一つひとつ記憶を紐解きながら、濃密な高校時代を振り返ってくれた本山。フットボーラーとして日進月歩の進化を続けた。写真:筒井剛史

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 1995年春、東福岡高校に入学した本山雅志は、すぐさまトップチームに引き上げられ、得意の2列目でプレーしていた。
 
 だが、インターハイ予選を前にしたある日、志波芳則監督は本山を呼び出してこう告げた。「お前、ボランチをやってみんか。やってみい」。本山はポカーンと口を開けて聞いていたという。
 
 志波監督に本山のコンバートを提案したのは、3年生の生津将司だった。同じ北九州市の出身で、入部してからというもの、弟のように本山を可愛がっていた天才肌のプレーメーカーだ。4-1-4-1システムの1ボランチは本来、生津のポジションだったが、「俺はひとつ前(シャドー)でやりたいです。本山ならできるはずだし、教えます」と直訴してきた。生津とサッカーの話をしたのは、3年間であの一度きりだったよなぁと、先生が懐かしそうに振り返る。
 
 なかなかのアイデアだ、さすがは生津だと思った。本山はシャドーでプレーしていたが、まだ線が細く身体ができていないため、圧倒的にパワーが足りなかった。ガツンとシュートが撃てず、いまのままでは上級生のディフェンダーたちに潰されるだろう。止める、蹴るの基本技術が高く、なによりピッチを俯瞰して見れる天性の“鳥の眼”がある。本人の今後を考えても有意義な経験になるはずだと信じ、名将はボランチへの配置を決めたのだ。
 
 最初は驚いた本山だが、「試合に出してもらえるならどこでもやろうと思った」と腹をくくる。
 
「前にいたのが小島(宏美)さん、山下(芳輝)さん、それに生津さんですからね。ボールを持ったらすぐに預ければ、全部やってくれました。それまであまりやってなかった守備のところを頑張って、とにかく走り回ってボールを奪い、止めて、蹴る。先輩たちの迷惑にならないようにサッカーしてましたよ。まだ怖いもの知らずというか、1年だから、勝たなきゃいけないっていうプレッシャーもなかった。だから楽しかったですねぇ。だってあの3人(小島、生津、山下)の後ろですよ?」
 
 ボランチでプレーし始めてまもなく、生津はやたらと居残り練習に付き合ってくれたという。本山にキック力を付けさせようと、ロングキックを何度も蹴らせた。「そういうタイプのひとじゃないはずなんですけど、どこかで罪の意識があったのかもしれない(笑)。だいぶ経ってからこういうことだったんだって聞かされました」と笑う。
 
 一方で志波監督は、本山の攻撃的なセンスを磨く機会もちゃんと与えてくれた。東福岡は夏のインターハイ本大会にエントリーしていたが、同じ時期、1年生チームにはブラジル遠征が組まれていたという。なんとトップチームのレギュラーである本山をインターハイではなく、そのブラジル遠征に参加させたのだ。
 
 攻撃的なポジションで好きなだけプレーさせてもらったという。「すごいいい経験になった。海外でプレーしてひとつの自信に繋がりましたから」と22年前の出来事を振り返り、感謝を口にする。
 
 ルーキーイヤーで迎えた選手権。県予選でアンカーのコツを掴んでいた本山は、本大会が開幕する頃には、東福岡に欠かせない主軸となっていた。
 
 1回戦で激突したのが、2年生の天才司令塔、中村俊輔を擁する桐光学園。抽選会で対戦が決まってから、本山にはひとつのタスクが与えられていた。思いもよらない、マンマークである。
 
「俊さんがすごい選手だってのはなんとなく知ってたけど、そこまで詳しいわけじゃなかった。で、試合ではマンマークで付けと志波先生に言われて、いいか、どこまでも付いていけと。めっちゃ走りましたよ、あの試合は。左を切って右に追い込んでいけばいいとか、右足でほとんどプレーしないとか、事前のスカウティングはそんな感じだったけど、とんでもない話で。さっと僕が左を切るじゃないですか。前にも味方がいるから大丈夫だろうって安心してたら、あっさり逆を取られて、『あー! それだけはやめてー!』って(笑)。サイドに流れても簡単に切り返して右足でセンタリングとか上げてたし、ぜんぜんスカウティングと違うんですけど!って。ただそう思いながらも、すんげー楽しかったんですよ。巧いですから、俊さんは。それを目の前で見れて本当に面白かった。まあ、自分が勝利に貢献できたかどうかは怪しいんですけどね」