10月末に明らかになった座間の事件、たまたま関西に出かけていましたので11月3日にこの話題を自主規制の重要性として最初に取り上げました。

 記事の公開後、読者からは様々なリアクションがありました。中には率直言ってピントの外れたものもありました。

 現実には、同じ11月3日時点で米国ツイッター本社はいち早く自主ルールを新たに付加し、「自殺や自傷行為の助長や扇動を禁止する」として対策を講じ始めました。

 仕事でこの種の問題に責任を負ったことが一度でもあれば、誰でも同じように対処するでしょう。

 ここでの「自主規制」とは、言うまでもなく「自主的な規制」ですが、日本型の「自粛」や「忖度」とは似ても似つかない、クリアなルールに基づくものです。

 これに対して「自主」がつかない「規制」もあります。

 これは法整備を中心に国家がレギュレーションを規定するもので、違反すれば行政上、あるいは刑事上の責任を問われる可能性もあるものです。

 果たして、11月5日から7日にかけての米大統領来日イベントが終わると、政府は「座間以降」の問題に正面から取りかかり始めました。

 週末を迎える10日金曜日には、官房長官から「再発防止のため」「ツイッターが」「規制の対象になるだろう」などと談話を発表し始めます。

 これが「自主」抜きの「規制」の方向性で、以下のポイントが挙げられています。

●徹底した捜査の実施
●自殺に関する「不適切なサイト」や「不適切な書き込み」への対策
●ネットを通じて自殺願望を表明する若者へのケア

 政府機関によるこの種の「規制」には、様々な問題と、何よりも露骨な「限界」があります。

 例えば、どこまでを「適切」の範疇と考え、またどこから先を「不適切」なサイト、あるいは書き込みと判断するのか――。警察や教育委員会が決定できることとできないことがはっきりと存在します。

 「映倫」を考えてみるといいでしょう。「自主規制」の典型的な例と言えます。

 「映画倫理機構」は、ホームページにもあるとおり、

「表現の自由を護り」
「青少年の健全な育成を目的として」

 映画界が自主的に設立した第三者機関で、官憲が上から規制するというものではありません。

「映画が観客や社会に与える影響の大きさを自覚し」
「法や社会倫理に反し、とりわけ未成年者の観覧につき問題を生じ得る映画について」
「社会通念と映画倫理諸規程に従って、自主的に審査」

 したものが、商用の映画として合格番号を振られて公開されています。

 テレビも映画も、これまで不特定多数に公開される音声動画はもっぱらプロフェッショナルが作っていました。

 ブロードバンド・インターネット以前の世界では、こうした「自主ルール」を守る職業人だけが表のコンテンツ供給者であって、そこから外れるものは「裏ビデオ」など、社会の通常の販路以外の場所で取引され、当然ながらしばしば検挙されました。

 そういう意味では、今回の事件を契機として、ネット上のSNSについても「表現の自由を守り」つつ「青少年の健全な育成を目的」とする適切な施策が必要不可欠、この本質は誰も否定しないでしょう。

 すなわち、映倫をそのまま引用してパラフレーズするなら、

「サイトや書き込みがネットユーザや社会に与える影響の大きさを自覚し」
「法や社会倫理に反し、とりわけ未成年者の観覧につき問題を生じ得るサイトや書き込みについて」
「社会通念とネット倫理諸規程に従って、自主的に審査」

 できるようなシステムがあれば何より、ということになるはずです。ところが、ネットワークの場合、これがなかなかうまくいかない本質的な事情があります。

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グローバルメディアの情報環境保全

 この原稿を書いている11月14日、米国ツイッター社のジャック・ドーシーCEO(最高経営責任者)が悪質な書き込みなどへの対応協議のために来日しました。

 ドーシー氏はツイッターの創業者の1人でNHKのインタビューに答えて、

 「コメントをすべて削除するなどして(も)、自殺を根本から防ぐことは(ネットワークの)どのようなテクノロジーを使っても不可能」としたうえで、

 「自殺に関する書き込みをすべて削除するのは現実的でなく」「利用者同士をつなげることで、自殺防止を図っていきたい」

 などとコメントしました。経営陣らしく「わが社が責任をもって」などとは逆立ちしても言わず、「利用者同士をつなげることで」としているのもポイントです。

 またそれ以前に、ツイッターという媒体がグローバルメディアであることを確認していかねばなりません。

 よく、ツイッター・アカウントが凍結され、日本法人に相談したが全く埒が明かず、米国本社に連絡したら瞬時で解決した、といったたぐいの話を耳にします。

 企業体としてのツイッターは米国に所在し、米国の諸法規に従う義務を負います。逆に言うと、政府や官邸がどれだけ息巻いて、日本の一国法で何か「規制」しようとしても、実は本質的に法の網の目で絡め取ることができません。

 日本の法律の埒外での出来事なので、国内法だけによる「規制」には原理的な困難、限界が伴います。

 もちろん、司法当局なども様々な方策を検討するでしょう。しかし、海外のサーバを中心にグローバルに「自殺サイト」が運営され、その中に日本語のページなどがあった場合、法規制を中心とする豪腕流では、できることに限界があります。

 翻って、国境をまたいで事業者がコンソーシアムなどを組み、その中で、グローバル・ネット映倫とでも言うべき自主規制を強化すれば、日本一国の内国法規による規制より、はるかに実効的、かつ「表現の自由」など、法的にデリケートな問題にも抵触せず、柔軟、かつ人間的な対処が可能になることが期待されます。

 この問題を記した前回記事のポイントもここにありますが、これは私の意見などではなく、インターネットというものができた当初から、様々な機会で有効に機能してきた、ネットワーク社会の原点を記しているのにほかなりません。

「承認」というカルチャー

 表面的には極端に異なって見えるかもしれない例を挙げましょう。「ビットコイン」です。

 この電子通貨、あるいは「暗号通貨」全般が、どのような原理で動いているかといったことは、ここでは端折ります。様々な解説がネットに出ており、この連載でも触れてきましたので、興味のある方は検索してみてください。

 ポイントは「ユーザ間の相互承認」によって、有効なものが選ばれていく、というビットコインを支える基本的な原理です。

 あるいはブロックチェーンを応用した様々な技術についても、毎日おびただしい報道や情報発信がなされています。実はここでも同じ原則が機能しています。

 ブロックチェーンは、現時点ではセキュリティのレベルが非常に低いIoT全般を近い将来、より安全で堅固なものに根本的に生まれ変わらせるキー・テクノロジーとして期待を集めています。

 ビットコインやブロックチェーンの基本は「トラストレス」中心不在、個々の結節点=ノードが有効に関わり合うことでシステム全体が成立するというネットワーク思想の上に立脚しています。

 まさに「ネットワーク」で網の目上にトランザクションが展開します。

 これに対して、従来のバンキングやクレジットカードには、必ず信用の中心が存在します。ネットワークの形は中心から放射状に周縁に向かって矢が伸びて行きます。

 いわゆる「規制」の観点は、この「放射状」システムの本質的な特徴ですが、システム全体の複雑性が増すと、加速度的に使い物にならなくなっていきます。

 規制の観点に立つとき放射状のシステムを監視塔型=パノプティコンと呼ぶことがあります。牢獄の監視塔を意味する言葉です。

 これに対して、個々の「ノード」が緩やかにつながり合いながらシステム全体が有機的に、柔軟に安定性を保つあり方をアーキペラゴ、群島型と呼ぶことがあります。

 最後に見慣れないカタカナを引きましたが、インターネットが公開される10年も前に亡くなったフランスの哲学者ミシェル・フーコーは、こうした問題を考えるうえで様々に予言的な思想を展開しています。

 効果に原理的な限界のある内国法規制に任せるのでなく、より柔軟でありながら、安全性の高いアーキペラゴ型の再発防止策が、事業者の自主的な動きとして国境を越えて展開されるのが重要だと思います。

筆者:伊東 乾