Photo by Yoshihisa Wada

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三菱自動車CEOの益子修氏。不祥事や経営危機に直面し、再建に力を尽くしてきた経営者が今思うことは何か。2000年の大規模リコール隠しの不祥事からこれまでを振り返り、企業風土・組織の変え方とその難しさを率直に語る。

 それは一切の事前通知がない突然のものだった。2004年4月22日(日本時間23日早朝)、三菱自動車工業の資本提携先であった独ダイムラー・クライスラーは、三菱自動車への支援を打ち切ると彼らのホームページの中で発表した。CEOとして派遣されていたロルフ・エクロート氏も同26日付で退任した。

 当時、三菱商事で自動車関連事業の責任者である自動車事業本部長を務めていた私にとって、この突然の通知は、仕事人生を大きく変えるものとなったのである。

資金繰り悪化、倒産目前

 当時三菱自動車の一部門であった、ふそうトラックによる2000年の大規模なリコール隠しは、社会からの信頼を根底から覆した。さらに、そこに突きつけられたのがダイムラー・クライスラーからの「絶縁状」だった。04年にこの問題が再燃した。会社は完全に信頼を失った。

 この緊急事態を受けて、同年5月、三菱重工業、三菱商事、東京三菱銀行の3社は資金支援を主体とする「事業再生計画」を打ち出した。しかし資金支援だけでは、3社の株主に「三菱自動車には明確な再建の見込みがある」と説明することは難しい。やはり人材を派遣して再建を担保することが不可欠であり、3社から60人ほどの出向者や転籍者を出した。そのなかに私もいた。

 多くの人は、三菱自動車が単独で再建できるとは到底思っていなかった。それほど三菱自動車は傷んでいた。そんな将来の見込みのない会社なのに部下たちに「お前が行ってくれ」とはとても言えない。派遣された人間が傷ついてしまうのは火を見るよりも明らかだった。そこで、「自分が行くしかない」と私は覚悟を決め、常務取締役(海外事業統括部門担当)として三菱自動車に転籍したのだった。

 リコール隠しをめぐっては三菱自動車の役員が訴追され、社会からは極めて厳しい視線が注がれていた。どこかで車両火災が起こると、他メーカーのクルマならニュースにならないのに、三菱なら大きく扱われた。まるで三菱のクルマだけが火災を起こすかのような報道で、かように04年は、何か事があると「三菱がすべて悪い」と糾弾されるような状況になっていた。

 当然、クルマは売れず、資金繰りはみるみる悪くなっていった。事業再生計画を公表したとはいえ、資金繰りが悪化し、事業の先行きが見通しにくい中では、銀行は1銭も金を出してはくれなかった。

 05年1月4日が返済期限の借入金を処理できなければ、三菱自動車はその段階で資金繰り倒産してしまうところまで追い込まれた。私自身が資金調達に多くの時間を使った。資金の貸しはがしもあって、どこの銀行も貸してくれない。ひどいものだと思った。銀行は「晴れの日に傘を貸し、雨の日に傘を取り上げる」と揶揄されるが、まったくそのとおりだと思った。池井戸潤氏の小説「半沢直樹」にもそんなシーンがあったが、気持ちがよくわかる。

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