先日11月4日、レバノンのハリリ首相は訪問中のサウジアラビアで突然の辞任を発表。ハリリ首相は、辞任の理由をイランが支援するイスラム教シーア派組織「ヒズボラ」による暗殺計画にあるとし、イランを非難する声明を出しています。一国の首相が訪問中の国で辞任を表明するという異例の事態について、サウジとイランの対立激化を懸念する声が高まっていますが、元朝日新聞記者で中東ジャーナリストの川上泰徳さんによると、こうした報道は「レバノンの現実を知らない人間が図式的に考えているだけ」と断言。今回の首相辞任の「真相」とその背景、各国の思惑について詳しく解説しています。

サウジ・イランの対立とレバノン危機の背景

内戦が続くシリアの隣国レバノンのハリリ首相が11月4日、訪問中のサウジアラビアから突然の辞任を発表した。背景にイスラム教スンニ派王国のサウジと、シーア派体制のイランとの対立があるとの見方が広がり、中東情勢に緊張をもたらしている。

ハリリ首相はサウジのテレビ局を通して演説し、レバノンで自らを狙う暗殺計画があることを辞任の理由として挙げた。さらに「イランが地域に悪を広めている」と語り、レバノンのシーア派組織ヒズボラについても「レバノンだけでなく、アラブ世界でイランのために動いている」と非難した。

レバノンのサード・ハリリ首相

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レバノンではキリスト教徒、イスラム教スンニ派、同シーア派が政治の主導権を争う。スンニ派勢力を率いるハリリ氏はサウジの後ろ盾を得て、シーア派のヒズボラはイランの支援を受けている。

レバノンではヒズボラとハリリ氏の対立で、2年以上、キリスト教の大統領が決まらない政治的空白が続いていたが、昨年10月末、ヒズボラが支持するアウン氏が大統領に就任し、ハリリ氏が首相となって内閣が発足した。ハリリ氏はアウン氏の大統領就任を支持し、ヒズボラと協調して挙国一致内閣を実現させた。

それから1年も経たずに、ハリリ氏の突然の首相辞任表明である。一国の首相が、訪問した国から辞任を表明するというのも前代未聞。欧米メディアでは、ハリリ辞任はサウジの意向だという見方が出た。背景については、サウジがハリリ氏にヒズボラとの対決を求めたが、ハリリ氏が受け入れなかったために辞任を求められたという見方もあれば、サウジからヒズボラとの対決を求められたためにハリリ氏自ら辞任を選んだという見方もある。

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イランが支援するシーア派のヒズボラと、サウジが支援するスンニ派ハリリ首相の勢力の対立は、レバノンを舞台にイランとサウジの代理戦争になるなどという見方が出ている。しかし、それはレバノンの現実を知らない人間が図式的に考えているだけであろう。

ハリリ首相辞任の黒幕は誰か?

私は2008年にヒズボラとハリリ氏の勢力が武力衝突した時にたまたまレバノンの首都ベイルートにいた。ハリリ氏が後ろ盾となっていた政府がヒズボラを抑えようとしたことにヒズボラが反発して、2、3日のうちに市街戦になった。結末はあっけなかった。翌日にはハリリ氏が所有するテレビ局は焼き討ちされ、ハリリ氏の自宅も包囲され、完敗を喫した。

それまで度々、イスラエルによる軍事侵攻に対抗してきたヒズボラの強さを見せつける形となった。さらにシリア内戦が始まって、ヒズボラは内戦に介入し、イランの指揮下でアサド政権支援のために地上部隊を送っている。シリアで実戦経験を積んだヒズボラはさらに強力になっているはずだ。

ハリリ氏にとってヒズボラと戦うことは政治的にも軍事的にも自殺行為である。氏の政治生命が終わるだけでなく、レバノンはヒズボラ支配になりかねない。ハリリ氏としては、ヒズボラと協調しつつレバノンの安定を図るしかない。

ハリリ氏の突然の辞任表明に対して、ヒズボラ指導者のナスララ師は「サウジはレバノンとヒズボラに宣戦布告している」「イスラエルにヒズボラへの攻撃を要請している」と反発した。ナスララ師がイスラエルを持ち出すのは、サウジで実権を握るムハンマド皇太子がイスラエルと関係改善を進めているという情報がアラブ世界で広がっていることを前提としている。

ハリリ氏が首相辞任を発表した4日は、サウジでは、ムハンマド皇太子が主導する腐敗追放委員会が11人の王族を含む約50人を逮捕した日である。サウジでは、すべてがムハンマド皇太子の意向で動いているとされ、ハリリ氏の辞任発言にも皇太子の意思が動いていると考えるしかない。

ムハンマド皇太子

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ムハンマド皇太子は父親であるサルマン国王が2015年1月に即位し、国防相兼王宮府長官に抜擢された。同4月には副皇太子に任命された。さらに今年6月にムハンマド・ナイフ皇太子が解任され、代わって皇太子に任命された。32歳の若さである。

今回、王族や現職閣僚・旧閣僚、ビジネスマンらを含む有力者を「腐敗追放」の名目で一斉拘束に出たことは、来年初めともいわれる国王就任を前に、反対派を排除して、権力を固める意図があると見られる。今回、逮捕された中には、アブドラ前国王の息子で、一時は有力な国王候補とされたミテブ前国家警備隊相も含まれている。

ムハンマド皇太子にとっては勝負をかけた有力王族排除が始まる日に、ハリリ氏に首相辞任発言をさせて、レバノン危機を演出したことになる。しかし、サウジが動いても、ハリリ氏が率いるスンニ派勢力とヒズボラが戦う可能性は低いと考えれば、サウジがハリリ首相をリヤドに呼んで、首相辞任を発表させたのは、ムハンマド皇太子が有力王族を排除する動きから世界の目をそらそうとする狙いと考えるしかない。

ムハンマド皇太子が、レバノンのハリリ首相を使ってリヤドから反イラン・反ヒズボラのメッセージを発信することに意味があるとすれば、反イランを強く掲げるトランプ大統領の支持とりつけのための措置ということになる。ハリリ氏に言わせることで、自らがイランへの対抗措置をとるというリスクを冒す必要もなくなる。

首相辞任は反イラン強調の演出か?

サウジとイランの対立は、サウジが2年前からイエメンの内戦に介入したことで激化した。イエメンでは「アラブの春」でサレハ元大統領が辞任し、その後をハディ暫定大統領が受け継いだ。サレハ元大統領はシーア派武装組織のフーシ派と手を結んで巻き返し、サヌアを支配するまでになった。サウジはハディ暫定大統領を支援し、フーシ派への空爆を続け、フーシ派を支援するイランを非難している。

サウジは2016年1月にイランと国交を断絶した。サウジはこの時、国内少数派のシーア派指導者を処刑し、イランで反サウジデモが起こって、在テヘランのサウジ大使館が焼き討ちされた。サウジはこれに抗議して断交を決めた。

サウジのイエメン内戦への介入は、2015年に国防相になったムハンマド皇太子の決断だった。しかし、介入してもイエメン情勢は思うようにならず、泥沼状態になっている。アラブ世界の主要国といわれるサウジが、国境を接するイエメンを軍事的にコントロールできないことは、サウジの軍事力の弱さを示している。

一方のイランはイラク戦争でサダム・フセイン政権が倒れた後は、シーア派政権の後ろ盾となった。さらにシリア内戦では、自分の影響下にあるヒズボラの地上部隊をシリアに介入させ、イラクのシーア派民兵も動員して、アサド政権を支えている。

サウジとイランの対立と言ってもあくまで政治、外交的なもので、イランと直接対峙する軍事的な対立にはなりえない。湾岸諸国もイランの脅威は感じていても、軍事的な対立を求める国はない。

「イラン敵視」を掲げたトランプ大統領が就任した後、サウジの主要紙シャルクルアウサト紙に2月中旬、政治コラムニストのアブドル・ラシード氏は「アラブ諸国が反イランでトランプ政権と協力していると批判する者たちはイランとの戦争を恐れているが、そのような紛争は選択肢でもないと保証しよう。もし、トランプ大統領がイランに対して大規模な軍事行動をとることを決めても、我々はその後をついて行くことを拒否するだろう」と書いた。

このコラムは、サウジ政府や湾岸諸国がトランプ政権と友好関係を維持しようとすることを擁護する内容だが、イランとの戦争は望まないアラブ世界の本音が表れている。

サウジのムハンマド皇太子は国内で権力固めをするためにもトランプ大統領の歓心を買うため、対イラン強硬策を打ち出す必要がある。しかし、湾岸地域でイランに対して緊張を激化させる力はないし、周辺の諸国も望んでいない。そこで使われたのが、レバノンのハリリ首相ということになるだろう。

それに対して、4日夜、イエメンからリヤドに弾道ミサイルが発射され、サウジ軍が迎撃する事態となった。フーシ派による攻撃と見られる。ムハンマド皇太子はミサイルがイランから密輸されてフーシ派に渡ったと非難した。これも4日に起こったことは偶然とも思えないが、ハリリ首相に反イランを言わせても、自分には火の粉は降りかからないだろうと高をくくっていたサウジの思惑を砕くためのミサイル発射とみるのは、うがちすぎだろうか。

イスラエルも反イランに同調か?

気になるのは、ムハンマド皇太子のサウド家の中の権力固めがすんなりと進むかどうかであり、ハリリ氏が辞任してもレバノンではまた政治が空転するだけとしか思えない。ただし、懸念がないわけではない。

16日、サウジのアラビア語のインターネット・ニュースサイト「イラフ」がイスラエルのエイゼンコット参謀総長にインタビューした。サウジのメディアがイスラエルの参謀総長と記者会見したのは初めてだ。記事の見出しは「イスラエルの参謀総長:レバノンでヒズボラと対抗する意図はない」というものだが、記事の中で「イスラエルの参謀総長は『サウジとイスラエルはイランに対抗することにおいて共通の利益がある』と語った」と書く。

一問一答の中では「ワシントンで参謀総長たちの会合があった時に、サウジの代表団の話も聞き、彼らが語ったイランに対抗しなければならないと語ったのは同感だった」というエイゼンコット参謀総長が語っている。

サウジ系メディアがイスラエルとサウジの関係構築を肯定的に書くことは異例のこと。「アラブの春」以来、言論統制が強まっているサウジで、サウジ系メディアとイスラエルの参謀総長の会見は、ムハンマド皇太子の意に反するものではないはずだ。

イスラエルが、シリアで影響力を強めるイランやヒズボラを自国への脅威ととらえているのは明らかである。このような米国-イスラエル―サウジの「反イラン同盟」が、今後、どのような動きにつながるかは予断を許さない。

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