―大好きな吾郎くんが、私と結婚してくれたー

数々の苦難の末に、結婚願望のない男・吾郎との結婚に辿りついた英里。

結婚はゴールでないことなど、百も承知。

しかし、そんな二人を待ち受けていたのは、予想を上回る過酷な現実であった。

愛し合っていたはずの夫婦は、どのようにすれ違い、溝ができてしまったのか。

男女の価値観のズレ、見解の相違、そして、家庭外での誘惑...。

二人はとうとう、 “新婚クライシス”を迎えた。




「何も変わってないのは、吾郎くんの方でしょう!!!」

グラスが割れる音が深夜の薄暗いリビングに虚しく響いたとき、英里は自分が思わず声を荒げたのに気づきハッとした。

とうとう、やってしまった。

なるべく穏便に平和な結婚生活を過ごそうと、これまで散々気をつけてきたのに。吾郎と入籍を果たしたときに感じた、あの天にも昇るような幸福感を一生忘れないと自分に固く誓ったのに。

「......」

おそるおそる夫の方を振り返ると、吾郎は無言のまま、嫌味っぽく溜息をついていた。ダメだと分かっていても、そんな吾郎の態度は英里の神経をさらに逆撫でする。

「...だって私たち、全然夫婦らしくないじゃない...!」

一度爆発した感情はすでに収まる場所を失い、抑えることができなかった。

「結婚式もハネムーンもない、新居探しもない...。吾郎くんは結婚指輪もしないで、私のことなんてお構いなしに一人で好き勝手楽しんでるわ。

やっぱり、私のことなんてどうでもいいんでしょ?私が居てもいなくても、吾郎くんの生活は何も変わらないんだから!!」

感情に任せてそこまで言ってしまったが、吾郎は変わらず英里を蔑むような表情を浮かべたまま、こちらを振り向きもしない。

「......下らない。俺はもう寝る」

そうして夫は、静かにリビングを出て行ってしまった。

そしてその夜、二人は結婚後初めて、背を向け合ってベッドに入った。


一見は冷徹な吾郎。しかし、その意外な心理は...?


ヒネくれ男代表・吾郎の意外な胸の内


―眠れん......。

吾郎はベッドに身体を預けながら、うまく眠りに落ちることができずに悶々としていた。

―そんな風にヒネくれてるの、吾郎くんだけー
―私たち、全然夫婦らしくないー

先ほどの英里の涙混じりの悲痛な訴えは、吾郎に予想外の多大なダメージを与えていた。

というのも、正直、妻がこれほど不満を溜めこんでいるとは思いもよらなかったからだ。

むしろ英里と結婚してから、吾郎はほのぼのした幸せを日々実感しており、むしろ自分たちは標準以上の順調な生活を送っていると完全に思い込んでいた。

毎晩帰宅するなり、子犬のように目を輝かせた英里の笑顔で迎えられること。毎朝起きると、無防備で可愛らしい寝顔がすぐ目の前にあること。

基本的に自分至上主義であり、一人を愛する吾郎は、以前は女と生活を共にするのを“恐怖”としか思っていなかったが、実際それは心落ち着く平和な場所で、とても居心地の良いものだと認めざるを得なかった。




―これで、吾郎くんと一生一緒にいられるのね...―

半年ほど前、夜中の港区役所で入籍を果たしたとき、目を潤ませながら自分に抱きついた英里を思い出す。

あのとき吾郎は、ソワソワと挙動不審状態に陥りながらも、自分は一人の女を幸せにしたのだと、これまで感じたことのない穏やかな満足感を覚えていた。

そして吾郎自身も、一生英里と添い遂げる覚悟を決めたのだ。

―吾郎くんは、私のことなんてどうでもいいのよー

だからこそ、結婚式云々の話はさておき、妻にそんなことを言われたのは単純にショックであり、激昂した彼女の顔をあれ以上直視するのは耐え難いものがあった。

―どうでもいいわけ、ないだろ......。

背を向けた英里の身体は、手を伸ばせばすぐの距離にある。

ガッと抱いてしまえば、彼女の気持ちは静まり、問題は解決するだろうか。

―...いや。今さら結婚式だなんだの突然キレられて、わざわざ俺が折れる理由はない...。

しかし吾郎はそんな風に思い直し、伸ばしかけた手を止めた。

少し放っておけば、英里の怒りも勝手に収まり、すぐに元の状態に戻るだろう。女の理不尽な感情論に振り回され下手に出るなんて、まっぴら御免である。

それに、これ以上英里に不満をぶつけられるのが恐いという隠れた本音もあった。

そして翌朝の土曜日、吾郎は気まずい状態で妻と顔を合わせるのも躊躇われ、英里が目覚める前の早朝から家を出て、気分転換に一人高尾山の登山へと出かけた。

傷つくとさらに意固地に、攻撃的になる吾郎のプライドの高さは、やはり結婚前と変わりはなかった。


そんな吾郎の行動が、夫婦の溝をさらに深める...!


心弱った新妻の、癒しのひと時


「英里さん、ワインどうぞ!」

空いたグラスに、後輩の新一が弾んだ声でワインを注いでくれる。

「あ...私、そんなにお酒強くないの。だから気を遣わないで」

年上に気遣う新一からボトルをそっと受け取り、英里はそれを彼のグラスに注ぐ。

「あ、そうなんすか!じゃあ無理しないでください!でも、もしヤバくなったら、俺、責任もってちゃんと英里さんの家まで送るんで安心してください!」

頬をほんのりと赤らめた若々しい彼の笑顔に、英里は自然と気持ちがほぐれる。

英里は今夜、珍しく部署の飲み会で『Serafina NEW YORK 丸の内店』に来ていた。あまり乗り気ではなかったが、吾郎とのモヤモヤを紛らわせるためには、ちょうどいいイベントだったのだ。




「それにしても、英里さんと飲めるのってレアですよね!同期に自慢できます!俺たちの代で、英里さんは超可愛いって断トツ人気なんです!!」

英里の勤める商社では、アラサー女子の社内飲み参加率は低い。

飲みの場で“華”となるのはやはり入社1〜3年目くらいの若い女の子であるから、一般職の女たちは、年を重ねるにつれて社内の付き合いから足が遠のきがちなのだ。

よって新一は、久しぶりに参加した英里に気を遣っているのだろう。

「新一くんは口が上手いね...。さすが、デキる後輩。お世辞でもありがとう」

大袈裟なお世辞は恥ずかしいが、しかし、可愛い20代の後輩に褒められるのは悪い気はしなかった。夫とギクシャクしているから、尚更かもしれない。

「いや、嘘じゃないっすよ。結婚するなら英里さんみたいな人がいいって、みんな言ってます!やっぱり、旦那さんには熱心にプロポーズされたんですか?将来のために、教えてくださいよ!」

「......ううん、熱心だなんて、全く......」

若々しく純粋な新一に期待のこもった眼差しを向けられると、英里は胸がチクリと痛んだ。

週末の言い合いから、吾郎とはほとんど口をきいていない。

あの翌日、土曜の朝に目覚め、いつものように吾郎の姿がなかったとき、英里は深い諦めの気持ちに包まれた。

その日吾郎が何をしていたのか知らないが、彼は結局日が落ちるまで家に戻らず、英里は一人寂しい休日を過ごすことになったのだ。

その後はいつものように吾郎に寄り添ったり機嫌を伺う気も失せてしまい、二人は気まずい無言状態のまま週明けを迎えた。

「英里さん...?ど、どうしたんですか...?」

「え...あれ...?」

思った以上にワインが回っていたのだろうか。気づくと英里は、ポロリと涙をこぼしていた。

「すみません!!俺、変なこと言いました?!」

「ご、ごめん!!気にしないで。私、変に酔っちゃったのかな。悪いけど、先に...」

そう言って立ち上がった瞬間、グラっと足元がフラつき、視界が真っ暗になった。

―英里さん!英里さん...!

新一の声が遠くに聞こえたが、そこから英里の記憶はプツリと途絶えた。

そしてこの小さな事件によって、夫婦関係がさらに危機的な状況に陥るのを、このときの英里は知る由もなかった。

▶NEXT:12月2日 土曜日更新予定
誤解により、英里に不信感を抱く吾郎。そして、懐かしの“あの男”が再登場する...?!