結婚したら、寿退社♡

一昔前まで、それは女性の人生における最初の小さなゴールだった。

家庭に入り、料理の腕を磨き、夫の帰りを待つ。

だが、2017年の東京で「専業主婦」は、本当に憧れるべき存在だろうか?

専業主婦だった志穂は、自立のために復職した。義母ともめるなどうまくいかず、思わず家を出てしまうが、結果夫婦仲は安定した。

精神も安定し、義母も謝罪したが、2人目出産やお受験のプレッシャーにも襲われる。




ひな、5歳。


「ママ!」と呼ぶ娘の声で、我に返った。

休日のショッピングモール。親子連れで賑わう場所で、志穂は娘のひなと2人で女の子向けの雑貨屋にいる。

あれこれ小物を選んでいる娘が、めぼしいものを見つけ自分を呼んでいる。

「ママ、これにするね!」

手元には、キラキラしたラメがついたカラフルなゴムやネックレス、指輪などのセットが、ごちゃごちゃと入っていた。志穂は、これとこれだけね、と購入するものを選別し、お金を渡し1人でレジに行かせる。

ひなは、5歳になった。

赤ちゃんらしい体型はほぼ面影なく、2歳の頃にはまるでお餅のように膨れていた頬もずいぶんと少女らしいものになっている。

こうして休日に一緒に買い物をしたりランチしたりするのも、当時と比べるとずいぶん楽になった。

まるでいっぱしの女友達のような口をきくようになったひなの成長が、嬉しくもあり寂しくもある。

ある程度ものを理解するようになり、言い聞かすことが出きるようになって育児は格段と楽になり、心の余裕もだいぶ出てきた。

嬉しそうに戦利品を持ってこちらにやってきたひなの手をつなぐ。2人でとりとめもないことをあれこれ話しながら、ただただ歩く。

志穂は、幸せを噛み締めた。


志穂と夫・康介との関係はどうなっているのだろうか?


良い意味で「期待しない」夫婦関係


「おかえり。早かったね。」

昨晩の接待で随分と飲んできた康介だが、ゆっくり寝たからかすっきりした顔で、機嫌も良さそうである。

「パパ、見て。この指輪と、ネックレスとか買ってもらったんだよ。」

ひなは帰宅するなり父親に駆け寄って行き、戦利品を見せびらかしている。

「夕飯はどうする?久々に『Mr.FARMER』に行こうか?」




ゆっくりと休めたからか、康介は自分からレストランの提案をしてくれる。最近はひな連れでの外食もずいぶんと楽になったので、腰も軽いのかもしれない。

しかし、休日だからといって、志穂の家庭では必ずしも1日家族で遊びに行ったり、外食しなければならない、というルールはない。

今日のように午前中はひなと志穂だけで遊びに行き、仕事の疲れが取れない康介は休ませたりと、お互い無理のないペースを保つようにしている。

以前はどこから仕入れたのか分からない先入観で、「家族なのだから週末の休みは一緒に過ごして当然」「そうでなければ仲の良い家族とは言えない」という思い込みから逃れられなかった。

忙しく余裕のない康介を連れ、無理やりにでもひなの喜びそうなテーマパークや子供向けの施設に行くことにこだわりすぎ、結果出先で喧嘩してしまったり険悪なムードになったことも一度や二度ではない。

そしてその度に「なんで康介は休みの日くらい父親らしいことをしてくれないのだろう」という不満に心を支配されてしまっていた。

だが志穂は、娘のために、と思っていた意気込みは実は自分の為だったことや、家族が常に一緒に行動していなくても、家族みんなが心に余裕を持ち機嫌が良いのが一番だ、と悟った。

お互いが常に自分や相手の心に余裕を持たせることを意識し始めてから、康介との関係は飛躍的に改善した。

幼稚園の年長になり、生意気なことばかり言うようになったひなからは、ハッとさせられることも多い。

”なんとなく気が合いそうだから”と赤ちゃん時代に作ったママ友グループに流されて受験をすることはなかったが、志穂なりに選んだ近所の私立幼稚園に無事に合格し、新しいママ友も沢山できた。

家庭も園生活も充実し、平穏な日々を過ごせることに志穂は感謝の気持ちすら感じていたのである。


平穏な家庭生活に発覚した出来事


地に足のついた仕事


ー月曜日ー

朝の日差しは、冬場でも厳しい。34歳になる志穂は、日焼け止めを塗ってもなお紫外線を恐れ両手で顔を隠した。

今日は園の後、すぐに出勤する日である。ひなを預けた後、志穂は職場に急いだ。

結局娘の幼稚園への入園が落ち着くまでは一旦家にとどまることにした志穂だが、園生活が落ち着き、ひなも体調を崩すことが少なくなってからは幼稚園の延長保育を利用し、再度仕事に復帰することになったのだ。

「え〜、今日もママお仕事なの。やだー。」

以前は働くことに対しての障害は外野だったが、今は大きくなったひな本人である。可愛らしく口を尖らせながら文句を言うこともある。




だが、以前ほど強い罪悪感に駆られることもなくなった。

週に2日、それに月の何日かは週末に出勤しているが、自分がひなにきちんと愛情を持って育てているという「自信」のようなものができたのも、関係しているのかもしれない。

職場は以前のような派手さやスピード感は無いが、昔から地元に根付いている、おじさんばかりの会社だ。

仕事も雑用から無茶振りまで幅広い。だが、地味でも必要とされているという実感を得られることができ、家庭との両立もバランス良く保てる。そういった意味では、理想の職場かもしれない。

「志穂ちゃん、お昼行っていいよ。」

ランチも、それぞれが好きな時間に交代で行くことになっているため、気楽なものだ。

だが志穂は、最近めっきり食欲がない。体調も優れず、気分のムラも自覚していた。

「もしかして…。」

以前の妊娠からは、もう7年以上も経っているが、この感覚には覚えがある。

忙しい毎日で意識はなかったが、確か生理も遅れていたかもしれない。志穂の頭の中に「もしかしたら」という期待がよぎる。

帰宅後、市販の検査薬を使った志穂はくっきりとした”陽性”の線を確認した。

2人目については、周囲から幾度となく急かされ焦っていたものの、康介との話し合いで「お互いの欲しいタイミングが合えば」という結論に落ち着いていた。

ひなも5歳になり、確かにいろいろなことに余裕を感じ始めていたが、いざこうして妊娠の事実が確信に近くなってみると、志穂は急に不安になる。妊娠・出産の苦労、産後クライシスの記憶も蘇ってきた。

ー私、ちゃんと出来るのかな。

不安な気持ちに駆られていると、ふとひなに声をかけられる。

「ママ、何してるのー?大丈夫?」

そうだ、と志穂は思い直す。自分たちは、もう一通りのことを経験してきた。今はひなもいる。康介とも分かり合えるようになってきたではないか。

きっと、今の自分たちならやっていけるだろう。

「ひなちゃん、ありがとう。ママは大丈夫よ。」

志穂は、不思議そうな顔をして自分を見上げるひなを抱きしめる。

初めての結婚で浮かれ、勢いで寿退社をしてしまった自分。子連れでの再就職の難しさや専業主婦の大変さを思い知り、なぜ退社前にもっと色々と考えなかったのかと後悔したのも一度や二度ではない。

だが、周囲とぶつかりながら得た経験は、決して無駄ではなかったと思う。

失くしてしまったものは多いが、手に入れたものだって沢山ある。

志穂は穏やかな気持ちで、自分のお腹をいつまでもさすっていた。

Fin