東京を生きる女たちは、もう気がついている。

「素敵な男の隣には、既に女がいる」という事実に。

自分が好きになるくらいの男を、他の目ざとい女たちが見過ごすはずがないのだ。

旅メディアで働く彩花(26歳)は、取材先のスリランカで知り合った商社マン・洋平(30歳)と運命的な出会いを果たす。

しかし彩花は彼の言動から、敏感に女の存在を感じ取っていた。

-そう、洋平には、付き合って2年になる彼女・繭子(29歳)がいるのだ。




繭子side-29歳の憂鬱


「味付けは、粒子の大きい砂糖から。次にみりん、塩分は味見しながら、最後に少しずつ足していきます」

無条件に心が和らぐ、優しい出汁の香り。

その間を漂うようにして、講師の女性の声が滑らかに届く。

隣で優奈(ゆうな)が「ああ、いい香り」と微笑むのに頷きながら、私は手元に配られた“冬瓜と鶏肉の煮物”レシピの隙間に急いでメモを走らせた。

大手不動産会社の秘書部で働く私は、同僚の優奈と、10月からここ神楽坂『一二三庵』の日本料理教室に通っている。

二つ星を獲得した店主が和食の基本を教えてくれるとあり、花嫁修業に最適だと、数々の雑誌で取り上げられている人気の教室だ。

とはいえ私も優奈も、結婚の予定が具体的にあるわけではない。

「繭子、洋平くんとはその後、どうなの?」

帰り道、優奈が探るような目で私を覗き込んだ。

「…うーん、なんとも言えない」

唸るように私が答えると、優奈は心配そうに、しかしどこかホッとしたような表情を浮かべて視線を逸らす。静かな路地に冷たい風が通り抜けて、それが私の心を一層、寒々とさせた。

-洋平と、30歳までに結婚する。

そう信じて、疑わなかったのに。気づけば刻一刻と、その時は迫っている。

小さくついたため息が白く浮かぶのを見つめながら、私は2年付き合ってきた彼、洋平のことを想った。


洋平の彼女、繭子がため息をついたワケ


私が求めているものは…


-半年前-

「はい、これ繭ちゃんの好きなやつ」

洋平がスリランカ出張から戻った翌日、私は仕事終わりに彼のマンションに会いに行った。

21時前に帰宅した彼がスーツケースから取り出したのは“スパ・セイロン”の石鹸。洋平は、スリランカ出張に行くたびにこれを買って帰ってくる。

「…いつもありがとう。嬉しい」

-石鹸は、もういいんだけどな…

そう言いたい気持ちをぐっと堪え、私は作り笑顔を浮かべる。

確かに私は“スパ・セイロン”の異国感ある香りが大好きだし、スリランカのお土産にバリエーションを期待してはいない。

しかし今は、石鹸などではなく他に欲しくてたまらないものが、ある。




同期の優奈とともに参加したお食事会で洋平と出会ってから、早いもので1年半が経つ。

育ちの良さを感じる、洋平の柔らかな物腰に私は一目で好意を持った。

気を惹く素ぶりをしたことは、認める。が、付き合うきっかけは、洋平からの猛プッシュだ。

彼は「繭ちゃんの、空気の読める賢いところが好きだ」と言ってくれた。…それは多分に私が、物分かりの良い女を演じていたからなのだけれど。

思うに私は当初から、自分で思う以上に彼に惚れていたのだと思う。

付き合い始めてまもなく、私はそれまで住んでいた麻布十番から、わざわざ彼の部屋にほど近い恵比寿のマンションに引っ越しまでしたのだから。

それから1年半。気づけば部屋の更新も、そして私の30歳の誕生日も、半年後に迫っている。

もう、そろそろ決断してもいい頃じゃないだろうか?

「ねぇ、洋平」

満足そうに雑炊を口に運ぶ彼に(もちろん、私が作ってあげたものだ)、意を決して声をかける。

私なりに覚悟を決めて切り出したのに、しかし心中を知る由もない彼は、まったくどうでもいい話題で私の決意を無邪気に吹き飛ばした。

「ねぇ繭ちゃん、知ってた?スリランカって最近、女子旅でも人気なんだって。先輩たちとランチしてた時に、旅メディアを運営してるっていう二人組の女の子がいてさ…」

洋平がえらく楽しげに語る話に、私は力なく「…へぇ」と相槌をうつ。

はっきり言って、スリランカが女子旅に人気だとか、私の人生には何の影響も関係もない。

そんなことより、今夜こそ結婚について具体的な話をしたかったのに、すっかり話の腰を折られてしまって、私は募る不満を隠しきれなかった。

「その子たち、旅メディアの運営なんて…夢いっぱいでご立派だけど、うまくいく保証もないのに不安じゃないのかしら」

彼の話がひと段落した隙に、私は至極全うな感想を述べた。

つい嫌みな言い方になったのは、洋平が出会ったらしい起業女のことをやけに褒めるのが、なんとなく気に障ったからだ。

とはいえ私は、別に議論したかったわけじゃない。ただ洋平に、同意して欲しかっただけ。

しかし彼が発した言葉は、私が望むものとはあまりに違っていた。

「保証、かぁ…。でも未来は先が見えないからこそ、面白いんじゃない?俺はそういうの、嫌いじゃないな。まあ、自分が起業するかどうかは別問題ではあるけど」

-未来は先が見えないから、面白い?

がっかりした私は、それ以上の会話をやめた。

面白い未来なんて、私はぜんぜん望んでいない。私はむしろできるだけ早く、目に見える安定した未来を手にしたいのだ。

洋平と結婚し、子どもを産み、平凡でも穏やかに暮らすという未来を。


30歳を目前に、すれ違うふたり。そして1ヶ月後、ある不穏な出来事が起きる


女の勘


結局、洋平に結婚の件を言い出せぬままあっという間に1ヶ月以上が過ぎていった。季節はもう真夏へと、移り変わろうとしている。

彼との関係は良くも悪くも変わらずだが、朝、出勤途中に太陽がみるみる高く昇って行く様にさえ、私は時の流れを感じずにいられない。

-他を探した方が、いいのかも…。

そんな考えが、頭をよぎる。

洋平は変わらず優しいし、私との付き合いを軽々しく考えているわけでもない、と思う。

しかし私には、30歳という節目とマンションの更新が重なる、今このタイミングが重要に思えてならなかった。

女の私と男の洋平では、そこに流れる時間は同じでも、次のステージを迎えるタイムリミットがまるで違うのだ。




思えばその日は、妙に胸騒ぎのする朝だった。

オフィスに到着しデスクに着席した私は、バッグの中で光るスマホに気がつく。画面を確認し、LINEのトークルームに洋平の名前を見つけたその瞬間、だった。

まるで第六感が警告音を鳴らすように、なんとも言えぬ違和感が私の全身を駆け巡ったのだ。

この違和感は何だろうと頭をフル回転させ、にわかにああそうか、と合点がいく。

考えてみれば洋平からの連絡は、たいてい彼の仕事終わりや夜寝る前に届くのだ。朝の、しかも出勤時間に連絡をよこすことは、滅多にないのである。

“おはよう!あのさ、繭ちゃんが旅行に行くのって、来週末だっけ?”

洋平が言っているのは、同期の優奈との弾丸旅行の話だ。寒くなる前に韓国で毛皮を買おうと盛り上がり、その話を確かに彼にもしていた。

しかしそれは来週末ではなく、再来週の週末である。

彼は勘違いをしているようだが、わざわざ朝からこんな風に確認をしてくることに、どうにも引っかかりを感じずにいられない。

“旅行は再来週だよ”と返信をしかけたものの…私は無意識に、その手を止めてしまった。そして今しがた打ったばかりの文字列を一気に削除する。

こういう時の女の勘は、恐ろしいほどに当たるのだ。

…私は心を無にし、静かに文字を打ち込んで、送信ボタンを押した。

“そう、来週末は女友達と韓国だよ♬”

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繭子の知らぬ間に、洋平と彩花が急接近していた…!?