数字ですべてを語るのはムリな話なのです(写真:makaron* / PIXTA)

報告や指示出し、社内プレゼンなど、ビジネスシーンにおいては「いかに数字を使って説明できるか」が説得力にかかわるといわれる。
一方で、「数字を使ったからといって『わかりやすくなる』とは限らない」と語るのは、『京大式DEEP THINKING』の著者、川上浩司氏。数字を使って表現する側にも、そして情報をインプットする側にも必要な数字に対するリテラシーを解説する。

「数字」と聞くと、よく「論理的思考」を連想する。

「理系=論理的に物事を考える」「理系=数学が得意」というイメージから来ているのだろう。

「論理的に伝える」ことには、「相手に道理をわかりやすく明確に伝え、それによって相手も筋道をはっきりと理解できる」という狙いがある。確かに「数字」を効果的に使えば、相手も理解しやすく「論理的に伝わる」一助となるが、間違った使い方をしてしまうと思ったとおりに「論理的に」伝わらないので注意が必要だ。

「4つの尺度」が説得力を決める

「数字と伝わり方」について、特にビジネスシーンを前提として考察すると、押さえておきたいポイントがある。それは「数字の尺度」だ。

仕事は基本「1対多数」で、マスを相手にしている。そこでは数字はとても便利に使われ、自販機で売られているコーヒーなら「ちょっと甘くない感じのコーヒーです」よりも「糖度50%オフ」のほうがふさわしい。

「売れる・売れない」も数字で測られるし、会社の業績も「売上高」「利益率」「株価」といったもろもろの数字で測られる。ビジネスにはこのような客観的な「尺度」が必要なのだ。

この尺度が少し曲者(くせもの)で、数字で表せるものもあれば表すことができない尺度もあり、それぞれ意味と性格が異なる。

そんな尺度の種類には大きく4つある。「比例尺度」「間隔尺度」「順序尺度」「名義尺度」である。

順番に見ていくと、どの表現から数字が使えなくなるかが見えてくる。

◆比例尺度……年齢、重さ、距離、絶対温度など、「大きいか小さいか」「どのくらい差があるか」「比はどれくらいか」が数字で表せる尺度。

「60歳は20歳より数字が大きく40歳の差があり、3倍の数字だ」という説明ができる。

◆間隔尺度……摂氏や華氏で表す温度や日付、西暦など、「大きいか小さいか」「どのくらい差があるか」は数値化できるが、「比」(何倍か)については数値化できない尺度。

たとえば、摂氏30度は10度より高くて、差は20度だが3倍暑いわけではない。足し算、引き算はできるが、他と比べて「○倍高い」といえない尺度である。

◆順序尺度……「大きい、小さい」はいえても、「どのくらい大きいか、小さいか」がいえない尺度。

「あのアイデアよりこのアイデアのほうが面白い」という比較はできるが、仮にその順番を無理やり数字に置き換えたとしても、足し算も引き算もできないので、せいぜいどっちが「よいか悪いか」しかいえない。

◆名義尺度……人の名前、血液型、星座などがこれに当たる。名前が付いていて区別はできるが、大きいか小さいか、差はどれくらいか等いっさい数値化できないので優劣はつかず、比較もできない。

4つの尺度のうち、本当に数字で表せるのは2つ目の「間隔尺度」まで。すなわち数字とは、「すべてを表せる万能のもの」ではなく、「何倍」と表現したほうが効果的なので比例尺度が乱発されている。

「エビデンス」っぽく見える数字

「数字で表せると説得力が増す」という信仰は根強く、特に「他者と比較して、こちらがどれだけ優勢か」を示す比例尺度に無理やり落とし込んでいるケースは多々あり、われわれも油断していると信じ込んでしまいがちなので注意が必要だ。

「この商品はほかの製品の3倍効果がある」「100%の品質保証」など、「比例尺度でしか使えないはずの数字表現」をよく目にする。

たとえば衣料用洗剤の新商品が発売されたとする。そのパッケージには、こんな宣伝文句が書かれているとしよう。

「新製品の汚れ落ちは、当社比120%」。

この「120%の汚れ落ち」という数字の実態が以下のようだったらどうだろう?

実験として、服に10gの汚れをつけたとし、従来の洗剤だと1g落ちたところ、新商品だと1.2g落ちた。この場合、確かに「汚れ落ちは当社比120%」となる。しかし、10gの汚れのうち、大部分の8.8gは服に残ったままなのだ。

なのに、われわれはこの数字を見たとき、「そうか、120%なのか。ちゃんと科学的に検証している」と無条件に「比べられた数字」だけを飲み込んでしまう。

エビデンス重視という風潮が強くなっているが、だからといって「数字」そのものだけを凝視するのではなく、その裏側まで考察してこそ「賢い選択」といえるだろう。

「数字の置き換え」が横行している

また、本来数字ではいえないのに、無理やり数字を持ってきて説得力を醸し出そうとしている例もある。

「100人中75人がA社のお茶よりB社のお茶がおいしいと言っています」というB社の広告があったとする。

ここで、仮に「おいしさ」という比例尺度があったとしよう。

その尺度でA社のおいしさが12/100、B社のおいしさが13/100だったとすると、微妙な違いなので100人が飲めば75人くらいは「B社のほうがおいしい」と言うかもしれない。

だからといっておいしさそのものが「75/100」なのではなく、あくまでおいしさは「13/100」である。

「100人中75人がA社のお茶よりB社のお茶がおいしいと言っています」という文言を見たとき、脳内で勝手に「おいしさ=75」と変換してしまうことも多く、そうなればメーカー側の思惑どおりだろう(そもそも、「おいしさ」を比例尺度で表した時点で筆者の思惑が入っており、この設定を違和感なく受け入れた方は、数字の受け止め方に注意しよう)。

このように、「比例尺度」に代表される数字表現と出合ったとき、まずはそれを見破れることが重要である。分母は数(規模、サンプル数)を、そして分子は「その数字が何を意味するのか」を考えることが得策だ。

数字で言ってはいけない

数字を使うことで説得力が弱まるケースも存在する。

たとえば、「一見さんお断り」の高級カフェが京都にできたとする。そこで出されるコーヒーは「1杯3万円」という驚きの値段だが、静かな茶室のような店のしつらえと、シンプルなカップで運ばれてくるコーヒーは文句なくうまく、予約が何年待ちという状態だ。そんな中、無類のコーヒー好きのあなたはようやくそのお店に行くことができ、1杯口に含んだあと、バリスタにこう問う。

「このコーヒーはどういうコーヒーで?」

するとバリスタはすらすらこう答える。

「コロンビア産の豆50%にグアテマラ産の豆20%、インドネシアの豆30%をブレンドし、生豆から3分、10分、15分と時間を追って焙煎し、82メッシュに引いた粉を斤量1.2gの濾紙に18g入れ、82℃のお湯を0.5秒につき5mlずつ注いて淹れたものです」

これは相当に具体的だし、数字という客観性があるので再現性もある。

ただ、大抵の人にとっては「1杯3万円のコーヒー」をいただくにはふさわしい説明ではないだろう。これは「合理的な考え+数字」だと、「おもてなし」にならない、ということであり、「人対人」が重んじられる空間であれば、数字よりも「ある種のあいまいさ」が大切になってくることを示している。

このあいまいさをうまく利用した例として、あえて数字等を用いず「わかりにくく伝える」京都の舞がある。

舞妓に踊りの指導をする際、師匠は「ひじを〇度に曲げて」とか「●秒動いてストップ」といった伝え方はしない。

その代わり、「舞い散る雪を拾うように、扇を動かしなさい」といった指示の仕方をするそうだ。

これは、情報を出す側と受け取る側でイメージが完全に合致していない。だからこそ「その人らしいユニークさ」が踊りに付加され、その人らしい舞となって文化が続いていく。

このような伝え方に用いられる表現を「わざ言語」といい、共通する経験さえあれば、非常に腑に落ちる、時に「数字以上にわかりやすい」表現となる。

「わかりやすい説明」に数字は必ずしも必要ではなく、むしろ「わざ言語」など体感に根付いた言葉を用いたほうが説得力は増し、同時に親近感も醸し出せる「1対1」感を強めるコミュニケーションツールとなりうるのだ。

経営者の話が「無味無臭」なわけ

時々、経営者インタビューなるものを見ていて「うーん」とうなることがある。

率直にいって無味無臭なのだ。

数字等を使って万人に平等に伝わるように話されている分、守秘義務もあるだろうから個人としての感覚がそぎ落とされ、「万人向け」という部分が「せっかくトップが話す特別感」を薄めているように感じる。


もちろん「解釈が一意に定まる」という点で、わかりやすく大勢の人に説明するうえでは利点となっているのだろうが、一個人として受け止めたとき、「もっと個人として本当に思うこと」を聞いてみたい、と思ってしまう。

発信側は「大勢の読者」を想定していて、一読者としては「私と社長」という縮図がある。発信者と読者の頭の中は明確に違っているため、この違和感は仕方がないと割り切ってはいるのだが。

「数字ですべてを語る」のは無理な話なのであり、「数字があれば安心」と数字自体に目的を置かないよう注意したい。

そして、消費者をはじめとする「数字表現をされる側」になったときも、この数字の性質を理解してこそ、発信者が用意した「都合のいい数字」にまんまと誘導されることなく、賢い選択ができる確率が高まるのである。