東京には、いろいろな妻達がいる。

良き妻であり、賢い母でもある良妻賢母。

夫に愛される術を心得た、愛され妻。

そして、あまり公には語られることのない、悪妻ー。

これは、期せずして「悪妻」を娶ってしまった男の物語である。

女性の美に並々ならぬ執着を持つ男、藤田。自由奔放な妻、絵里子は、藤田の両親の前でも自説を展開し、周囲を驚愕させる。




職場の人々


「藤田さん、ご結婚されたんですよね。おめでとうございます。」

昼下がりの社内で、数人に囲まれた。

藤田は、基本的には社内の人間とは最低限の付き合いしかしないことにしている。

飲み会にはやむなく参加するが、そうした場で酔って醜態を晒したり本音やプライベートを吐露し合う付き合いは最低だ。そうしたことは、いかにも仕事ができない男がすることだ。

よって藤田のプライベートはひた隠しにされてきたが、おおっぴらに結婚指輪をせずとも、結婚したという事実が広まってしまうのが日本の大手企業なのかもしれない。

「ありがとう。いや、遅すぎるんだけどね。」

藤田は極めて外向きの笑顔で答える。その中の1人、小野という女がこちらの空気も読まずズケズケと踏み込んできた。

「奥さま、どんな方なんですか?写真見たいな〜。」

見たい、という声がうるさいので、しぶしぶと両親との食事会の時の写真を見せた。男達は若く美しい妻を素直に羨ましがり、女達は奇妙な間を挟む。

「…凄く若い奥様ですよね。20歳くらいに見える。」

「どんなところを好きになったんですか?」

含んだような言い方をする女だった。君と違って若く美しいところに決まってるじゃないか、という言葉が喉まで出かけたが、寸でのところで押し留めることに成功した。


平和な日々の中で、起きた出来事


世の中は不公平


天気が良いからと、『Union Square Tokyo』のテラス席をとったが、今日は思いの外日差しが強い。

「絵里子ちゃん、日差しは大丈夫?」

絵里子の白い肌をますます輝かせる太陽の光に、藤田は思わず声をかけてしまう。確か、紫外線は肌の老化を進めてしまうとモデルの女たちがしきりに言っていたのを思い出していた。

「やだ、なにそれ気持ち悪い。藤田さん、女みたいなこといわないでよ。」

絵里子は、ツンとすました顔で気だるそうに答え、藤田は黙るしかない。




この間の食事会で絵里子の態度や、妻らしからぬ夜遊びについて、藤田は完璧に納得しているわけではない。

しかし、どんな夫婦も初めから上手くいっているわけではない。完璧な妻も、いない。

であれば、目の前にいるこの美しい、自分の惚れ込んだ妻の自由な性格など許容しようじゃないか、という考えに行き着いた。

そう考えると、絵里子がますます美しく見えてくるからから不思議だ。

もし、今自分の目の前にいるのがあの職場の小野だとして、絵里子のように奔放に振る舞っているとしたら…。

藤田は自分が秒速で区役所に離婚届を取りに走る様を想像し、一人にやけてしまう。

その時ふと、

「あれ、絵里子じゃん。」

という男の声がした。身長は190cmほどはあるだろうか。全体的に日に焼けた男で、驚くほど脚が長く小洒落たな身なりをしている。

どう見てもサラリーマンではないだろう、と藤田は見当をつけた。

だが、それよりも相手の馴れなれしい口調が気にかかる。

男は藤田に儀礼的な挨拶をしただけで、すぐに絵里子の方に向き直る。今やこの美しい女は俺の妻なのだ、というアピールで藤田なりに最大限の虚勢を張ってみるが、悲しいほどに相手にされなかった。

だが絵里子は頬を上気させ、何やら楽しそうにおしゃべりに興じている。藤田はメニューに目を落とし、自分の存在感が消えていくのを感じた。

ちょうどシャンパンがサーブされたので、相手の男も自席に戻っていく。すかさず藤田は相手の男が誰なのか尋ねた。

「うるさいわね。」

ピシャリと制された。が、シャンパンを前にし、機嫌が良くなったのか絵里子は気まぐれに答える。

「梅原さんはね、大阪にも東京にもたくさん会社を持っていて、この辺のタワーマンションに住んでるの。すごい人なのよ。」

そう言って、こんなすごい人と自分は知り合いなのよ、とでも誇示するよう得意気に笑った。

世の中は、まったく公平じゃない。

こうして気まぐれに笑うだけで男を幸せに出来る女がいるのだ。細かい悩みさえも吹き飛ばしてくれる。

そしてその女は、自分の妻なのだ。

世の中に、こんな幸福があるのだろうか、と藤田は満ち足りた気分で目の前のシャンパンを飲み干した。


絵里子の突然の就職


「家庭に収まって欲しい」という願望


「藤田さん、私、これにする。」

冬のブーツが欲しいというので絵里子のお気に入りの靴屋に来たが、ものの5分もしないで目当てのものを決めてしまった。

細く、少女のような足にぴったりとフィットする黒いスエードのストレッチブーツは、絵里子にとても似合っている。このブーツに合うスカートも探しに行こう、ということになった。

藤田は絵里子と結婚生活を続けて、いくつか気がついたことがある。

それは、絵里子は何かを決断するのが異様に早いということだ。

出会って二度目の食事で結婚したいと伝えた時も、こちらが拍子抜けするほどすぐに「いいわ。」と答えた。

買い物の決断力も見事なもので、必要なものをパッパッと選んでアッという間に買い物を済ましてしまう。

不動産を見て回る時も、指輪を購入した時も、いくつかの候補の中からすぐに欲しいものを決めてしまった。
そうした性格は、やり手の若手起業家の男のように見えなくもなかった。




だが、休憩にと入ったカフェで、絵里子はとんでもないことを口走る。

「私、明日から働くから。」

なにを言いだすのだろうか。あまりにも急なことで、藤田は戸惑いを隠せない。

「明日から?働くと言っても、どこで?どのくらい?何をするんだい?」

矢継ぎ早に質問をする藤田を遮るように、絵里子はゆっくりと答える。

「もう、うるさいなぁ。どうでもいいじゃない。ほら、この間あった男の人覚えてる?梅原さん。あの人、細々したことをしてくれる秘書みたいな人を探していたみたいなのよ。」

あの男の元へ勤めるなんて…。藤田が反論しようとすると、絵里子はさらに畳み掛ける。

「それに、週3程度しか働かなくていいし、結婚した私にとっては最高の職場じゃない?」

藤田は必死で応戦した。あんな男の元へ勤めるのは、断固阻止しなければいけない。家にいて欲しいこと、相手の男の素性が心配なことを藤田なりに説明する。

しかし、絵里子は歪んだ表情を見せ、急に冷たい目になり、スマホの画面を見せてきた。

「はいこれ。梅原さんの会社のホームページ。」

藤田が食い入るように画面を見ていると、追い打ちをかけるように絵里子がたたみかける。

「それにね、はっきり言って今藤田さんからもらっている分じゃ、色々と足りないから。」

そう言い放ち、ぷいと横を向いてしまう。

この女は、たった今買ってやったブーツや、この間奮発して買ったピアスや、港区のマンションに住まわせているだけでは足りないと言うのだろうか。

自分なりの贅沢はさせてやるから家にいて欲しい、という儚い夫の願いは聞き入れてもらえそうになかった

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絵里子の交友関係とは