日本ハムの新入団会見に臨んだ清宮【写真:石川加奈子】

写真拡大

日本ハム13代目の背番号「21」となった清宮

 日本ハムからドラフト1位指名を受けた清宮幸太郎の背番号が「21」に決まった。ファンの多くは意外に思ったのではないか。日本ハムでは「21」は代々エース級の投手が背負ってきた背番号だ。ついこの間までは抑えのエース・武田久もつけていた。

 日本ハム以外のチームでも「21」は、「18」に次ぐエースナンバーとみなされることが多い。清宮の「21」は、かなり異例だと言えるだろう。日本ハムの「21」の代々の系譜を振り返ろう。年、成績は背番号21の時のもの。

清水喜一郎 内野手 1946年-1947年
111試315打59安0本19点5盗、打率.187

関口義雄 内野手 1948年
29試67打11安0本1点0盗、打率.164

上林繁次郎 捕手 1949年-1951年
214試575打114安7本46点8盗、打率.198

山本光一 投手 1952年
15試0勝1敗、防御率6.52

大畑庄作 捕手 1953年-1957年
48試58打9安1本4点0盗、打率.155

土橋正幸 投手 1958年-1968年
425試157勝132敗、防御率2.64

高橋直樹 投手 1969年-1980年
398試138勝139敗10S、防御率3.24

高橋里志 投手 1981年-1984年
90試14勝16敗2S、防御率3.84

三沢淳 投手 1985年-1986年
20試2勝1敗0S、防御率1.89

西崎幸広 投手 1987年-1997年
263試117勝97敗2S、防御率3.24

清水章夫 投手 1998年-2003年
116試10勝22敗1S、防御率4.44

武田久 投手 2004年-2017年
521試30勝30敗167S107H、防御率2.59

人気を博した10代目の「21」西崎、12代目・武田久は守護神として活躍

 日本ハムの最初の「21」は、まだ1リーグ時代のセネタースに、明治大学から入団した清水喜一郎だ。164センチと小柄な内野手だった。

 2代目は1948年、急映フライヤーズ時代に入団した関口義雄、新人時代に1年だけ「21」をつけた。2年目に名前を浜田義雄と改名、背番号も「25」に改め、二塁手として長く活躍した。3代目は捕手の上林繁次郎。中日から移籍した捕手。のちに政治家になったことで知られる。

 4代目は投手の山本光一。1952年に1年だけプロで投げた。5代目は捕手の大畑庄作。浜松工業から東急フライヤーズに入団し、2年目の1953年から「21」をつけた。6代目は東映フライヤーズのエース土橋正幸。浅草フランス座の軟式野球からプロ入りした変わり種だが、ずば抜けた制球力で20勝以上5回、昭和中期を代表する投手となった。のち日拓、ヤクルト、日本ハムの監督も務めたレジェンドだ。この土橋以降、「21」は主戦級の投手の背番号となる。

 7代目は、サイドスローのエース高橋直樹。この投手も制球力の良さで知られた。8代目は、トレードで広島からやってきた高橋里志。広島時代に20勝したこともある実力派だ。9代目はアンダースローの三沢淳。彼も中日では105勝した一線級投手。キャリアの最後の2年を日本ハムでプレーした。

 10代目は西崎幸弘。1980年代、近鉄の阿波野秀幸と人気を二分した二枚目エース。西崎はのち西武に移籍するが西武でも「21」をつけた。11代目は清水章夫。ここまで投手はすべて右腕だったが、清水は左腕。1997年、近畿大からドラフト1位で入団。将来を嘱望されたが、肘の故障もあってプロ通算17勝で終わった。

 12代目は今シーズンまで「21」をつけていた武田久。入団時は「54」だったが、2年目から「21」をつけ、最多ホールド1回、最多セーブ3回。170センチと小柄だが、守護神として長く活躍した。武田久は今オフに退団。清宮幸太郎が13代目の「21」になった。

 チームはMLBで3000本を打った大打者、ロベルト・クレメンテも意識して「21」を与えたという。エース、好投手の印象が強い日本ハムの「21」。清宮はその印象を変えることができるだろうか。(広尾晃 / Koh Hiroo)