新チームが発足してからも、本山は部分合流しか果たせないでいた。ようやく新人戦の途中から出場できるようになったが、高校サッカーでよくある1日・3試合などのハードメニューはもはやこなせず、春のフェスティバルでも1日・1試合の限定起用が続いた。
 
「当時はまだ内視鏡手術とか技術が進歩してなかったんで、ヘルニアを治すには開腹手術しかなかった。それは嫌だったんで、だましだましのまま1年を過ごしました」
 
 栄光に彩られる3冠ストーリーにあって、本山は笑顔の陰で深刻な持病と戦っていたのだ。
 
 高校サッカー界に燦然と輝く金字塔、トリプルクラウン(3冠)。“赤い彗星”こと東福岡が、1997年度に成し遂げた偉業で、インターハイ、全日本ユース(高円宮杯プレミアリーグの前身)、そして選手権を総なめにした。公式戦49勝2分けの無敗。怪物のようなチームである。
 
 前年度はインターハイ、選手権とともに県予選で敗れるなど、苦杯を舐め続けたが、決して無駄な1年とはしなかった。1年生の宮原裕司、金古聖司、千代反田充らがもがき苦しみながらも飛躍的な成長を遂げ、選手権予選の頃には上級生たちを突き上げるほどの存在になっていたのだ。
 
 本山は、こう振り返る。
 
「チームが新しくなってから、僕は腰の痛みもあって最初は出れなかったんですけど、もう形がしっかりできてる感じはあったし、県じゃもう負けられないぞってプレッシャーが半端なかった。49勝2分けですか。すごいっすよね。でもずーっと張りつめてたかと言うとそうではない。抜くところはしっかり抜いたりしてましたから(笑)」
 
 春のフェスティバルや練習試合では、公式戦とは異なり、「マジで弱かった」という。
 
 船橋招待フェスティバルでのひと駒だ。東福岡は埼玉の強豪・武南と戦った。バスが遅れて試合直前の到着となり、なんとか選手たちはキックオフに間に合ったが、志波監督はまだ姿を現わしていなかった。それで気を抜いたわけではないのだろうが、東福岡はずるずると失点を重ねていった。
 
「相手はBチームなんですよ。それでもボコボコにされてヤバかったですね。1点、2点と取られて、おいおい先生来るまでに同点にはしとかなきゃだぞとか言ってたんだけど、気づいたら7点くらい取られてて(笑)。したら先生が現れて、それはもうえらいことになりましたよ。『おい、手島(和希)、もういい、出ろ!』とか烈火のごとく怒ってて。あれは大変でしたけど、練習試合はそんな感じでしたね。なんだヒガシ、大したことないじゃんって思われてたんじゃないですか、最初は」
 
 だが、県内では絶対に負けられないという強い自負が、彼らの根底にあった。その潜在的な意識と重圧が、どんな試合でも打ち勝つ、破壊的な攻撃力を誇るチームへと変貌させていったのだ。
 
「公式戦になった時の切り替えはしっかりできてましたね。強かった。周囲の目がすごくてプレッシャーは相当なもの。その中で絶対に結果を出すぞ、こんなのに屈しないぞっていう想いを共有していた。で、ヒガシのいいところなんですけど、昔からあまり上下関係が厳しくないんですよ。ざっくばらんに先輩後輩で話をよくしたし、試合中もしょっちゅう意見交換をしてましたから。勝ちパターンみたいなのも掴んでいったし、ちょっとやそっとじゃ負ける気がしなかったですね」
 
 酷暑の京都開催となったインターハイは、決勝で帝京を相手に4-3の逆転勝ちを収めた。続く全日本ユースも接戦をモノにしながら勝ち上がり、決勝で小野伸二を擁する清水商に3-2の僅差勝ち。スコアだけを見るとぎりぎりで拾った印象があるが、実際は豪快なガブリ寄りだった。