた帽子デザイナー、glicoさん。その経験を活かした東京・麻布十番の路面店「WAGANSE」には、glicoさんのデザインする帽子を求めて、数多くの帽子愛好家が訪れています。「大好きな帽子を通じて人々を笑顔にしたい」という想いを込めた、一人ひとりと向き合う帽子づくり。変化の激しいファッション業界で一貫して抱き続けた「帽子へのひたむきな愛」。その軌跡をインタビュー。エンターテインメントコンテンツのポータルサイト「アルファポリス」とのコラボによりお届けします。

一人ひとりと真剣に向き合う帽子屋「WAGANSE」


アルファポリスビジネス(運営:アルファポリス)の提供記事です

――(「WAGANSE」にて)色とりどり、形もさまざまな帽子が並べられています。

glico氏:お店にいらっしゃるお客さまは、年齢も職業もさまざまですが、皆さま帽子を愛する方々ばかりです。そうした方々の多様なご要望にお応えするべく、フォーマルな結婚式のウェディングハット、パーティのヘッドドレスやコサージュから、中折れハットやベレー帽をはじめとするカジュアル帽子まで、5mm単位でサイズオーダーが可能な、幅広いジャンルの帽子を取り揃えています。

また、フルオーダーの場合、ご希望の色味や合わせる服装、帽子を被るシーン、また普段のお好みまで、直接お話を伺っています。そうしたご要望を元に世界でひとつだけの帽子をデザインし、アトリエ内にて、ひと針ひと針ハンドメイドでお作りしているんです。

――glicoさんの「帽子愛」に溢れた空間になっています。

glico氏:もともと、このお店を開く前は、海外ブランドの帽子デザイナーとして20年、その後、ウェブ上でレディース向け帽子通販ブランドという形で、個人向けの帽子づくりを10年ほど手がけていました。お客さま一人ひとりの帽子をお作りするうちに、「本当に似合うものをお届けするには、やはり対面でご要望を伺い、直接被っていただきたい」「もっとお客さまの要望に寄り添う形で帽子を届けたい」。そんな想いが募って、昨年、ここ麻布十番の地に初の個人向けの路面店を開きました。

このお店は大通りから一本離れた静かな場所にあるのですが、おかげさまで開店以来、たくさんのお客さまがご来店くださっています。振り返ると、幼い頃の“憧れ”から火がつき、その想いが消えないまま、引っ張られるようにしてここまで進んできたんです。その途中には、帽子づくりの場を一瞬にして失うなど、デザイナー人生を諦めるような出来事もありました。けれども今は、多くのご縁に巡り会い、助けられながら、こうして一対一で向き合える帽子づくりができていることに、帽子デザイナーとして、このうえない喜びと幸せを感じています。

glico氏:帽子を含むファッション全体の世界への最初の扉は、母と姉が開いてくれました。年の離れた姉は、私が小さい頃にはすでに、子ども服のデザイナーとして働いていたのですが、よく私にいろいろな服を着させてくれていたのです。周りとはひと味違ったファッションを見立ててくれる姉は私の自慢で、自然とデザイナーという職業が、私にとって憧れの対象になっていきましたね。

また、私の出身は名古屋なのですが、当時、洋書はまだ手に入りにくかった時代に、姉が『VOGUE』や『ELLE』などのファッション雑誌を、会社から持って帰ってきてくれていました。自分よりずっと歳上のオトナの雑誌をめくっては、その華やかな世界に想いを巡らせていましたね。自分も少しでも近づきたいと精一杯、だいぶ背伸びしておしゃれをしていたように思います。母親も、この業界にはいなかったものの、やはりファッションが好きで、よく私を街の帽子屋さんに連れて行ってくれていたんです。そうした中で、自然と、ファッションの世界全体への憧れを強くしていきました。

――華やかな世界への“憧れ”が出発点だった。


帽子屋WAGANSE代表取締役、デザイナー。愛知県名古屋市出身。幼少期より、母と姉よりファッションの洗礼を受け、帽子デザイナーの道を志す。東京・代々木にある帽子専門の学校「サロン・ド・シャポー学院」で学んだ後、帽子メーカーでのデザイン、プレス畑を経て独立。「アトリエglico」を立ち上げ、約20年間、日本におけるイヴ・サン=ローランのプレタポルテ部門のデザイナーとして携わる。その後、自身の帽子ブランド「WAGANSE」を設立。2016年、初の路面店となる麻布十番店をオープン。公式サイトhttp://waganse.com/

glico氏:そんな輝いて見えたファッションの世界の中で、特に「帽子のデザイナー」を意識するようになったのは、おしゃれに余念がなかった高校生の時、偶然入った帽子屋さんでの出来事がきっかけでした。お店の帽子をあまりに熱心に眺めていたからでしょうか、そこの方から「そんなに好きだったら、うちのお教室に来て作ってみない?」と、お店が開いている帽子教室に誘われたんです。

この時、人生ではじめて「自分で帽子をつくる」という体験をしました(70年代ファッションの中でも“フォークロア”が大好きだった私は、花柄をあしらった麦わら帽子を作りました)。それまで帽子は「買う」ものでしたが、教室で「作る」ことができたという達成感、実際に出来上がった帽子を手にとった時の、なんとも言えない“創作の喜び”のようなものが、心の内からこみ上げてきたんです。

「自分の好きだと思うものを作ることができる」。憧れだった世界が、急に現実味を帯びてきたようでした。ちょうど高校生活も後半に差し掛かっていた頃で、進路選択の時期でもあり、「東京に出て帽子の学校に通いたい。帽子のデザイナーになりたい!」と強く思うようになっていきましたね。

試行錯誤を重ね、みずからの“地図”を描く

glico氏:うちの親は放任主義でしたので、将来を決められるようなことはなかった代わりに、何でも自分で決めて進めなければなりませんでした。周りは大学や短大に進む友人が大半でしたが、帽子教室の先生や周りの大人にアドバイスをもらいながら、帽子を学べる学校も自分で探していました。学費も自前で用意する必要があったため、高校卒業後1年間は帽子屋さんでアルバイトとして働いていたんです。また、この時バイト先の帽子メーカーさんによくしていただき、進学先の東京での働き口も確保して、ようやく上京を果たしました。

――みずから道を描いて、好きな世界へ飛び込んでいく。

glico氏:東京での学びの場に選んだのが、代々木に今もある帽子の専門学校、「サロン・ド・シャポー学院」でした。私が通っていた頃は、10数名ほどの少人数のクラスでしたが、全国から帽子好きが集まっていて、教えてくださる先生もとても親身にしてくださり、とても温かい家族のような存在だったことを覚えています。ここで、帽子愛溢れる先生と仲間に出会い学べたことで、“憧れ”だった帽子に対して、“愛情”を抱くようになり、それをたくさんの人に感じて欲しいと思うようになっていったんです。

上京して最初の2年間は、昼間は学校で学び、夕方からは名古屋時代に紹介してもらった帽子メーカーのお仕事で、百貨店やファッションビルで帽子の販売をしていました。朝から晩まで帽子漬けの日々で、学業と仕事を両立させるのは大変でした。けれども、やっていることがすべて、自分の思い描く帽子デザイナーの道に繋がっているんだと思えると、まったく苦ではなく、むしろ毎日が充実しすぎて、寝ている時間ももったいないくらいで常に寝不足気味でしたね(笑)。

――好きな世界にとことん浸かっていきます。


学校を卒業して働いてからが、学びと失敗の本番という感じでした

glico氏:といっても、まだまだ田舎から上京してきた「帽子好きの素人」に過ぎませんでしたから、学校を卒業して働いてからが、学びと失敗の本番という感じでした。

通常、2年間の基礎過程を終えて学校を卒業すると、皆どこかのアトリエに入るのですが、私の場合は違いました。とにかく自由に自分の思い描く帽子が作りたかったのと、アトリエに入ることで型にはまってしまい自由がなくなるのが怖かったんでしょう。今思えば若気の至りですが、仕事を受けながら独学するのが一番の近道と考え、アトリエには入らなかったんです。

まだ何者でもなかった私でしたが、縁あって学校を卒業後、ある帽子メーカーに就職できることになりました。就職と言っても、正式な就職活動をしていたわけではなく、アルバイト先でのスカウトがきっかけでした。取り扱いブランドに関わらず、お店に来られるお客さまにとって「一番似合う帽子を」と、バイトの身分を超えて接客していたのを、メーカーの方が見てくださって、それがご縁でお声がけいただいたんです。

「断らない」姿勢で繋がった世界的ブランドの仕事

glico氏:こうしてはじまった私の“新社会人”時代は、とにかく失敗と学びの連続でした。その帽子メーカーではデザインの仕事だけではなく、プレスや市場調査など、帽子全般に関わる仕事をさせてもらっていましたが、すべてが新鮮で、最初は周りに追いつくことで必死でした。今でも覚えているのは、入社初日のこと。カジュアルが普段着だった私は、ハイファッションに身を包んだ先輩デザイナー方に圧倒され、とても恥ずかしい想いをしたんです。「自分も先輩たちのように格好よくならなければ」。そうして外見も仕事も、見よう見まねで覚え、自分なりに磨いていきました。

そこで働かせてもらいながら、少しずつ社会人としての常識を身につけ、仕事を覚えていくうちに、同時にデザイナーとしての帽子デザインのお仕事も、業界の知り合いを通して少しずつ受けるようになっていきました。その中には、大女優や有名俳優、ミュージシャンなど、名もなき新人デザイナーでは怯んでしまいそうなご依頼もたくさんありました。しかし、そうした能力以上と思える仕事に対しても、私は一貫して「断らない」と決めていたんです。

――みずからの“能力”を省みない、断らない。

glico氏:その代わり、毎日泣いていましたよ。「あー、なんて分不相応な仕事を引き受けちゃったんだろう」って(笑)。でも、チャンスはそう何度も巡ってくるわけではありません。自分の能力に照らし合わせた時、大抵は不相応だ、と思うわけです。けれど、そこで尻込みしていては、チャンスは通り過ぎてしまいますし、同じチャンスは二度と訪れてくれないのは周りを見てわかっていました。

自分の能力以上に思える依頼であっても、とにかく手を挙げる。そしてあとは泣きながら仕事(笑)。そうして、少しずつデザイナーとしての実績を積ませていただく中で、お声がかかったのが、幼い頃に雑誌を眺めては憧れた、イヴ・サン=ローランでの帽子づくりだったんです。

「華やかな舞台から一転」帽子づくりの場を失って

glico氏:この時も、「イヴ・サン=ローランの日本のプレタポルテ(高級既製服)の帽子作りに携わってみませんか?」というご依頼をいただいて、二つ返事で受けたことがはじまりでした。今まで手がけた作品を見ていただき、1〜2点試作品を作って見てもらうところからがスタートでしたね。ちょうどこの時期に、「アトリエglico」として独立して、他のブランドも含め複数の制作依頼を受けていたのですが、イヴ・サン=ローランでの仕事が増えるに従って、これ一本に絞るようになっていきました。

春夏と秋冬の2シーズン、本国フランスから“絵”が送られてきて、「今季はこれで」という形で毎回制作するのですが、思い返すといろいろな苦労がありました。広つばのキャノチエはサン=ローランの定番のアイテムですが、帽子の材料のサイズが決まっている場合、広げるためにひたすらつばの部分をひっぱりながら伸ばしていくのですが、指紋がなくなるくらい大変な作業でしたね(笑)。サン=ローランのメインの帽子である「トーク帽」の場合は、遊びのあるデザイン、曲線を出すためにチップ(木型の代わり)作りから始め、型入れをした際のフォルムの出方がイメージと違った時は、またイチからやり直すなど、これも苦労した思い出です。

また、当時は今よりも材料は豊富でしたが、それでも手に入らない素材はありました。例えば、“ゴールドのブレード”や“サン=ローランの色”など、ないときは探すのにもう本当に必死で駆け回って、それでもないときは自分で染めて色を出すことも。

そんな苦労の数々も、ショーを見れば一瞬で吹き飛びました。自分が作った帽子をモデルさんが被り、颯爽とランウェイを歩き世間から注目される……。帽子デザイナーとして、最上の喜び、報われる瞬間でした。

――幼いころに描いた、華やかな世界で生きている喜び……。

glico氏:ところが、そうした華やかな世界での、帽子デザイナーとしての幸せな舞台は、ある日突然なくなりました。イヴ・サン=ローランが別の海外ブランドに買収されることになり、どうなることかと思ったら、あっさりとポジションクローズ(部門閉鎖)が決まってしまったんです。「もうプレタポルテはやらないよ」と言われ……。独立してから20年近く、一人で日本のサン=ローランを請け負ってきたというデザイナーとしての自負も正直ありました。それらを一夜にして失う喪失感はかなりのもので、さすがに私も参ってしまいましたね。

glico氏:突然の買収と部門閉鎖。他のブランドを手がける気にもならず、本当にしばらくは何も手につきませんでした。デザイナーとしての生きがいが突然奪われ、目の前が真っ暗になったような感覚でしたね。この頃、家族以外には特に公にブランドのデザインを手がけていることは伝えていなかったので、誰にも悩みを打ち明けられないのも苦しいものでした。

そんなことがあって、2〜3年は、一切帽子とは関わらなかったんです。ずっと走り続けてきて疲れていたのかもしれません。ただ、結果的にこの“休養”が、それまで考えもしなかった、新しい世界へと私を引っ張ってくれたように思います。2〜3年休んでいたものの、帽子への愛が消えたわけではありませんでした。それどころか、だんだんと帽子への創作欲求が溢れてきたんです。それで少しずつ、自分の好きな帽子を作っていました。

――誰から依頼されたものでもなく、自分の“好き”に向き合ってみた。


自分が手がけた帽子を目の前でお客さまが被って喜んでいただけることは新鮮な出来事でした

glico氏:ただただ、自分の好きな1900年代のクラシカルな帽子ばかりを作っていました(笑)。ところが、そうした自分の状況を知った友人が、せっかくだから展示会を開いてはどうか、と提案してくれたんです。サン=ローラン時代と同じく2シーズン、作った帽子を展示会で並べると評判をいただき、そこから個人のお客さまから注文をいただくようになりました。

それまで、個人向けの帽子ではなく、あくまでブランドの帽子デザイナーとして、帽子文化全体に目を向けていたつもりでした。ところが、自分が手がけた帽子を目の前でお客さまが被って喜んでいただける。これはブランドのプレタ時代には感じられない、新鮮な出来事でした。そうして、徐々に皆さんの笑顔から、再び帽子デザイナーとしての道を見出し、帽子通販ブランド「WAGANSE」として新たな道で再出発することになったんです。

笑顔を届ける帽子づくりの挑戦と未来

――紆余曲折の中で、「好き」という気持ちを絶やさずに歩み続けてきました。

glico氏:やはり、その「好き」という気持ちの根源には、帽子を被った皆さまからのリアクション=「笑顔」がある。それが自分にとっての喜びだと気がついたんです。WAGANSEのブランド名であり店名の由来にもなった「和顔施(わがんせ)」は、相手を尊重し、大切にする心を表す「無財の七施」のうちの一つ「相手を想いやる笑顔で、優しく接する」という意味をもつ仏教用語です。「帽子をとおして、人々を笑顔にしたい」。その想いの究極が、ここ麻布十番のお店なんです。

帽子デザイナーを目指してこの世界に飛び込んだ時も、ブランドのプレタ時代の時も、このような形で、直に触れ合える帽子づくりができるようになるとは思ってもいませんでした。すべてを「楽しかった」のひと言で済ませられませんが、好きという気持ちを持ち続けることで新しい景色が見えてきますし、好きな道を歩む中で塞がった時に、予想外の「次の一手」に繋がったのだと、今は思います。

――glicoさんの「次の一手」、新しい挑戦もはじまったばかり。

glico氏:もっともっと、帽子の深くまで関わっていきたいですね。それには、まだまだ学ばなければならないことがたくさんあります。服を見ても、自然の景色を見ても、そこから得られる帽子づくりのヒントはたくさんありますから、辞めない限り終わりもありません。ちょうど今月は広島の百貨店で催事もあり、そこでは秋冬物の新作だけでなく、私の好きなヴィクトリア時代を感じさせる華やかで貴重なコレクションも展示します。帽子そのものの歴史、もう一度原点を探りながら、そうした時代物の帽子を、自分の解釈でアレンジ、表現していくのも、新しい挑戦のひとつだと思っています。

さらに帽子デザイナーとして、今まで以上に帽子の素晴らしさ、世界にひとつだけのオーダーメイドハット文化を広げていきたいと思っています。ファッションは自分を表現できるものであり、その中でも帽子は最終の仕上げとなるものです。帽子から選ばれる方もいるくらい大切なアイテムです。WAGANSE(和顔施)の名の通り、被った人が笑顔になる帽子を、これからも私自身笑顔とともに、お届けしていきたいと思います。

(インタビュー・文/沖中幸太郎)

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