純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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 キルケゴールの本だ。だが、絶望すると自殺しちゃうから、希望を持って生きよう、なっていう、そんな安っぽい話じゃない。

 まず重要なのは、絶望は、客観的な事実だ、ということ。いくら本人の心の中が希望に溢れていても、それはただの妄想や幻覚。事実において、その希望がかなう可能性が絶たれていたら、絶望的。

 モノはあるようにある。だが、人間は、そのままあるだけでは、なんにもならない。ただ無意味に老いさらばえていくだけ。そうではなく、みずから自分を作っていかないといけない。今の有限の現実を、未来の無限の可能性の一つに結びつけていってこそ、人は生きているということができる。

 ところが、我々は、自分を自分で見ることができない。それで、世界に自分を見失う。たとえば、○○は××すべきだ、とか言っているワイドショーの評論家連中。すべきだと言っているのは、きみでしょ。きみが思ってるだけでしょ。すべきかどうか、なんて、きみに決める権限があるの? きみは裁判官や神さまじゃないでしょ。

とくに情報過多のいまの時代はヤバい。ワイドショーの受け売りと自分自分の考えの区別がつかない。大元の「経験」や「事実」からして、ニュースで見た、ドラマでやっていた、評論家が言っていた、と、だれのものだかわからない。天然茶髪を黒く染めさせるなんてひどい、ビール瓶で殴るなんて許せない、とか、正義ぶって怒るが、黒く染めさせたかどうか、ビール瓶で殴ったかどうか、そこがまずまだ不確定なのに、なんで拙速に結論を出してしまうわけ? 経験や事実の大元が怪しい判断なんて、典型的に絶望的。幻覚と妄想が空回りしている。

 とにかく刺激が多すぎて、我々はその時々に脊髄反射しているだけで、自分で情報を取りまとめ確かめる余裕が無い。つまり、自分が無い。それで、毎日がどろどろに世界に溶解してしまう。たとえば、CM。番組はきみが選んだにしても、CMはかってに流れ込んで来て、きみを洗脳する。雑誌やネットも同じ。ざっと眺めるならともかく、次から次に繰り出される刺激的な映像や文言に目移りしてしまい、自分がなにをしたかったのか、どんどんわからなくなっていく。

 キルケゴールが警鐘を鳴らしたのは、まさにこういう情報洪水の中の支離滅裂な自暴自棄。あれこれの刺激が断片的に取り込まれ、カントの言う統覚での位置づけを失って、まさに統合失調症のように、妄想や幻覚の中をさまよい、いよいよ記憶も現実も曖昧になって、自分自身を破壊していく。よし勉強するぞと言った五分後にはスマホをいじっている。さあ結婚しようと言った翌年には不倫だ離婚だと騒ぐ。あれこれ言いわけするが、理由はどうあれ、自分で自分自身の人生と生活をミジン切りの細切れに壊していっているだけ。

 客観的に見るなら、そこには選択統合し、事態を自分で工夫して切り抜けようとする首尾一貫した自分が無い。有限性の絶望状態は、あれこれ偉そうに言うだけで、自分ではなにもしない。逆に、無限性の絶望状態は、あれもこれも、なんにでも手を出して、なにがしたいのかさっぱりわからない。可能性への絶望状態は、できるとなると、とりあえずやってしまう。特売となるとなんでも買い、覗けるとなるとなんでも覗く。逆に、必然性の絶望状態は、なんの対策も採らず、なるに任せて、仕方ない、と放り出しっぱなし。本来であれば、自分に必要かどうかを考え、いらないものはいらない、やらなくていいことはやらない、やらないといけないことは、容易にできないとしてもなんとかできる方法を探るのが人間のはず。でも、こんな調子で自分が無いのでは、いつまでも同じところを堂々巡り。

 本人はどう思っているのだろう。主観的には、ひとつは、この現実が希望の実現につながっていない、ということに自覚が無い絶望的無知。もしくは、希望の実現につながっていないことを知りながら、どうにもできないと諦めてしまう絶望的弱気。さらには、つながっていないにしても、だれの世話にもならず、自分一人でなんとかできると思い込む絶望的強情。

 キルケゴールは、ほぼマルクスと同時代だが、みんなで団結して、などという共同体主義をまったく信じていなかった。キルケゴールが障害者で、さんざんに世間にイジメられてきたこともあるだろうが、彼に言わせれば、健常者だろうとなんだろうと、人間は、すべて一人一人、生まれも、育ちも、現実も、希望も違う。そんな違うものに、普遍的な万能の処方箋などあるわけがない。そして、自分で解決しないやつが、自分になれるわけがない。

 むしろ、自分自身の特異で個別の現実を直視する「単独者」として自覚することが、第一ステップ。現在地がわからないのに、目的地への道筋が立てられるわけがあるまい。良くも悪くも、まさにいま、このありさま。それを認識しないと、なにも始まらない。そしてまた、このままでいいや、と、ぬくぬく今の布団の中にくるまっているようなやつが、希望にたどり着くわけがない。ここじゃない、これじゃない、という自己否定があってこそ、自分の内面を探求し、ほんとうに自分がめざすべき希望を内的弁証法、いわゆる自己分析で見出すことができる。

 とはいえ、耽美的実存、かっこいいと思うから、というのは、ほんとうの希望ではない。なにがかっこいいかなんて流動的で、気が変わったら、すぐに変わってしまう。また、倫理的実存、それが正しいとされているから、というのも、自分の希望ではない。類型的で、それこそ自己喪失。それがかなっても、自分はうれしくもあるまい。そうではなく、信仰的実存、不動の神から見てのあるべき自己こそ、自分が希望すべきもの。こんな過去を生きてきた、こんな現実の自分に課せられた天命は何か、自問し自覚することが大切。

 しかし、この場合も、そんな天命どおりの自分になんか、そうそうかんたんになれるものではない。親が金持ちだとか、宝くじに当たるとか、現実から理想へ直線直行でつながる道があれば、苦労しない。だが、きみに与えられているものは、これしかないのだ。貧弱な現実に愚痴ばかり言っていても、なにも始まらない。また、限られた時間、限られた条件で、どっちも、あれもこれも、などということはできない。与えられているものを組み上げ、迂回でも遠回りでも、とにかくどうしたらこの現実から理想へ道をつなげるのか、自分の工夫と責任でなんとかするしかない。

 それでもなお、そこには現実と理想の間に絶対的な断絶がある。絶対的な絶望。だが、だからこそ、捨て身で神を信じることが求められる。自分にその天命が課せられている以上、その天命に最善を尽して身を投げ出すとき、それは自力を越え、神の力でかなえられるはず。そう信じて、断崖に飛び出す。これが、質的弁証法。

 なぜ絶望が死に至るのか。かなう見込みもない希望を夢見ているだけで、自分で生きようとしないから。たとえ物理的に生きているとしても、そんなのは生きているうちに入らない。自分が生きるには、過去の自分、現在の自分として、むしろ死んで、未来の自分として生きることが求められる。片足を前に出し、後足を蹴ってこそ、人は進む。立ち止まっているなら、電柱と同じ。あんな昨日の自分、こんな今日の自分のままでいるのは、みじめだ、と自覚し、身を投げ出してこそ、過去から未来へ、現実から希望へ、我々は橋を架け繋ぐことができる。それが生きるということ。

by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学vol.1 などがある。)