実際の長篠の戦いはどのようなものだったのか?(写真:ry00 / PIXTA)

長篠の戦いは、織田信長が宿敵の武田軍を鉄砲隊の活躍で破った合戦としてよく知られる。
しかし、ドラマなどでおなじみの鉄砲の3段撃ちや武田騎馬隊の突撃といった有名なシーンも、これまでの検証から虚構である可能性が高くなった。
では、実際の戦いはどのようなものだったのか。
佐藤優氏の「座右の書」を全面改定した『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「本当の長篠の戦い」を解説する。

フィルムの中で輝き続ける「武田騎馬隊」の勇姿

日本映画の巨匠、黒澤明による1980年の公開作品『影武者』。そのクライマックスで描かれたシーンが、天正3(1575)年に行われた「長篠の戦い」です。

果てしない荒野を土煙とともに敵陣へ疾走する武田騎馬隊の荘厳な姿は、これぞ黒澤映画の真骨頂といえるでしょう。現代ではしばしば用いられるCG技術に頼らず、膨大な数のエキストラを動員して構成された迫力の実写映像は、まさに圧巻といえます。

こうした映像作品も含め、私たちが「長篠の戦い」と聞いてまず思い浮かぶのは、「織田信長が3000挺の鉄砲を使った『3段撃ちの新戦法』を発明し、『戦国最強の武田騎馬隊』を打ち破った」というエピソードでしょう。

かつては学校の授業でも「長篠の戦い」は、武田信玄の時代に全盛を誇った「騎馬隊」という旧式の戦法が、鉄砲を中心とした「新たな戦法」に敗れた歴史的事件で、中世から近世への転換点であると位置づけていました。

ただ、こうした認識は現在では変わっており、「長篠の戦い」へのさまざまな検証から、これまで史実とされてきた「織田信長の3段撃ち戦法」や「武田騎馬隊」も含め、「実際の戦いの様相」はかなり異なるものだった可能性が指摘されています。

それどころか「最新の日本史」では、従来、広く一般に信じられてきたことのほとんどが、実は史実とは言い難いことがわかってきています。

今回は、こうした最新の研究動向から「長篠の戦い」の実像について解説します。

今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。

「小説」が「史実」として広まった

Q1. 「長篠の戦い」とは何ですか?

天正3(1575)年5月21日に三河国長篠(愛知県新城市)で行われた、「織田信長・徳川家康の連合軍」と「武田勝頼」による合戦です。

両軍の総数は、織田徳川軍3万、武田軍1万5000とされていますが、諸説あり、実際の数ははっきりしていません。

戦場は、長篠城と設楽原(したらがはら)地域の2カ所で、鉄砲のエピソードで有名なのは設楽原での戦いです。

Q2. 戦いのきっかけは?

「徳川家康と武田勝頼の、北三河地域をめぐる攻防」です。

武田信玄の死去後、徳川家康は「北三河地域を武田氏から取り戻そう」と、奥三河の要衝である長篠城を奪還します。これに対して武田勝頼は、長篠城を三河侵攻の橋頭堡とすべく攻略に向かいます。

徳川家康は長篠城からの救援要請に応えて軍勢を派遣するとともに、同盟関係にあった信長にも出兵を依頼し、「織田徳川連合軍」という形で武田軍に対峙しました。

Q3. これまでの認識では、どのような戦いだったのですか?

織田徳川連合軍は、武田軍の得意とする騎馬隊による突撃を「馬防柵(ばぼうさく)」で食い止め、横1列に1000挺ずつ3段に分けた鉄砲3000挺で一斉交代射撃を行って、武田軍を撃退したというストーリーが有名です。

Q4. この話がなぜ疑わしいのですか?

これは、江戸時代初期に書かれた小瀬甫庵(おぜほあん・1564〜1640)による『信長記(しんちょうき)』に書かれているストーリーです。

ただ、『信長記』は戦いから数十年を経たあとに書かれた「小説」で、当事者または同時代に残された記録(一次史料)ではないことから、「信憑性に問題がある」とされているのです。

Q5. 内容的に正しい史料はないのですか?

信用できるものは多くありません。「最も史料的価値が高い」と考えられる信長の書状などには、残念ながら戦いの顚末は詳しく書かれていません。

そうした中で、信長の家臣だった太田牛一(ぎゅういち・1527〜?)が書いた『信長公記(しんちょうこうき)』は、記述に具体性もあって全体的に正確であるとされ、誤りも幾分あるものの、「現時点では最も信頼できる史料」と考えられています。

「1000挺一斉射撃」は荒唐無稽だ

「長篠の戦い」について、近年では『信長公記』や現地での発掘調査の結果なども基に検証が行われ、これまでとは「異なる解釈」が行われるようになっています。

【新事実1】鉄砲の数は「3000挺」ではなかった

戦場となった設楽原の発掘調査では、なぜか鉄砲の弾がほとんど出土しておらず、本当に3000挺もの鉄砲が使われたのか疑問が持たれています。

そもそも3000という数は、小説である『信長記』に記されている話です。『信長公記』には、信長は各部将から少しずつ銃兵を集めて1000人ほどの鉄砲隊を臨時に編成したと記されており、実際には「3000よりも少なかった」と思われます。

【新事実2】3段撃ちによる一斉交代射撃はなかった

いわゆる「3段撃ち」のエピソードも、やはり小説である『信長記』に書かれた話です。

突撃してくる武田軍に対し、信長が「敵が近づくまでは鉄砲を撃つな。1町(約100m)まで引き寄せたらまず1000挺が発砲し、1段ずつ交代に撃て」と命じる場面があり、この内容が基となって定着しました。

ただ、信頼できる史料では「3段撃ち」については一言も触れられておらず、『信長公記』でも、鉄砲を「さんざんに」撃ちまくったとあるのみです。

一方、武田軍についても「新たな見解」が提示されています。

騎馬隊という幻想

【新事実3】「武田騎馬隊」の活躍はなかった

この時代、戦国大名の家臣たちは、それぞれの知行に応じた数の騎馬や槍(やり)、弓などの兵を集め、戦場でもこれらの兵種が混在した形で集団行動をしていました。

これは武田氏でも同じです。つまり、「騎馬隊」と呼べるような兵団は存在しませんでした。

さらに、当時の軍役から兵種を分類してみると、「武田軍の騎兵の割合は全体の1割程度」だったこともわかっています。

ちなみに当時、日本にいた在来種の馬は、体が小さい種類でした。現代のサラブレッドは体高がおよそ150〜170cm超ありますが、当時日本にいた馬は120cmほど。今でいう「ポニー」に近い体型でした。

【新事実4】「戦いの舞台」は、広大な平原ではなかった

「長篠の戦い」の主戦場となった設楽原は、「原」という地名からは開けた場所がイメージされます。

しかし戦場となった場所は、南北におよそ2km、東西に平均して200〜300mほどの縦長な平地が広がり、その中央を河川(連吾川)が分断する、およそ馬が駆け巡る大平原とは程遠いロケーションでした。

【解釈5】両軍は「平地」で戦っていなかった

決戦時、織田・徳川連合軍と武田軍は、上記の南北に続く平地に沿って背後に細長く連なる「舌状台地上に布陣」していました。

特に連合軍側は、武田軍本隊が長篠城から向かってくる数日前からこの台地を巧みに陣地化し、空堀(からぼり)や土塁、切岸(きりぎし)を築くと、全体に柵(さく)をめぐらせ、高低差を利用して武田軍を迎えました。

そのため、この戦いは武田軍からみれば「平原での野戦」というよりむしろ「城攻め」に近く、馬での戦闘には不向きでした。

Q6. ところで、最初の目的だった長篠城はどうなったのですか?

信長が派遣した別働隊により、設楽原での決戦の日に救援されました。

決戦の前日、信長はひそかに自らの親衛隊と家康軍の一部隊を合わせた4000の兵を迂回路から長篠城に送り、翌日の設楽原での開戦とほぼ同時に敵の包囲から長篠城を救いました。

これで、織田・徳川連合軍の当初の目的だった「長篠城の救援」は達成されたうえに、設楽原でも「武田軍本隊に壊滅的な打撃を与える」という思わぬボーナスが追加されたため、勝利の印象がより鮮烈なものとなりました。

「新たな史料の発見」で日本史は大きく変化している

戦国時代後期には、鉄砲が戦場での主要兵器となり、「合戦の様相」はそれまでとは大きく変わりました。

信長はこの鉄砲にいち早く着目し、鉄砲の力で天下統一を目指したことは間違いありません。ただし、彼の前に立ちはだかるライバルたちも、鉄砲を手にしていました。

なかでも大坂の石山本願寺は、鉄砲の製造と使用に秀でた雑賀衆(さいかしゅう)とともに激しく抵抗を続け、信長はその攻略に11年もの歳月がかかったことで、道半ばで生涯を閉じる結果となったのです。


日本史では「新たな史料」の発見や研究の成果により、しばしば「史実」が置き換わっています。

教科書でそれまで「常識」とされていた内容でも、変更や削除、まったくの新事項の追加が行われています。特に「最近の記載の変化」は目まぐるしいものがあります。

今回の「長篠の戦い」のように、「かつて学校で習った日本史」と「最新の日本史」では、実態が大きく異なるケースが多々あります。

ぜひ「最新の日本史」を学ぶことで、その違いを実感しつつ、「大人に必要な教養」までいっきに身につけてください。