子どもが成人して独立しても、子どもの心を折り続け支配し続ける「毒親」がいる。その親が子にかけた長く強い呪いを解く方法は、いったい何なのだろう。

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毒親・毒母とは何か? 母親もまた人生に迷い問題を抱えている

赤坂真理の小説『東京プリズン』の冒頭で、主人公マリはアメリカから日本の母親に電話をかけた15歳の自分へ、こう語りかける。「母親に相談してはいけない」。

『母親に相談してはいけない。……母親はあなたと同じかあるいはそれ以上に混乱している。その混乱を、自分一人では解けずに無意識にあなたに譲り渡した。できれば母親の混乱を、いっしょに考えてやってほしい。』

出典:『東京プリズン』 著:赤坂真理 河出書房新社刊 2012年

「どうして私をアメリカに送ったの」と母親にぶつけたマリの孤独に対し、母親はその明確な答えを持たない。もし明確に答えられたとしても、それはあらかじめ娘に向けて再生すべく用意されたものであって、母親本人も心から確信しているわけではなく、いくらでもブレる可能性を秘めている。

母親もまた、子どもをどうしてやればいいのか、どう言葉をかけ接すればいいのか迷っている。それ以前に母親もまた、人生に迷い、事情を抱え、問題を抱えている。「母親に相談してはいけない」。子どもが一番心のよりどころにしたいであろう母親が、相談できる相手じゃないなんて、なんという喪失感だろう。

母親が子どもに渡す「毒」

世の母親は誰しも、人間であるがゆえに、いや人間であるからこそ、子育ての過程でとまどい、混乱する。試行錯誤のなかで論理の一貫性を失い、方向を見失う。

よりよく育てようと思うあまり、必要以上の厳しさで子どもを「管理」するひともいるし、学校や習い事を渡り歩かせるなどして子どもを振り回し、それでも期待に沿わない子どもに苛立ち、激しい言葉で責めるひともいる。

そもそも自分がなぜ母親になったのか、というところまでさかのぼって思い悩むひともいる。結婚を後悔しているひともいる。本当はこんなはずじゃなかった、こんな私であるはずがなかった。そしてあまりにも手垢のついた、しかしそれでもよく耳にする台詞を子どもに向けて吐く。「あなたさえいなかったら」。

こうやって、決して少なくはない母親たちが、自分では解けない混乱を子どもに譲り渡す。その母親も実は自分の母親から同じような目に遭ってきたのかもしれない。脈々と世代間で受け継がれる「子育ての混乱」、あるいは「おんなの人生の混乱」は、濃縮した「毒」になる。

これを受け取った子どもは、幼くして大きな荷物を背負わされる。母親の混乱した言葉の毒、振る舞いの毒、手を替え品を替える、逃れられない「支配」の毒にやられ、その呪いにかかるのだ。

毒親殺ス

そんな「毒親」たちの、子どもが独立してからも続く支配を、「重い」「しんどい」と漏らす女性たちがいる。

学生時代には勉強に習い事、学校生活から友人関係、身につけるものや読むもの聴くもの食べるものまでをことごとく管理され、就職にも大きく関与される。異性関係や結婚生活、出産と孫育てまでも口を出し、思い通りにしようとし、どこまでもついてくる。

子どもが従順で、自分の期待に応えれば機嫌がよく、そうでなければ厳しい言葉で責め、何らかの(精神的または物理的な)ペナルティが課される。

「だって、心配なのよ。あなた◯◯だから」「あなたは◯◯できないから」。これらは言霊となって、子どもをいつまでも「できないまま」「心配なまま」に縛り付ける。言葉の持つ呪いは恐ろしい。

「あなたはできない」と言われて心を折られ続ける日々を育った子どもは、親の言葉を疑わず、自分には母親の手助けが必要なのだと信じる。「支配-被支配」構図のできあがりだ。

だが、子どもたちは自分が親となったとき、子育てするなかで気づくのだ。「自分と親の関係は、何かおかしい」。自分の目の前に広がる、いま目にしている世界は、自分がそう教え込まれ信じてきた世界と違う姿をしている。

本来だったら思春期に徹底的に反抗して「きちんと崩壊しておくべきだった」関係。その異常性に大人になってから気づいたひとたちの驚きは、やがて苦い涙を伴う深い憎しみとなって、「老いゆえにさらにのしかかってくる」毒親たちに向けて鋭く投げつけられる。

「傷モノ」になってしまえば逃げられた

私自身には、そうやって親に心を折られ続けたような日々がない。

「あんたは大丈夫よ」と全く根拠のない自信に溢れた、それはそれでイタい(であろう)育てられ方をしたので、私自身も根拠など1ミリもないが、「今はできなくても、ひょっとしていつかできるようになるかもしれないから、たぶん大丈夫」だと思っている。40を迎えようとする今になってもそんな余裕、あるいはあきらめなのか、要はイタいしおめでたいのだが、お陰でそこそこ折れずに生きている。

たとえ根拠なんかなくても、自己肯定感は生きるために本当に大切だ。「自分ってイケてる」くらいの、おめでたい勘違いでいい。日本社会は、伸びた鼻は上手にへし折り、出る杭も上手に打ち込んで「粛正」する社会だ。そんな社会ではおめでたくなくちゃ、逆に生きづらい。だからこそ、子どもが一番始めに出会う大人である親が、子どもを「折ったり打ち込んだり」するのは残酷でしかない。

思春期や反抗期は、だからそんな親子関係を崩壊させてお互いの自立をうながすために、欠いてはいけないものなのだ。「うちの子は優しいの、反抗期なんてないわ」と得々と語る毒親の背中からは、警報がわんわん鳴っているのが見える。

その頃までに親の期待なんかに添うのを放棄して、「はぁ? うるせーよババァ。子どもの人生で自己実現しないで自分の人生を生きな」と正しいフレーズの一つも放っていれば、毒親も「こんな恐ろしい子ども、私の子じゃない」とあきらめてくれただろう。

毒親が期待するピカピカのいい子じゃなくて、だらしなくてうす汚れて口汚く、見栄えも頭も性格もよろしくない悪い子、ひとに自慢できない「傷モノ」になってしまえば、その蜘蛛の巣から逃れられたのかもしれない。

親の期待に添うことのできる「いい子」は、容姿とか知能とか大人の顔色を読む能力とか性格とか、もともとのスペックが高いから逆に可哀相だ。もともと期待もされない子どもも、まあまあつらいが、期待しかされない子どももつらい。

毒親は「賢母ごっこ」の末路

「いい子」を育てる「いいお母さん」は、日本では賢母として社会的に承認されやすい。

たとえ度を越していても、母親のヘドロのような葛藤は「頑張ってるわね」と褒められるタネとなり、精神のバランスを崩せば「頑張りすぎて可哀相に」とねぎらわれる。心を壊すことが社会的に承認されるなんて、おかしな話だ。

そんな「社会という強大な味方を背後につけた、狂った母親」を相手に、子どもたちが翻弄され、折られ続けた日々に思いを馳せると、みんなよく生きてきたなと思う。子どもは自分の母親以外を知らない。比較することができないから、それが当たり前だと受け入れて信じる。折られ続ける日々もまた、それが当たり前だと受け入れてしまうのだ。

だから、子どもたちには「生きろ」と言いたい。生きるためには「正しい反抗」が必要なのだ。そして毒親にも言う。「あんたはあんたの人生を生きなさいよ」。

子どもを育てるって、いのちを育てるってことだ。誰にとっても簡単なことでなんかあるワケがない。でも、「育った」ことをなにで確認できるのかと言えば、親の方なんか振り向かずに自分で歩いて、自分でどうにか食物摂取して、親の視界のはるか外で、ちゃんと死なずに生きてるかどうかってことだ。

親の庇護の傘から出た時、子どもは自分で考え、判断し、動くしかない。その時に備えて親が何を子どもに託して送り出してやれるか、最大の武器って何だろう。それは、「心配して先回りして準備しておいた諸々」じゃなくて、「自己肯定感」=「自分は大丈夫、やれる、の気持ち」だけである。

親は一緒にいじめっ子と闘ってやれない。一緒に試合には出られないし、一緒に試験を受けてやれない。一緒にあの子に告白できないし、一緒に通勤して上司に言い返してもやれない。だから親は「私がいなくても、あんたはもう大丈夫」という思い「だけ」を子どもに託して、互いに自立するのじゃないか。

「子育て最終決戦」て、何? 誰と闘ってるの?

子どもの就職セミナーに、親が参加するそうだ。就職は子育ての最終評価が決まる「子育て最終決戦」なので、手が抜けないのだそうだ。

素敵で優しいおばあちゃんも、孫の受験になると豹変するのだそうだ。自分の子どもの時に成功したから、失敗したから、アドバイスしたくて仕方ないのだそうだ。子どものため、孫のため、と入れあげる姿を、傍で見る誰もが本当はこう思っている。「子どものためじゃない、自分のためでしょう」。いったい、子どもの人生を吸い尽くした自己実現はいつまで続くのだろう。

「毒親」に傷つき、抑圧され、自分を責めるひとたちがいる。「毒親」に直接届かない呪いの声を、ブログやSNSでつづるひとたちがいる。そんな親子関係を断とう。さっさと供養して見送ってしまおう。「傷モノ」に、「悪い子」になるのだ。そして、自分があの「支配する側」になってしまわないよう、警戒する目を持って歩いていこう。支配の構図から抜け出て、生きるのだ。
(文:河崎 環)