純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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 以前、横山秀夫の『半落ち』が2003年の直木賞選考で物議を醸し、それに作者である横山氏が直木賞の選考主体である日本文学振興会に反論して泥沼になった。このときの論点は、主人公の行動に現実性があるかどうか、ということで、とくに林真理子、北方謙三、阿刀田高の三人が強く否定に回ったそうだ。個人的には、その現実性の問題は、法規云々ではなく、むしろ黒岩重吾の「汗のにおいが感じられない」という一言に尽きているように思う。

 もちろんミステリなんだから、汗のにおいなんか無くていい、という考え方もある。しかし、話がクールな「知恵落とし」ではなく、思いっきりウェットな「泣き落とし」じゃないか。それなら、浅田次郎なみの、人の汗のにおいがする経緯がないと、話として成り立たない。このことは、なんぼ世間で売れても、プロの間での評価としては致命的だ。大衆小説に与えられる賞とはいえ、プロの見識が入らないなら、売り上げベストテンだけで充分。市場が評価しても、しなくても、プロが選ぶ、というところに賞の存在意義があるのだから、多くの読者が許容したことを口実に、この弱点を回避することはできない。

 とはいえ、実際の選考では、北方氏が自分で確認したという、ドナーたりえない、という法規の問題が重視されてしまったようだ。北方氏は、さすがプロだ、と思う。たとえ同じアイディアを思いついても、プロなら、これでいけるかどうか、裏を取る。後から、ごちゃごちゃ学生の屁理屈のようなことを言っても、横山氏が、この点のチェックを怠ったことは明らかだ。もしきちんとチェックした上で、どうしてもこの筋で押し切るしかない、と思うのなら、まさにその法規上の無理から生じる葛藤と超法規的特例措置を模索するエピソードを数ページ入れればよかったはずだ。だいいち、その方が、泣きも強まる。汗のにおいが出てくる。

 この一件と前後して、「本格ミステリ」とはなんであるか、の議論があちこちで行われた。2000年に講談社が年鑑アンソロジー『本格ミステリ』を組むに当たって「本格ミステリ作家クラブ」を作ったことが大きい。

 ここでの論点は、しかし、現実性があるかどうか、ではない。だいいち、「本格ミステリ大賞」のトロフィーが京極夏彦のデザインであるように、「本格ミステリ」は、最初から「本格ミステリ」からかなりズレてしまっている。

 ドキュメンタリーがドキュメントっぽい話であるように、ミステリは、もともとmythっぽい、つまり、神話っぽい話。かなり広範なジャンルで、なにが「本格」なのか、など、決まるわけがない。最後まで謎が解けないオカルト的サスペンス・ホラーも、それこそ「ミステリ」で、こういう怪異譚の方が「本格」だ、と言われてしまうと、返す言葉がない。

 我々が「本格ミステリ」ということで思い描いているジャンルは、じつは、「デテクション(謎解き)」と呼ばれるべきものであって、むしろ広範な「ミステリ」の中でもかなり周縁部のものだ。汗臭すぎる「ハードボイルド」だの、警鐘的なメッセージ性の強い「社会派」は、ここには入らない。本格的な「デテクション」は、あくまでスマートな「知恵落とし」でなければならない。

 いや、それはおまえが勝手にそう思うだけだろ、と言うかもしれない。実際、そういう勝手な定義がちまたに溢れ、作家のだれもが、我こそが本格、と名乗っている。しかし、それは間違いだ。じつは、「デテクション(謎解き)」というジャンルは、ある秘密結社で、そのルールが決められた。1928年のことだ。ドロシー・セイヤーズやアガサ・クリスティも会員だった。

 とにかく英国人は秘密結社が大好きだ。古いところでは、清教徒革命後の混乱期の科学研究仲間の「ロイヤル・ソサエティ」とか、廃墟趣味の「ヘルファイア(地獄の業火)クラブ」なんていうのもある。そういう変わった趣味は、一般庶民には理解されえない、それどころか誤解されて非難の的になるので、仲間内だけで密かに楽しもう、というわけだ。まして、どうやって殺そうか、どうやって犯行を隠そうか、などという話も、物騒で悪趣味もいいところなので、大学教授とか、国教会牧師とか、資産家マダムとかが集まって、文芸サークルとして、ミステリの秘密結社を作った。それが、ロンドンの「デテクション・クラブ」だ。

 なんだ、文系サークルか、そんなの秘密結社でもなんでもない、と言うなかれ。これの入会儀式で、我々の言う本格ミステリの定義が定められたのだ。その入会の宣誓(Oath)は以下のとおり。

「N.M.よ、当デテクション・クラブの会員となることこそが、汝が堅き切望たるや?」
「それこそが我が切望です。」
「汝は、天の啓示や女の直感、マンボ・ジャンボ(迷信や妄信)、ジガリー・ポーカリー(はぐらかしやちょろまかし)、偶然、神の行いを当てにしたり、用いたりすることなく、汝が探偵らに与えることが汝を喜ばせるであろうところの機知を用いて、汝が探偵らに提起せられし犯罪を、汝が探偵らにうまく真に解かしめんことを約するや?」
「約します。」
「汝は、生きのいい手がかりを読者から隠したりせざることを厳粛に誓うや?」
「誓います。」
「汝は、国王の英語を尊重せんや?」
「尊重していきます。」
「N.M.よ、売り上げが伸びんことを汝が望むがごとく、汝が当クラブの会員たる限りにおいて、汝がなしたるこれらすべての約束を忠実に守らんことを誓うや?」
「このすべてを厳粛に誓わせていただきます。さらに私は、たとえ酔っぱらったりしたとしても、会員のだれかが出版する前に私に伝えた筋書も秘密もパクったり、バラしたりすることなく、当クラブへの忠誠を約束し、保証します。」
「この申し出に異議ある会員のあらば、彼(か)にそを告げよ」
「……」
「汝ら、我らがクラブの会員として、N.M.を喝采すや?」
御触役のかけ声とともに、一同、息の続く限りの歓声。
「N.M.よ、汝はデテクション・クラブの会員に正式選ばれたり。しかるに、もし汝、我らが約定を守り損なわば、他の作家は汝の筋書を先取りし、汝の出版社は汝の契約をもって汝を辱め、見ず知らずの者が汝を名誉毀損で訴え、汝がページにはミスプリントがのたくりまわり、汝が売上げはどこまでも減るであろう。アーメン」
一同「アーメン」

 ノックス師もまた、このデテクション・クラブの会員であったために、しばしば「ノックス師の十戒」が「デテクション・クラブ誓約」と取り違えられがちだが、まったくの別物だ。まして、「ヴァン・ダインの二十則」は、デテクション・クラブでは認められていない。どのみち、これらは、おもしろいデテクションのための要諦であって、ルールではない。

 さて、誓約を整理し直すと、じつは次の2点に要約される。
   1 探偵が機知によって犯罪を解くこと
   2 読者に手がかりを隠さないこと

 これは、作者の代理である探偵と読者の知恵比べであり、ゲームとしてフェアでなければならない、ということを意味している。読者が探偵に勝れば、結末を待たずに、犯人を当てることができる。しかし、結末に至るまで、論拠立てて犯人を確定することができなければ、探偵、つまり作者の勝ちだ。デテクションは、内在的には、探偵と犯人の知恵比べの構造を取りながら、じつは、外在的には、作者と読者の知恵比べとなっている。そして、後者の外枠構造においては、作者は、むしろ犯人を代理人としている。

 ここにおいて、うまく真に解くことが求められる。犯人が当てられればいい、というものではない。探偵も、したがって、読者も、以下のものを用いたのでは、機知によってうまく真に解いた、とは言われえない。
   a) 天の啓示
   b) 女の直感
   c) マンボ・ジャンボ(迷信や妄信)
   d) ジガリー・ポーカリー(はぐらかしやちょろまかし)
   e) 偶然
   f) 神の行い

 この部分が、デテクションをミステリの中でも特異な周辺部へ押しやる原因となっている。ミステリのくせに、ミステリらしいオカルト的トリッキーなプロットが禁じられているのだ。

 いまどき、こんなルールに外れているミステリなんか、いくらでもある。それを承知で逆に我々が勝手に思い込んでいるドグマも見直す必要がある。

 たとえば、ミステリだから、殺人事件が必要だ、という「殺人ドグマ」。これは、デテクション・ルールではない。犯罪だったらなんでもかまわない。いや、さらに正確に訳せば、犯罪として提起されたもの(実際は犯罪ではなかったことが後にわかる)、であれば充分だ。これが、ヴァン・ダインの二十則(第七則)が本格的なデテクション・ルールとは関係がない決定的な要因でもある。ノックスの十戒も、殺人ドグマは、取り込んでいない。実際、彼らに先行するドイルの『赤毛連盟』は銀行強盗だし、チェスタートンの『グラス氏の失踪』は殺人事件のようでそうではない。

 もう一つは、「探偵非犯人ドグマ」。これは、ノックスの十戒(第七戒)にもヴァン・ダイン二十則(第四則)にも出てくる。しかし、デテクションの外枠構造において、作者はむしろ犯人と一体であり、「第二の探偵」である読者と対立している。この意味で、内在的な「第一の探偵」が犯人であってはならない、というルールは演繹されない。実際、味方であるはずの警察の上司が犯人の一味、などというストーリーは、フィルム・ノワールにおいて、いくらでもある。探偵自身こそ、記憶喪失で真犯人、というオチも、その手がかりが歴然としており、読者がその探偵本人より先に気づきうるものであれば、むしろミステリらしいミステリ、ということになるだろう。(たとえば『エンゼル・ハート』)

 ほかにも、チャンドラーだの、ハルだのの規則があるが、これらはみな、自分のスタイルとしての主義の問題であって、デテクションの必要条件ではない。

 デテクション・クラブの存在が重要だったのは、デテクションというジャンルが、その出版以前に、プロ仲間による査読を必要としていたからだ。手がかりが必要充分であるか、解法がフェアであるかどうか、このギルド的クラブ内でチェックすることによって、デテクションの品質を維持していた。だからこそ、その後、ファンも一般層にまで爆発的に増えていった。

 さて、話は最初に戻って、『半落ち』だが、あれが本格ミステリたりえないのは、その作者の横山秀夫などより法規に詳しく、1999年6月の無期懲役囚のドナー登録のための拘留一時停止の申し立てに対する却下の法務省判断(後に被告人としての申し立ても広島高裁で却下)を知っている者が、かえって謎が解けないという事態に陥るからだ。だいいち、これは微妙な一件だったので、当時、相応に話題になった事件だ。まして、同じドナーを題材にしていて、この判例に事前調査で行き当たらなかった、などということは、プロとしては通常は極めて考えにくい。

 作者より無知でないと解けないデテクションなど、デテクションではない。現実性がない、ということは、こういうことだ。反論云々の話ではない。この意味で、あの本は、出版する以前に、編集部の素人の「第一読者」などに頼るのではなく、北方謙三のようなプロの作家仲間の査読を受けるべきだった。それによって、修正し、完成する可能性もあったはずだ。

 どこぞの「本格ミステリクラブ」がどんなものか知らないが、デテクション・クラブのような、純粋に知恵比べとして、プロ仲間で出版前に査読することが、本格デテクションには必要だ。こんなことは、テレビのクイズ番組でさえも当然にやっている。しかし、当時からして、ネタの先取り、横取りは横行していたようで、だからこそ、こういう秘密結社ごっこが必要だったのだろうが。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学vol.1 などがある。)