【コラム】あれから20年――。日本が6度目のW杯を控えた今、改めてかみしめたい“歓喜”に至る航海のことを

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 あれから20年が経った。1997年11月16日、日本代表が初めてFIFAワールドカップ出場を決めた、ジョホールバルの歓喜から。

 歓喜に至る航海のことを、改めてかみしめたい。

 翌年のフランス大会の次に日韓大会が控えていた。当時、開催国が本大会に出場した経験のないまま、自国でのワールドカップを迎える例はなかった。「初めての屈辱だけは避けたい。そんな空気がサッカー界を覆っていた」。予選途中から監督になった岡田武史(現FC今治オーナー)は述懐する。いまとは種類が異なる「出て当たり前」の重圧にチームはさらされていた。

 アジアに与えられていた出場枠は3.5。最終予選は10カ国が2組に分かれてのリーグ戦だった。1位が自動通過、2位同士は第3代表決定戦へ。日本は4試合を終えて1勝1敗2分けの3位と低迷した。加茂周が監督の座を追われ、コーチの岡田が後を継いだ。

 真に厳しい戦いは、そこからだった。

 アウェーでウズベキスタン代表と引き分け、ホームに戻ってのアラブ首長国連邦戦。またも引き分けに終わり、2位浮上の機会を逃した。国立競技場のピッチにペットボトルや発煙筒が投げ込まれ、心ない観客が紙吹雪を燃やした。チームバスは群衆に囲まれ、パイプ椅子や生卵がぶつけられた。

 10番を背負う名波浩(現ジュビロ磐田監督)の心は折れ、そして覚悟を決めた。

「カズ(三浦知良)さんとサポーターが口論になったり、普段なら起こりえないことが起きた。バスの中で『カーテンを閉めろ』と言われて閉めつつ、ちょっと外をのぞいてみたんです。サポーターの悲痛な顔、もう投げ出したような態度、そういう姿をぼんやり眺めながら、オレたち、何を目標にサッカーをしているんだろうってね。自問自答したよ。で、結論は、まだ試合は残っているんだと。どんなに批判されても、ともに予選を戦ってきた仲間だけは強固なグループになって、突破の可能性を信じようと。『オレたちだけは』という結束が強まった瞬間だった」

 日本は息を吹き返す。アウェーで韓国代表、ホームでカザフスタン代表に連勝し、マレーシア・ジョホールバルでの第3代表決定戦に滑り込んだ。アジア最強と評されていたイラン代表が相手、のるかそるかの一発勝負。前夜、岡田は国際電話で家族に告げた。「負けたら日本には帰れない。海外で暮らそうか」。選手の多くも同じ心境だった。胃薬は手放せなかった。

 先制し、逆転され、追いつき、延長へ。どちらかが得点した時点で決着する「ゴールデンゴール方式」に試合は突入した。送り出された最後の切り札は、最終予選で一度も出番を与えられなかった岡野雅行(現ガイナーレ鳥取ゼネラルマネジャー)だった。

「出たくて出たくて仕方なかったはずなのに、後半途中から、なぜか、耳に入る声援が小さくなっていった。ようやく事の重大さに気づいた。この試合には関わっちゃいけないって」。スパイクのひもを結ぶ手が震えた。武者震いではない。ただ、怖かった。

 案の定。GKとの1対1をふかした。続く決定機におじけづいてパスを選んだ。金縛りに遭ったように体が動かない。スローモーションの世界に陥っていく感覚だった。

 救ってくれたのは、仲間だった。延長後半に入る前のわずかな時間。みんなが近寄って来る。どんなに怒鳴られるんだろうとびくびくしていたら、かけられたのは温かい言葉ばかりだった。

「大丈夫」「気にすんな」「お前しかいない」「頼むから1点取ってくれ」「そうすれば、チャラにしてやるから」。背中をさすってもらうと、少し落ち着いた。「俺たち、本当にファミリーなんだ」と実感した。

 キックオフから数えて118分。その瞬間は訪れた。中田英寿がドリブルで突進、シュート。GKがはじいたボールが岡野の目の前に転がってきた。無意識のうち、滑るように体ごと押し込んでいた。