港区在住。遊びつくした男が、40歳で結婚を決意。

妻には、15歳年下で世間知らずな箱入り娘を選んだ。

なにも知らない彼女を「一流の女性」に育てたい。そんな願望もあった。

誰もが羨むリッチで幸せな結婚生活を送り、夫婦関係もうまくいっていたはず…だったのに。

4年後、妻が何の前触れもなく離婚を切り出す。しかも、思いもよらぬ「離婚条件」を提示して。

夫・昌宏(まさひろ)に突然離婚を切り出した妻・利奈(りな)。別居していた夫に職場で待ち伏せされ、強引にマンションでの話し合いが始まったが、夫が突然激昂したのだった。




夫が近づいてきた、と思った次の瞬間、強く手を引かれ体が回る感覚に目を閉じた。

一瞬何が起こったのか分からなかった。

背中に感じるクッションの感覚。そして、息がかかる程近くに彼の顔を見上げている。ソファーに引き倒されたのだ。こんなことをされたのは初めてで、恐怖を覚えてもよさそうなのに。

「笑うな。」

私に馬乗りになり、射るように睨みながら発せられた夫の言葉に、自分が笑っていたことに気が付く。不思議と怖くない。それどころか私が今抱いている感情は「喜び」だ。

―あなたを笑ってるんじゃない。嬉しくて微笑んでいるの。

今まで夫が私の事にむきになったことなどなかった。彼にとって私はそれほどの存在じゃなかったからだ。

「男がいるのか」とか、「僕との結婚で得たものがわかっているのか」とか、私にとって腹が立つ言葉ばかりだったとしても、今彼は「冷静な仮面」を外し、我を失い私に向かってきている。

そう思うと、胸の奥がギュッとなり、思わず彼に手をのばしかけた自分に驚く。

―私、今、この人のことを抱きしめようとした?

自分に湧き上がった感情に戸惑い、行き場を失った手のひらをきつく握りしめると、その拳で彼の胸を押し返しながら言った。

「離れてくれませんか。」

精一杯冷静を装ったつもりだが、震えずに言えただろうか?

今なら、私たちはきっと本音で話し合える。私も全ての思いをさらけ出そう。たとえそのせいで、これが私たちの最後の話し合いになったとしても。

私は期待して彼の反応を待った。

彼は、私の言葉など聞こえていないかのように、馬乗りのまま私の顔をしばらく見つめていたが、しばらくすると溜息とともに目を閉じた。そして。

「利奈…今日で終わらせよう。君に振り回されるのは、これ以上耐えられそうにない。」

そこまで言い切ると私から離れ、続けた。

「君が僕から羽ばたいていくということも止めない。君が望むのならもう理由も聞かないよ。」

さっきまで感じていた喜びが、急激に冷めていく。そして、彼が深いため息と共に発した言葉は…。

「君が僕を捨てることを、許そうと思う。…離婚を許すよ。」

―ああ。この人はこんな時までも、最後まで主導権を握ろうとするのか。

目の奥が真っ赤に染まる。気が付けば今度は私が彼につかみかかっていた。


妻が激昂する理由が分からない夫の困惑、妻の切ない訴え


夫「泣きたいのは、こっちだよ…」


僕なりに、妻に向き合おうと思っていた。けれど妻に笑われた瞬間、頭に血が上り、気が付けば押し倒していた。

こんな自分は自分らしくない。

我を失った自分が恥ずかしくて耐えられなくなった。こんなに振り回され、醜態をさらすばかりなら、夫婦生活が続けられるとは思えない。そう決意して発した言葉に、妻が激昂するとは思わなかった。

妻の望む通りの結果になったはずなのに、今度は僕が押し倒され、妻は僕の胸を激しくたたきながら泣きじゃくっている。

「利奈、落ち着け。落ち着けって。」

さっきまで自分が興奮していたというのに、泣きじゃくる妻を目の前にすると、どんどん冷静になる。

「利奈、君が望む通りに離婚できるんだよ。今度は何が気に入らないんだ。」

僕に乗りかかり暴れ続ける妻を抱き起し、子どもをあやすように背中を撫でようとした瞬間、妻が僕の腕から逃げた。




子猫のようにおびえた動作に、不覚にも胸がキュッとなる。その感覚に自分が今なお、妻を愛おしいと思っていることを実感する。

―泣きたいのはこっちだよ。利奈。

声に出さずに彼女を見つめる僕に、彼女は言った。

「また逃げるんですね。藍子さんの時みたいに。」

「藍子?藍子の名前が何で今出てくるんだ。」

「たぶん今日が最後になると思うから、これから私が聞くことに本気で答えてくれますか?」

妻が、流れ落ちる涙を必死にこらえながら話しているのが分かり、僕は動揺を押し殺し黙って頷いた。

「あなたは、何で私と結婚したんですか?」

そんなの決まってる。

「守ってあげたいと思ったから。」

僕は即答した。

「なぜ、守りたかったんですか?」

質問の意図が分からず黙っている僕に、妻が続けた。

「あなたの妻は、私である必要がありましたか?」

返事が返せない。

「あなたが私を大事にしてくれていたことは知っています。でも私たちの結婚ってなんだったんでしょう?私が一方的にあなたに保護してもらうこと?」

―豊かな生活がしたかったわけじゃない。

ポツリとつぶやいた後、彼女は続けた。

「結婚した当初の私が幼すぎたことは分かっています。私が藍子さんと違って自立した女じゃないから、あなたが私を一人の女性として認めてくれないのかなって、ずっと思ってました。」

僕は、そんなことは無いはずだ、と声に出した後にハッとした。

「もしかして、だから働きはじめたのか?」

泣き顔のままフフっと笑った彼女は、僕の問いには答えずに思いがけない言葉を続けた。


夫婦の最後の夜、最後の答え合わせの行方は?




「そのことも含めて、私たちがいつから、どんなことでズレ始めたのか…最後にきちんと、答え合わせをして別れませんか?あなたと私の未来のためにも。」

結局妻が離婚を言い出した原因も分かっていないままだし、それはできれば僕だって知りたい。でも別れるための答え合わせなんて、意味のないことではないのか?

そう思いながらも、なぜか反論することができなかった。

「最後くらい、プライドとか、そんなものに逃げないで答えてくださいね。私も逃げませんから。」

逃げたりしないよ。そう言ったはずなのに、随分弱々しい声になってしまった。きっと戸惑った顔をしていたのだろう。

「その前にお茶淹れてきます。落ち着けそうなものを。私が淹れる最後のお茶。」

僕の好きな彼女の切れ長の目は真っ赤に染まっているのに、必死な笑顔を作り、利奈はキッチンに向かった。

―最後、最後、と、酷く耳障りだ。

さっき離婚すると言ったのは僕なのに。どこかで「別れたくない」と思っていることに気が付き、行き場のない思いを持て余す。

彼女がお茶を淹れる後ろ姿を眺めながら、戻ってくるのを酷く緊張して待っている自分が情けなくなった。


妻「もう、未来のことしか考えない」


夫はひどく不器用な人なのかもしれない。

中国茶の中から「白雪香(はくせつこう)」と呼ばれるジャスミンティーを選び、お湯の中で茶葉が開くのを待つ間、そんなことを思った。

中国福建省の茶農家から届いた有機茶葉。夫が好んで取り寄せているものだった。

優しく甘い花の香りがふわっと広がりはじめる。

お茶を淹れる、と席を立ったのは、自分を落ち着かせるためでもあった。今日夫は離婚の原因に気づこうとすることも、私を知ることもあっさりと諦めた。

結局、夫にとって私はその程度のものだったのだろう。

―もう、未来のことしか考えない。夫のいない未来を。

茶器にお茶を注ぎながら、私は自分自身に言い聞かせる。これから罵り合いになるかもしれない2人には不似合いな、穏やかな香り。

夫がいるリビングに向かう。下を向かず、顔をあげて堂々と歩いていく。

夫が何かを言いたそうな顔でこちらを見つめていた。

気にせずテーブルに茶器の乗ったお盆を置くと、そのタイミングを待っていたかのように…。

「…子どものこと、なのか?」

ガシャン。

予想もしなかった夫の言葉に手元が狂い、夫の前に置くはずだった茶器が倒れる。テーブルに湯気を立て広がってゆく液体が、さっきよりずっと甘く濃い香りを発してむせそうになる。

3面がガラスに囲まれたリビングに夕日が差し込み始め、オレンジに染まった部屋。夫の顔には影がかかる。

そして彼は言った。

「子どものこと…あの時のことなら…僕の言い分も聞いてくれないか。」

低く懇願するような夫の声に、私は下唇をかみしめる。

こうして、私たちの最後の夜が始まった。

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妻も知らなかった夫の思い。妻への愛に気が付いた夫が追いすがる。