港区在住。遊びつくした男が、40歳で結婚を決意。

妻には、15歳年下で、世間知らずな箱入り娘を選んだ。

4年後、妻が何の前触れもなく離婚を切り出す。しかも、思いもよらぬ「離婚条件」を提示して。

世間を知り尽くして結婚した男と、世間を知らずに結婚してしまった女。

これは港区で実際に起こった、「立場逆転離婚」の物語。

15歳年下の妻・利奈(りな)に突然離婚を切り出された夫・昌宏(まさひろ)。別居後、最初で最後の話し合いをすることに。昌宏が離婚を認めると、利奈が激昂してしまった。




僕たち夫婦の最後の夜。先に沈黙を破ったのは僕の方だった。

「利奈が最初に飲んだお茶だな」

「えっ?」

妻の反応に、僕は自分が思ったままを声に出してしまったことに気が付いた。

こぼれたお茶を拭く手を止め、怪訝な顔を向ける妻を見ながら、しまった、と思ったがもう遅い。

―言うつもりなんて、なかったのに。

僕を見つめる彼女は、明らかに次の言葉を待っている。

今夜は…今夜だけは。彼女をごまかしてはいけないことぐらい、もう僕にもわかっている。

覚悟を決めて口を開いた。

「あの時。僕たちのとこから子どもがいなくなった時…」

そこまで一気に言い切って、彼女の表情を伺う。

さっき…僕が離婚することに同意すると、怒って泣きじゃくった妻。

彼女が僕の前で我を忘れて泣いたのは、結婚して2度目。それはいやおう無しに1度目の辛い記憶を蘇らせる。

あの時「子どもがいなくなった」ショックから、妻はほとんど食事もとらなくなり、ベッドから起き上がれなくなった。

だからこそ、もう2度と思い出させたくなくて、彼女に忘れるよう諭し、僕は意図的にこの話題を避けてきたけれど。

―どうかこれ以上、彼女の傷が深くなりませんように。

そう祈りながら、僕は次の言葉を慎重に口に出す。

「利奈が離婚を決めたのも、あの時なんだとしたら…」

「私が最初に飲んだお茶、ってどういう意味ですか?」

質問を続けようとした僕の言葉を、利奈が質問で遮った。僕の話の途中で割り込んでくるなんて、こんなことは珍しい。彼女は少し興奮しているようにも見えた。

その勢いに押されるように、僕はまず、彼女の質問に答えることにした。


妻の意外な質問で、明らかになる夫の本心とは?




「利奈が、ベッドから出てこなくて。僕がベッドまで食事を運んでも食べなくなって、何もしゃべらなくなった時期、あったろ?」

「あまり…覚えていません。その頃の記憶は、ちょっと曖昧で…」

彼女にとって、記憶を失うほどつらい時期の話を続けていいものか、迷ってしまう。それでもまっすぐに見つめてくる彼女に促され、僕は言葉を続けた。

「その時最初に飲んでくれたお茶が、これだったんだ。その白雪香(はくせつこう)。」

「えっ?」

「しかも”良い香りね”って言ったんだ。それが久しぶりに聞いた利奈の声だったから、すごく嬉しくなっちゃってさ。」

彼女がうつむく気配がした。

「それからもずっとこのお茶だけは飲んでくれて、このお茶をきっかけに少しずつ食べるようになってくれたからさ。それ以来定期的に取り寄せることにしたんだ、ってだけの話なんだけど」

言っているうちに、この場にそぐわないどうでもいい話題のように思えてきて、たどたどしくなる。

妻は茶器に目を落としたまま、返事をしない。

「お茶の話なんてどうでも良かったよな。やっぱり、利奈から話してくれ。僕にいいたいことを、なんでも。」

沈黙に耐えられず、今度は早口になったことが自分でもわかった。

僕はこれまでの人生で「緊張」というものを、おそらくほとんどしたことがない。

だがおそらく今、僕の体の中を暴れまわっているこの胸の動悸が、きっと「緊張」というものなのだろう。

相手の返事を待つ間、これほど胸が締め付けられることなんてあっただろうか。思春期にも覚えがない程の痛みに、思わず胸に手を当てた、その時。

話を切り出すためか、妻が息を吸う音が聞こえた。

どんな質問だとしても、どんな罵りでも、僕は受け止め、答える覚悟をした。

けれど彼女が発した言葉は、予想外の言葉だった。

「あなたが好きで、自分のために注文してるお茶だと…。ずっとそう思っていました。」

「えっ?」

激しい怒りがぶつけられると予想し構えていた僕は、肩透かしに合った気分でまじまじと彼女を見る。

真意が分からず、必死で探ろうとする様子が分かったのだろう。利奈はもう一度言った。

「このお茶。あなたが、あの時の私のために…」

そこで言葉が切れた。切れたというよりその声が、詰まったように聞こえた。

さっきまで夕日に染まっていたリビングは、いつのまにか夜になり、青い月明かりと、かすかな街の明かりだけが薄暗く差し込んでいるだけ。

彼女の表情が分からない。

彼女の顔が見たくて、ルームライトのリモコンを探し、手に取る。そんな僕にかまわず、彼女は言葉を続けた。

「私のそんな一言のために、取り寄せてくれていたなんて、全然知りませんでした。」

「…言わなかったから。それに君のためにやりました、なんて言うべきことじゃないだろ。」

僕はそう言いながら、リモコンのスイッチを押した。

暗かったリビングが暖炉の灯のようなオレンジの光に照らされ、ゆっくりと明るくなっていく。

「私たち、バカみたい」

そう言った彼女は、泣いているようにも笑っているようにも見えた。

「あなたが私に言うべきじゃない、と抑さえていたことこそが、私がずっと欲しかった言葉で。」

声は明るいのに、ひどく悲しく聞こえる。

「私もきっと同じ。自分が…私が、我慢すればいい…と。押さえた言葉こそが、あなたにとって必要だったのかも。」

そして。

「私たちは2人とも」

まるで独り言のようにポツリとつぶやいた。

「いつも、いつもお互いに…相手に伝わらない方法ばかりを選んでしまってたんですね。」


お互いの思いに気が付いた夫婦は、果たして…



つい1時間ほど前までお互いに感情を爆発させていたことがウソのように、僕たちは静かに向かい合っていた。

彼女はお茶を愛おしそうに口に含むと深呼吸をした。

溜息ではない、決意表明のような深呼吸。そして、しつこいのは分かっています、と前置きしてから言った。

「あの時、あなたが不妊治療を絶対に許してくれなかったのは、私の唯一の夢であることとか、必死さが伝わっていなかったからですか?」

「違うよ。利奈の本気は痛い程、伝わっていた。でも、あれ以上君がボロボロになることだけは、本当に…本当に防ぎたかった。」

口にしてしまうと、あの時泣きじゃくっていた彼女の映像が蘇り、今でも胸が苦しくなる。それでも僕は続けた。

「あの時の僕にとって大切なのは、子どもより利奈だった。」

「でもそれはつまり、あなたは私がどんなに辛くても、何年かかっても頑張れる、とは信じられなかったってことですよね。」

「正直そう言われたらそうなのかもしれない。僕の中で利奈はずっと守るべき存在だったから。多少強引に君を押さえつけてでもやめさせたかった。」

「今はどうですか?」

「今の利奈なら…」

僕は、今、何を言おうとした? 言いかけてハッとした。言葉に詰まった僕を彼女が促す。

「今の私なら?言ってください。」




彼女に繰り返され、僕は気が付いてしまった。あの時の利奈と今の利奈に、僕は全く違う感情を抱いていることを。

まるで全てを見透かすような妻の視線に、僕は覚悟を決める。

「…今の利奈だったら。僕は治療を止めなかったかもしれない。」

「それはなぜ?」

「利奈が…自立して生きていける女性なんだと知ったからだ。僕が守る必要の無い強い、女性だと…。」

彼女はゆっくりと、微笑んでっ言った。

「私が変わったから、あなたの考え方も変わった。でも、私の本質は何も変わっていないの。あなたが守りたいと思っていた女の子も、強い女性になったのも私。」

認めるしかなかった。

彼女が何を言いたいのか、今ははっきりと分かる。

僕は…。僕が選んだ「15歳年下の妻」に、ずっと僕の力と庇護を必要とする女の子のままでいてほしかった。

その欲に惑わされ、彼女の可能性も成長も信じず、全く気が付いていなかった。けれど。

籠の中でしか生きられないと、僕が勝手に思い込んでいただけで、妻はいつのまにか…自分の力で僕の元から飛び立とうとしている。

だが、待ってくれ。

まだ、引き留めることを許されるなら…。

今更でも。自分の過ちに気がついた僕が、できることはたった1つ。

「ずっと…本当の利奈を知ろうとせずに申し訳なかった。もし、僕が今から変われたら…僕達がまた、はじめられる可能性はある、だろうか…。」

エンドロールが流れ始めた映画に、必死に終わらないでくれと叫んでいるような、そんな切ない気持ちで、僕は妻の次の言葉を待った。

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過ちに気が付いた夫。夫の思いを知った妻の決断は!?