美しすぎるがゆえの悲劇(写真:cozy / PIXTA)

マルクスは、『ルイ・ナポレオンのブリュメールの18日』の中で、こう語っている。「海神(わだつみ)テティスはアキレウスに、お前は若さの絶頂期に死ぬだろうと、予言した。憲法もアキレウスと同じ急所をもっていたので、アキレウスと同じように早死にするだろう、との予感をもっていた」(拙訳、1852年)。

この憲法とは、1848年のフランス第2共和政憲法のこと。美人薄命の例えどおり、美しいものの命ははかない。それは、美しすぎるがゆえの悲劇を自らのうちにもつからである。

わがアキレス腱である憲法9条

昨今のわが国の状況を見ると、これは日本国憲法の話だと思っていいのかもしれない。改憲の論議は、わがアキレス腱である9条に注がれているからである。まれに見る見事な憲法である日本国憲法は、1848年当時としては理想的憲法であった第2共和政憲法と酷似している。

第2共和政憲法のアキレス腱とは何か。それは、大統領の再選を認めなかったことである。フランス革命以来、フランスでは、ロベスピエール、ナポレオン・ボナパルトといった独裁者がつねに生み出されてきた。だからこそ、第2共和政の憲法は、そうした独裁者を生み出さないことに苦慮した。その結果、大統領の再選を阻止し、大統領の親族による継承も阻止するという条文が憲法に織り込まれることになったのだ。

しかし、賢い大統領ならば、この憲法の盲点に気づくはずである。いわばコロンブスの卵である。憲法で再選を禁止しているのであれば、憲法を破棄すればいいということになるのだ。

賢い大統領の言い分はこうだ。「自分には民衆という味方がいる。民衆はヨーロッパの革命家による革命の騒乱にあきあきしている。そのためには強力な政府が必要である。だから民主的な憲法を破棄しても、それを国民は認めるだろう」。そのように考えたルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)はクーデターを起こした。まさにルイ・ナポレオンの見立ては的中した。一部の反抗はあったが国民の趨勢はクーデター支持であった。

美しき憲法は、かくしてその美しさのゆえに無残にも破棄されたのである。

政権維持のために外敵をつくることに奔走

そして第2共和政は薄命に終わり、長い第2帝政の時代が始まる。皇帝となったルイ・ナポレオンは、政権維持のためにつねに外敵をつくることに奔走した。国民の目を国内に向けさせないためにも、外敵の脅威というものが政権維持に欠かせないものであったからである。クリミア戦争、メキシコ戦争、イタリア独立戦争と続き、最後には普仏戦争によって、その牙城はもろくも崩れ、体制は崩壊する。


第2帝政をひらいたルイ・ナポレオン(写真:Universal Images Group/アフロ)

フランスのロベスピエール、ナポレオン・ボナパルト、ルイ・ナポレオンの出現は、独裁者はどこから出現するかという問題のヒントを与えてくれるかもしれない。これらの独裁者は、いずれも民主的世界から出現し、その出現が国の外の脅威から生まれている点に共通性をもつ。

ドイツの政治学者、カール・シュミットは『独裁』の中でこう述べている。「独裁とは、ローマ共和国の賢明なる発明であり、独裁官とは王たちの放逐の後に設けられた臨時のローマの政務官であって、危急時に強力な最高権力をもち、その権限は[通常の]執政官の職権のように、合議により、あるいは護民官の異議申し立て権および民会への提議権によって制限されることがない」(田中浩、原田武雄訳、未来社、16頁)。

これに従うと、独裁とは、ある意味民主国家が緊急時にそなえて置く制度ということになる。言い換えれば、独裁は民主主義が危機に陥ったとき、その民主体制の中から、民主主義それ自体を食い破り出てくる民主主義に必然的なものだということにもなる。国家存亡のおりだとか、戦争状態だとか、そうした危機に乗じて、民主体制はいつでも、自らの価値体系である民主主義を停止させることができるということである。

だからこそ、為政者がつねに権力の座にあるためには(あるいは為政者が自らに都合のいい体制をつくるには)、つねにどこかに危機がせまっていることを、国民に告げる必要がある。

ジョージ・オーウェルの『1984年』という小説は、まさに独裁体制を描いた名高い小説だが、そこで出てくるスローガンにある文字を見ると、危機がつねにあおられていて、それが日常生活化していることがわかる。その言葉とは、「戦争は平和である、自由は屈従である、無知は力である」(新庄哲夫訳、ハヤカワ文庫、24頁)。 

国を閉じ、海外からのニュースを遮断し、国民を無知の状態に置き、戦争状態こそ日常の平和であることを教え、国家権力に従属することこそ自由であることを国民に馴致(じゅんち)させることである。敵が誰であろうとかまわない。敵がいることが重要なのである。

「2分間憎悪」によって起こること

オーウェルの世界に、「2分間憎悪」という興味深い儀式が出てくる。これは国民に課せられた毎日の業務の1つである。憎き外敵に対して1日2分間罵倒しつづける時間のことである。

国家が決めた敵に対して、2分間ひたすら憎悪の言葉を投げつけることで、いつのまにかその敵が現実にいるように見え、その敵に対して戦っている国家がすばらしいものに見えてくるという儀式である。国民の不満を国家に対する不満へと昇華させないで、外敵に向けさせることで、ガス抜きを図るというものである。

これらはもちろん架空の世界の物語だが、いまのわが国の状況を少し客観的に見れば、この架空の世界に似てなくもないことに、いまさらに驚く。

北朝鮮という外敵(ちょっと前は中国であったが、時には韓国の場合もある)に対して、憎悪を募らせ、危機があおられる。本当にどれくらいの危機であるかを知るには、東西の国際情報を手繰り寄せて、それによってしっかりと判断すべきなのだが、そうした面倒くさい手続きは忘れられ、ひたすら脅威のみが喧伝され、それに国民は躍らせれる。そうなると、いつの間にか民主憲法といって誇りをもってきた憲法も、戦後の制度も、極めて脆弱なものに見え、国民は、何か強い独裁的な人物像の出現を待ち望みたい気持ちになってくるから、大変だ。

ふと考えると戦前の日本も、こうした状態に振り回されたのではなかったか。いま立ち止まってゆっくりと考えてみるべき時かもしれない。せっかく勝ち得た民主主義を手放さないためにもだ。