『ジョホールバルの歓喜』から20年。
激闘の舞台裏を今、改めて振り返る(2)
――山口素弘編



『ジョホールバルの歓喜』から20年。あのときのW杯アジア最終予選は、最初から最後まで”異様”な空気に包まれていた。ここ最近のW杯予選とは違って、息苦しいほどの緊張感があった。それは、ピッチに立つ選手だけでなく、見る側も同様だった。その壮絶な予選の実態について、当時日本代表の中心選手だった山口素弘氏に語ってもらった――。
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――『ジョホールバルの歓喜』から20年が経ちました。あの激闘のW杯アジア最終予選について改めて振り返ってほしいのですが、予選に入る前はどんな気持ちでしたか。

「(予選に向けては)ワクワクしていましたね。『いよいよだな』という期待感がありました」

――W杯に行ける、という手応えは予選の前からありましたか。

「手応えよりも、『W杯に行かなければいけない』という使命感のほうが強かったですね。フランスW杯のあとは、2002年の日韓共催によるW杯開催が決まっていました。それで、開催国で初出場というのは前例がないということもあって、その前に『(W杯に)出場しなければいけない』という論調がすごく大きかったですから。それに、『ドーハの悲劇』となった前回予選でもあと一歩のところで出場を逃していましたからね」

――初戦はホームでウズベキスタンに6-3で快勝。2戦目はアウェーのUAE戦を0-0で引き分けました。3戦目はホームで韓国と対戦。前半戦のヤマ場だったと思います。

「ひとつの”ヤマ”かな、という感覚はもちろんありました。メディアも試合前から”勝負どころ”と捉えて、かなり煽(あお)って報道していましたからね。実際、試合当日は『これが、日韓戦なのかぁ』と強く心に響くほど、スタジアムも異常な盛り上がりを見せていました」

――その大一番で、山口さんの鮮やかなループシュートで先制。これで”いける”という思いはありましたか。

「1-0で逃げ切れるとは思わなかったけど、韓国がガクッときたかな、というのはありました。でも、そこからもうひと押しができなかった。それは、韓国には経験豊富な洪明甫(ホン・ミョンボ)とかがいて、そうした選手たちの踏ん張りが大きかったと思うし、逆に日本には2点目を取って押し切るパワーがなかったんだと思います。とにかく、難しい試合でした」

――結果、日本は2点目を奪えず、1-2と逆転負け。痛い敗戦だったのではないですか。

「それほど痛手に感じることはなくて、そのあと、すぐに試合があったので(チーム内は)『仕方がない。次に切り替えよう』という雰囲気でしたよ。次の中央アジアでのアウェーの2戦、『ここが大事だ』と。正直、あのときの予選は試合が終わるとすぐ移動といった感じで、負けたことを引きずっている暇もなかった。

 第一、家に帰れたと思ったら、次の日には空港に集合とか、ほとんどホテルで生活していましたから。外出できる状況でもなかったし、そりゃ(選手は)ストレスも溜まりますよ(笑)。今では考えられないような、”特異”なスケジュールでしたよね」

――その中央アジアでの初戦、カザフスタン戦は引き分け(1-1)。その夜、加茂周監督が更迭されました。

「カザフスタン戦では1点リードしていて、ロスタイムの最後のワンプレーで同点にされた。あれは、(チーム内でも)ちょっと堪(こた)えたな、という空気になりましたね。『あそこで追いつかれるのか……』と。それにプラスして、加茂さんの更迭でしょ。ずっと率いてきてくれた監督ですから、さすがに喪失感というか、悔しさというのはありましたね」

――加茂監督が更迭された夜、選手たちだけでミーティングを行なったという話を聞きました。

「普段から、何かあれば自然とリラックスルームに(選手たちが)集まってくるんですけど、あのときも選手それぞれが部屋で悶々としているよりは、という感じでみんなが(リラックスルームに)集まってきたんです。それで、『じゃあ、いい機会だし』と井原(正巳)さんが場を仕切ってくれて、みんなで話をした。結構熱くなって、『俺たち、何やってんだよ』『これから、どうすんだよ』と、言いたいことをすべて吐き出していましたね」

――続くウズベキスタン戦も1-1で引き分け。見ている側としては、さすがに「やばいな」と思ったのですが、チームのムードはいかがでしたか。

「どうだろう、そこまで落ち込んだ雰囲気はなかったと思います。相手に追いつかれての引き分けだったら、ショックは大きかったかもしれないけど、こちらが追いついての引き分けでしたから。それも、後半44分という土壇場で、井原さんが自陣の深いところから思い切り蹴ったボールを、呂比須(ワグナー)が相手とちょっと競り合ったら入っちゃった。みんなはどう思っていたかは知らないけど、アウェーで2分け。負けなかったわけだし、僕自身は『いい流れじゃん』『まだ、これから何か起こるんじゃないか』と思っていました」

――ただ、日本に戻ってからのUAE戦も1-1で引き分けてしまいました。試合後には暴動も起きて、翌日のスポーツ紙では「W杯絶望」という文字が躍りました。

「あの引き分けは、さすがに……厳しかったですね。ただ、開き直ったわけではないですけど、まずは自分たち個々の思いを大事にしよう、という話をみんなでしました。周囲からのプレッシャーというか、『W杯に行かなければいけない』とか『日本サッカーのために』とか、いろいろと背負うものもあるけど、誰がW杯に行きたいのかって言ったら『一番は俺たちだよな』って。周りが何と言おうと、大事なのはそこ。まずは『自分のために』『自分たちの夢や目標を叶えよう』という気持ちを強くしていった。

 また、僕は当時、3バックは間延びするのであまり好きではなかったんですが、UAE戦から4バックにしたんですよ。それで、選手の距離も近くなって、コンパクトに戦えるようになった。日本らしさが出始めて、いい感触を得ていました」

――そうして、アウェーの韓国戦(2-0)、ホームのカザフスタン戦(5-1)と連勝を飾って、第3代表決定戦に駒を進めることができました。

「韓国戦のときは、試合に臨む前のトレーニングのときから、チームがいい状態にあった。UAE戦で得た手応えどおり、ボランチでの動きの感触もよかったし、ボールも動くようになって自分たち”らしさ”を出せるようになっていましたから。それで、『いけるだろう』と思っていました。

 カザフスタン戦は、もう”日本の形”というものができていたし、(韓国戦で)結果も出ていたので、自信を持ってやれましたね。(出場停止の三浦知良と呂比須に代わって)経験豊富な高木(琢也)さんやムードメーカーのゴンちゃん(中山雅史)が入ってきてくれたのも大きかった」

――迎えたイランとの第3代表決定戦。どんな気持ちで臨みましたか。

「いい緊張感を持って臨めました。(試合では)イランは2トップのダエイ、アジジに加えて、右サイドのマハダビキアを前に出して3トップ気味にして、左サイドバックの相馬(直樹)の攻め上がりを抑えようとしてきた。でも、(イランは)最終ラインと中盤の間が空く印象があったので、そこをうまく突ければ、と思っていました」

――試合は日本が先制しましたけど、後半に入ってイランに逆転されました。そのあと、日本は2トップのふたり、三浦選手と中山選手を一気に代えました。

「こちらが流れをつかんでいましたけど、最後のフィニッシュの部分ではパワーが落ちていましたからね。(交代については)思い切って代えたな、と思いましたけど、ふたり同時に代えてくれたほうが、プレーしている選手としてはわかりやすかった。『行け!』ってことなんだな、と」

――その結果、城彰二選手が同点ゴールを決めて、延長戦に突入しました。

「相手のカウンターには気をつけないといけないと思っていましたが、イランの選手は疲れていたし、日本の流れだったので、あとはどう仕留めるか、という状況でした」

――最終的には、延長戦から出場した岡野雅行選手がVゴールを決めてくれました。

「(ゴールが)決まった瞬間は、大喜びっていうより、ホッとしました。『やっと、終わったぁ』って感じで、『この生活からやっと解放されるな』って、ヒデ(中田英寿)や名波(浩)と握手したのは覚えています。そんななか、岡野はあんなに大騒ぎしやがって(笑)。こっちは体張って守って、ひとつでもミスすれば失点を食らってメチャクチャ叩かれるけど、前の選手はいくら外してもいいんだよね、最後に決めれば。そんなもんだよなって、改めて思いますね(笑)」

――改めて振り返ってみて、どんな予選でしたか。

「とにかく”特殊”な2カ月間でしたね。でも、あの予選を経験したことは、よかったと思っています。あれで成長した部分もあるし、いろいろな経験をさせてもらいましたから」

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◆中田英寿と岡野雅行の意見が一致した「日本の弱点」は?>>

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