明日とかどうでもいいーー太賀主演『ポンチョに夜明けの風はらませて』が描く“珍道中”の愉快さ

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「丘を越え 行こうよ 口笛吹きつつ……」佐津川愛美演じる愛が唐突に口ずさみ始めるイギリス民謡『ピクニック』。太賀が演じる主人公・又八がハンドルを握った、走る車中での一幕である。何度きいても、そしてもちろん実際に口ずさんでみることで、歌詞にある通りの「今日は愉快だ」という気分にならずにはいられない一曲だ。これに又八を筆頭に、ジン(中村蒼)、ジャンボ(矢本悠馬)らがハモりだし、アレンジまで加え出すのだから、よけいに愉快。この一幕だけで彼らがおおいに示すとおり、『ポンチョに夜明けの風はらませて』は最高にアレンジの効いた、ロードムービーとである。

(参考:『山岸ですがなにか』主役・太賀「俺という俳優をイジり倒された作品」 自身のゆとりエピソードも

 ほか多くのロードムービーにおける移動手段が「車」であるように、本作における主人公たちの移動手段もやはり「車」。それも「車」だということが、さもまっとうであると言わんばかりにファースト・カットから画面には車が進入してくる。急停止と急発進をこきざみに繰り返しながら、旅の出だしとしては先行きが不安であるが、本作をロードムービーだと宣言したいま、映画の出だしとしてはなんとも愉快である。この危なっかしい車、それもそのはず、ハンドルを握る又八は所有者ではないし、まだ高校3年生だ。卒業を目前に控えていることを考えれば、免許取りたてなのだろう。卒業後の将来への漠然とした不安を抱えつつ、又八とジャンボは名門大学の合格発表へとジンをむかえに行く。2人にとってジンは希望の光であるらしい。大騒ぎしてジンを車内へ迎え入れ、「海でも行こう」とさっそく車を走らせるが、ジンの発する「落ちた」のひと言と同時に、「ドン」と車は大きな音をたてる。忘れてはならないもう1人の主人公が、彼らから置いてけぼりをくらった中田(染谷将太)だ。3人の珍道中に、時おり彼の素朴な姿が挿入される。又八の口にした「最後に一花咲かせよう」という言葉を真に受け、卒業式でゲリラライブを決行すべく、ひとりギターを鳴らしてみせるのだ。

 ところで例の車であるが、所有者はジャンボの父である。佐藤二朗演じるこの父親は染谷に卒業ライブをやめることをすすめ、続けて自身のスマホ画面に表示された愛車(高級セダン・セルシオ)を見せ「マジメにこつこつとやっていれば、いつかは買えるんだよ」などと諭し始める。7年越しの悲願の愛車らしい。しかしそれが息子とその友人らの手によって、さっそくキズモノとなっている。この父親はワンシーンしか登場していないにもかかわらず、映画の最後まで、たしかに存在している。どのシーンでもつねにその気配があるのだ。佐藤がそういったことができる希有な俳優であることはもちろんだが、実際には、若者たちが「車」に乗り続け、中田がライブをやるのかどうか葛藤し続ける限り、彼の姿は観客の脳裏にチラつくことになるのだ。

 さて、なぜ彼らは、旅に出たのだろうか。なぜ、ロードムービーたる〈ロード=路上〉へと繰り出すことになったのだろうか。何かから逃げるわけでもなく、何かを求めるわけでもなく、お気楽な思いつきで「海でも行こう」となっただけである。彼らの即興的な自由さは、旅人たちの“生”が即興的に綴られた、ケルアックの『路上』とも通じ合う。グラビアアイドルの愛や、風俗嬢のマリア(阿部純子)らとの、ひょんな出会いによって、軽く目指していた海までの“道中”にいくつもの“珍”エピソードが発生し、“珍道中”となっていく。ひとつひとつのエピソードはまさに奇想天外なものであるが、俳優たちの血の通ったキャラクター造型によって、エピソードもまた血の通ったものとなっている。本作の主題歌であり、染谷も口にする「明日とかどうでもいい」という言葉が示す通り、彼らの“生”は今この瞬間のエピソードごとにきらめいて燃え尽き、画面のすみずみまで漲っている。オフビートにそれることなく、停滞することなく、ラストまでまっすぐに突き進むのだ。

 愛が火種となり、彼らの移動の手段である「車」は、あるイミ原形をとどめぬものへとなっていく。最後まで姿を見せずもつきまとう、父親の象徴であり、〈マジメにこつこつ〉の象徴である「車」だ。彼らにとっては〈ロード=路上〉での“手段”であったが、父にとっては〈ロード=人生〉の“目的”でもあった。

 やがて彼らはこの車を捨てるだろう。大人の言葉を無視して中田が「明日とかどうでもいい」と叫ぶとき、彼らもまたお決まりの移動手段である「車」を捨てるのだ。そしていよいよ本当の〈ロード=路上=人生〉へと、自分たちの足で、愉快にかけていく。

(折田侑駿)