PK失敗に涙した駒野。周囲に励まされてもなかなかショックは癒えなかったという【写真:Getty Images】

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クロスバーに弾かれてしまったシュート

 1979年生まれ組が「黄金世代」と称される一方で、「谷間の世代」と呼ばれていた1981年世代。ワールドユース(現U-20W杯)や五輪ではグループステージ敗退を経験したが、2010年の南アフリカW杯では決勝トーナメントに進出した日本代表チームで軸となる世代となり、今なおJクラブで主力を担う選手たちもいる。この世代の中心的選手であり、現在アビスパ福岡でプレーする駒野友一は、自身が歩んできたサッカー人生について何を思っているのだろうか。(取材・文:元川悦子)

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 パラグアイが3人決め、日本も遠藤保仁(G大阪)、長谷部誠(フランクフルト=当時ヴォルフスブルク)が決めた後、日本の3番目・駒野友一(福岡=当時磐田)がゆっくりとゴール前へ歩み寄った。

 6月30日夕刻、南アフリカ・プレトリアのロフタス・ヴァースフェルドスタジアムに集まった大観衆は、大会通じて献身的なプレーを貫いたDFがPKを蹴る瞬間を固唾を呑んで見守っていた。

「すごく集中していた」と駒野は言う。日本代表の岡田武史監督(現FC今治代表)は「PKの順番は勘で決めた」と後に語ったが、彼のキックが誰よりも正確だと認めていたからこそ3番手を託したに違いない。

「オシムジャパンで挑んだ2007年夏のアジアカップ(東南アジア4ヶ国共催)の3位決定戦でも、僕は3番手を任されました。あの時は『えっ、自分?』とすごく驚いたけど、落ち着いて普通に決めることができた。だから南アの時はそれほどびっくりしなかった」と彼自身も少なからず自信を持っていた。

 蹴った瞬間「少し上に行ったかな」という感触は残ったものの、シュートは枠を捉えると思ったという。が、次の瞬間、ボールはクロスバーを激しく叩く。非情な現実を前に、駒野は両手で顔を覆うしかなかった……。

 日本の敗退が決まった時、駒野は大粒の涙を流し、岡田監督に肩を抱かれた。12歳からの親友・松井大輔(オドラオポーレ=当時グルノーブル)にも慰められても、マッチアップしたパラグアイのネルソン・アエド・バルデス(セル・ポルテーニョ)から「マイフレンド」と励まされても、簡単にショックは癒えなかったという。

浮き沈みの激しいサッカー人生

 2010年南アフリカワールドカップラウンド16・パラグアイ戦の惜敗は、今も重要な歴史の1ページとして日本サッカー界に深く刻まれている。あれから7年の月日が経過し、駒野は「帰国してしばらく休んでいた時はどうしても引きずってしまったけど、磐田の練習に復帰し仲間とボールを蹴ってる時に楽しさを感じて、徐々に切り替えることができました」と改めて当時を述懐してくれた。

 このエピソードに象徴されるように、駒野は浮き沈みの激しいサッカー人生を送ってきた。和歌山県海南市からサンフレッチェ広島ユースへ進み、18歳でトップに昇格。プロ2年目の2001年からコンスタントに試合に出始め、同年6月のワールドユース(アルゼンチン)にも参戦。左ウイングバックとして奮闘する。

 右の石川直宏(FC東京)、左の駒野というのは間違いなく日本の大きな強みだった。けれども彼らは持てる力を出し切れずにグループリーグで惨敗。これをきっかけに、81年生まれの世代は「谷間の世代」と揶揄されるようになってしまった。

「確かに結果としてワールドユースで負けて、そう言われましたけど、僕自身は別に気にしていなかったですね」と駒野は気丈に語ったが、なぜか彼には「谷間の世代の代表格」というイメージが長くつきまとった。

 2004年アテネ五輪でグループリーグ敗退した時、2006年ドイツワールドカップ初戦・オーストラリア戦(カイザースラウテルン)でジョン・アロイージ(現ブリスベン・ロアー監督)にドリブル突破されて3点目を奪われた時、2007年に広島がJ2降格を強いられて磐田に移籍した時、南アのパラグアイ戦……。駒野は「悲運のサイドバック」という見方をされることが多かったのではないか。

「挫折があってもボールを蹴るといろんなことを忘れる」

 しかしながら、広島、磐田、FC東京、福岡と4つのJクラブで18年間のプロ生活を送る中、残してきた足跡はまさに「偉大」の一言に尽きる。J1・J2通算出場試合数は間もなく500に到達する見通しで、日本代表の78試合出場1ゴールという実績も81年組ではダントツトップ。

 ドイツ、南アと2度のワールドカップに出場し、2014年ブラジル大会もサポートメンバーに名を連ねたのだから、どれだけ息の長い選手かよく分かる。松井が「コマほど安定感のある選手はなかなかいない」と感心していたが、それは同世代に共通する思いだろう。

「息の長い仕事ができている原動力? 南アのPK失敗を乗り越えた時もそうだけど、やっぱり一番はサッカーが好きだからですね。挫折があってもボールを蹴るといろんなことを忘れる。ケガのリハビリをしていても、走ったりフィジカルトレーニングをしている時はきついけど、ボールを蹴ると自然に笑顔になれる。そういう感覚を持ち続けていられるから、ここまで来れたのかなと思います。

もちろん同世代や年長の選手たちの刺激も大きいですよ。今はヤマ(山瀬功治)も同じチームで一緒にグラウンドに立ってますけど、それはホントに嬉しいことですね。松井が36歳で海外に再挑戦したり、阿部(勇樹=浦和)ちゃんたちがACL(アジアチャンピオンズリーグ)で勝ち上がったりするのを見ても励まされます。

自分もあと何年、現役を続けられるか分かんないけど、また同い年の選手と同じピッチでぶつかり合えればいい。そういう気持ちは強いですね」と駒野は爽やかな笑みを浮かべた。

 2016年途中に移籍してきた福岡では、今季から愛着のある背番号3をつけ、サイドバックを担当。今季39試合に出場し、1ゴールという結果を残している。

「(昨季半年間を過ごした)東京の時はケガばっかりで、何も残せなかった。今、こうやって試合に出られるのはすごく幸せなことだと思います」と本人もしみじみ語る。

多くの修羅場を経験。ここぞで頼りになる存在に

 井原正巳監督からはリスタートのキッカーも任され、アシストを量産。一時はJ2アシストランキングトップにも立っていた。持ち前の走力に加え、キックの精度という際立った武器があるのも、駒野が36歳になっても輝き続けられる秘訣だろう。本人にもそういう自負はあるようだ。

「僕自身、高さのある選手に合わせるボールを昔から上げられるタイプ。キックを武器にできて、それを今も出せているのはすごくいいことだと思います。チームも8月の(V・ファーレン)長崎戦から(9月のロアッソ)熊本戦まで6試合勝ちなしと苦しみましたけど、その後の何試合は勝ち点をしっかり取れていた。

ラスト5試合は上位チームとの対戦が続いて難しかったし、結果的には4位とJ1昇格プレーオフに回ることになりましたが、ここまで来ればどことやっても一緒。自分としてももう一度、J1の舞台に立ちたいので、それを目指して最後まで戦っていければいいと思います」

 福岡が1年でのJ1復帰を果たすためには、26日のプレーオフ準決勝・東京ヴェルディ戦、そして12月3日の同決勝を制するしかない。シーズン序盤から2位をキープしてきた彼らにとって、プレーオフを戦うことはメンタル的に厳しいだろうが、苦境に立たされた時こそ、頼りになるのが数々の修羅場を潜り抜けてきた駒野友一である。

 彼は自分から周りにアクションを起こしたり、言葉を発したりするタイプではないが、地味にコツコツと自分の仕事をこなすことで仲間を鼓舞できる男。縁の下の力持ちのキャラクターをいかんなく発揮して、福岡を大願成就へと導いてほしいものだ。

(取材・文:元川悦子)

text by 元川悦子