東京ヤクルトスワローズに入団した新人時代の増渕竜義氏。2007年3月撮影(写真:共同通信社)

今年のプロ野球ドラフト会議で話題をさらったのは7球団から指名を受け、北海道日本ハムファイターズに入団が決定した清宮幸太郎(早稲田実業)と広島カープに入団が決まった中村奨成(広陵)だった。高校通算111本のホームランを放った清宮にも、夏の甲子園で最多本塁打記録を塗り替えた中村にもたぐいまれな才能があることは誰もが認めている。

高卒ルーキーの目の前にある課題

高卒ルーキーがすぐに1軍で活躍できるほどプロ野球は甘い世界ではない。不慣れな木製バット対策、一流投手のスピードとキレへの対応、1シーズン通して戦い抜くための体力づくり……目の前には課題がたくさんある。

最近の高卒ルーキーを見れば、1年目に藤浪晋太郎(阪神タイガースに2013年入団)が10勝、大谷翔平(日本ハムに2013年入団)が3勝をマークしているが、好成績を残した野手はほとんどいない。投手との二刀流で45安打、3本塁打を記録した大谷と、6本塁打を放った森友哉(埼玉西武ライオンズに2014年入団)が目立つぐらいだ。

2006年ドラフト(高校生選択会議)で東京ヤクルトスワローズに1位指名を受けた増渕竜義はプロ1年目の2007年4月に1軍マウンドに上がり、10月にはプロ初勝利を挙げた。プロ4年目の2010年にはセットアッパーとして57試合に登板し、2勝3敗20ホールド、防御率2.69という成績を残した。2011年には先発に回り、7勝をマークしている。

しかし、翌年以降は不振に陥り、2015年限りでユニホームを脱いだ。期待されながら、27歳で引退したドラフト1位に「高卒ルーキーがぶつかる壁」について聞いた。


増渕竜義(ますぶち たつよし)/1988年埼玉県生まれ。鷲宮(埼玉)のエースとして甲子園出場を目指したが、高校3年の夏は埼玉県大会決勝で敗れた。現在、野球スクール「Go every baseball」塾長(筆者撮影)

「高校を卒業したばかりの選手はプロ野球に慣れるのが大変です。清宮くんも中村くんも野手なので、いきなり1軍で活躍するのは難しいと思います」と増渕は言う。

増渕がプロ入りにあたってまずしたことは体づくりと、入団するチームの先輩やコーチの顔と名前を覚えること。新人として特に気をつけたのは、挨拶であり、礼儀だった。増渕はチームに合流したときのことをこう振り返る。

「とにかく、先輩たちに失礼がないように、元気よく、きびきびと動くように心がけました。周りからは、『今年のドラフト1位はどんな選手だ?』と値踏みされるような視線を感じましたね」

鷲宮高校時代に150キロ近いストレートを投げ、県立高校を埼玉県大会決勝まで導いたが、全国的には無名。選手やスタッフの視線が痛かった。「ドラフト1位はメディアに囲まれて、なかなか身動きが取れません。下手なことはできないなと思いましたし、緊張しっぱなしでした」と増渕は言う。

増渕がグラウンドでいちばん驚いたのは、ストライクゾーンの狭さだった。高校のときよりも、1個半くらい違ったという。キャンプでプロ野球の審判の判定を聞いて「えっ、そこがボールなのか?」と戸惑い、コントロールに自信がなかった増渕は不安を感じた。

しかし、そのときはコーチの言葉に救われた。「おまえは、コースを狙わなくていい。真ん中を狙って腕を振って投げろ」という指示どおりのピッチングをしているうちに、コントロールを気にしすぎると狙ったところに投げられず、思い切って投げたときにはいいコースに決まることに気がついた。

当時の古田敦也監督には「力のあるストレートと、ストライクを取れる変化球が2つあればなんとかなる。あとはキャッチャーの仕事だ」と言われた。長所を見失うことなく、新しい武器を身につけるようにというアドバイスだった。

増渕は、150キロを超えるストレートとスライダー、シンカーを武器に、一軍で実績を積み上げていった。

「おまえは結果を気にしちゃいけないピッチャーだ。コースを狙うんじゃなくて、ストライクゾーンの上か下か、右か左でいいから」

当時の荒木大輔投手コーチの言葉によって、自分のピッチングを確立できたと増渕は考えている。

「いつかクビになる」という危機感

当時のことについて本人はこう振り返る。

プロ野球のピッチャーにとって大切なのは、コントロールとキレなんですよ。でも、コントロールを意識すると、どうしてもスピードが落ちます。だから、ガムシャラに力一杯に投げ込むように心がけました。最初のうちはそれでよかったのですが、そのうちにバッターが僕のボールに慣れてきて、なかなか抑えられなくなり、思い切り投げたストレートが打たれることが増えてきました」

「そうなると、スピードを維持したまま、コントロールをつけないとプロの世界では生き残れないと思うようになりました。毎年、いいピッチャーがドラフトで入ってくるので焦りもありました。『いつかクビになるんじゃないか』という危機感も」


11月18日に開かれたイベントで当時を振り返る増渕氏(編集部撮影)

先発でもセットアッパーとしても実績を残した増渕だったが、2014年3月にファイターズにトレードされ、2015年限りでユニホームを脱いだ。9年間のプロ野球生活で残した成績は15勝26敗、防御率4.36。どうして、27歳の若さで引退したのか?

「先発、中継ぎの両方を任されることは光栄なことでしたが、心のコントロールが難しかったです。僕の技術不足がいちばんの原因なのですが、先発と中継ぎを両方やるときに、力の配分がうまくできなかった。中継ぎはつねに全力で、先発ならスタミナ配分を考えながら投げなければいけないので。2013年には、自分のピッチングを見失ってしまいました。そのころ、イップスになりました」(増渕)

イップスとは、もともとボールをコントロールできていたプレーヤーが自分の思うように投げられなくなる状態を指す。故障をきっかけに発症することもあるが、ほとんどは心因性だといわれている。心が体の動きを邪魔してしまうやっかいな症状だ。

増渕は思い切り投げることができなくなってしまった。ボールを持っている感覚さえ失ったという。それまでは「イップスって何?」と思うほど頓着することがなかったのに、ある日突然、イップスに襲われてしまったのだ。

「コントロールやキレを意識しすぎたせいではないかと思います。思い切り腕を振ることができなくなりました。バッターと勝負しなければいけないのに……。コースを狙って投げようと考えすぎると、うまく投げられない。それからおかしくなりました」(増渕)

周りの人からはさまざまなアドバイスをもらったが、症状はよくならなかった。周囲のアドバイスが心の負担にもなった。

「ボールを投げる感覚は人それぞれなので……どうしてもコースを狙う意識が強すぎて、うまくいきませんでした。いろいろ試しましたが、結局、治りませんでした」(増渕)

ネットに向かって投げるネットスローを繰り返したし、遠投をして最適なリリースポイントを探しもした。専門医を訪ね、メンタルトレーニングも行った。しかし、ピッチングの感覚を取り戻すことはできなかった。

「ピッチングらしいピッチングもできないのに、給料をもらうことが申し訳なくて……チームに貢献できるようにと頑張ったのですが。2015年は、もがき苦しみながら過ごした1年です。投げることが嫌になって、キャッチボールもしたくない。これ以上続けたら、野球が嫌いになると思いました」(増渕)

プロ野球に挑むルーキーへの提言

 シーズン後に戦力外通告を受け、ユニホームを脱ぐことを決めた。潔すぎる引退だった。

「それまで悔いが残らないように練習をしてきたつもりなので、悔しいですが、『やることはすべてやった!』と思えました」(増渕)

高校時代にどれだけすごい成績を残しても、プロ野球で活躍することは難しい。実績をどれだけ積み上げても、それをプロ野球に持っていくことはできない。プロの世界で長く活躍するために必要なことは何なのだろうか。


「プロに入ればいろいろな課題が出てきます。でも、大事なことは、ドラフトで指名された自分の長所を見失わないことと、焦らないこと。最初からいい成績を残したいと思うでしょうが、1年目から活躍できる高卒ルーキーはほとんどいません。3年目に結果を残せるように考えてほしい」

「コーチからもいろいろなアドバイスをもらいますが、自分に合ったものだけ取り入れて、そうでないものは聞き流していい。樹でたとえるならば、幹がまだ育っていないのに、枝ばかりを増やしても仕方がない。壁にぶち当たれば弱気になることもあるでしょう。でも、1年目、2年目、3年目の目標をしっかり持って、地道にコツコツやることが大事だと思います」(増渕)

(文中敬称略)