―大好きな吾郎くんが、私と結婚してくれたー

数々の苦難の末に、結婚願望のない男・吾郎との結婚に辿りついた英里。

結婚はゴールでないことなど、百も承知。

しかし、そんな二人を待ち受けていたのは、予想を上回る過酷な現実であった。

愛し合っていたはずの夫婦は、どのようにすれ違い、溝ができてしまったのか。

男女の価値感のズレ、見解の相違、そして、家庭外での誘惑...。

“新婚クライシス”を、二人は乗りこえることができるのか?




―結婚も、意外に悪くないな。

英里の作った朝食をとりながら、吾郎はしばしば、これまで結婚に否定的だったことを反省する。

出汁の効いた味噌汁と玉子焼きに、炊き立ての白飯、そして、干物なんかの一品おかず。

「朝は残り物とか、簡単なモノばかりだけど...」

英里は照れ笑いで謙遜するが、一般職とはいえ総合商社に勤めながら、こうして朝食を用意してくれるのは感心する。

旅館の朝食のようだと言えば褒めすぎだろうが、吾郎は毎朝健康的な食事が出されることに細やかな幸せを感じ、妻に深く感謝していた。

―まぁ、この俺が結婚を決めたんだから、当然といえば当然か...。

吾郎好みのタヌキ顔の英里は、相変わらず毎日可愛らしい笑顔を浮かべ、幸せそうである。何よりも、彼女は結婚後も吾郎の考えを尊重してくれる、一番の理解者であった。

その辺にたむろしている、単に結婚目当てのOLたちとは月とスッポンほどの差があるだろう。

“家庭”という安心感・幸せの意味を、行動をもって吾郎に教えてくれた英里。

妻への愛が日々深まっていくのを、吾郎はひしひしと実感せずにはいられなかった。


一方で、妻の英里も当然幸せを噛みしめている。はず...?


まるで正反対の、妻の見解


スマホの目覚まし音が、英里の耳に重たく響く。

―もう6時...起きなきゃ...。

昨晩眠りについたのは、深夜1時過ぎだった。低血圧の英里は、基本的に早起きが苦手だ。それに、できれば6時間くらいの睡眠時間は確保したい。

―...今日は、寝ちゃおうかな...。

9時の出社時間までに会社に到着するだけであれば、あと1時間半は眠れる。

しかし、睡魔の誘惑に揺れる英里を、拷問のようなスヌーズ音が襲う。眠りと現実の間で戦いながら薄目を開けると、ベッドの夫のスペースはすでに空になっていた。

英里は溜め息をつき、目覚ましを止める。

―いや...もう起きて、朝ごはんくらい作らないと...。

夫の吾郎の朝は、異常なほど早い。

平日休日にかかわらず、だいたいは朝5時、遅くとも6時には起床する。そして読書をして、マンションに併設されたジムへ行き、ひと泳ぎしてから英里の作った朝食をとり、仕事へ行く。

結婚前から、吾郎がやたらとストイックな生活を送っているのは分かっていた。

だがそれにしても、“エリート”という人種は、もともとの身体の作りからして凡人とは違うのではないかと思うほど、彼の一日のタイムテーブルは尋常でないほどストイックだ。

吾郎は大手弁護士事務所の企業弁護士として多忙を極めているが、疲れた顔など、ほとんど見たことがない。

もともとショートスリーパー体質なのか、彼は基本的に3、4時間程度の睡眠しか必要とせず、集中力や行動力にしても、英里の2倍...いや、ひょっとすると5倍以上高いかもしれない。

朝の数時間だけで、吾郎は英里のおよそ半日分以上のタスクを済ませているのだ。




結婚して、はやくも半年。

夫は、独身の頃と何一つ変わらない生活スタイルを貫いている。

朝は一人早起きして時間を有効活用し、夜は仕事や会食、友人との食事も、好きに予定を入れていた。

入籍後、二人は新居を探すことをせず、英里は吾郎がもともと住んでいた部屋に引っ越した。

六本木一丁目の約70平米1LDKのタワーマンションは、夫婦二人きりの生活にもちろん支障はない。むしろ、コンシェルジュとジム付きの贅沢な物件である。

ただ、トイレと洗面台が一緒という海外風の作りには未だに慣れず、クローゼットが小さいため、英里は多くの持ち物を引っ越し時に処分した。

そして、二人は結婚式もせず、ハネムーンにも行かず、ただ半同棲が同棲になり、戸籍上の苗字が変わったのだった。

結婚指輪を嫌う吾郎は、傍から見れば既婚とも気づかれないだろう。

―別に、文句なんかない。変なこと考えたらダメよ...。結婚したくなかった吾郎くんが、私と結婚してくれたんだから...。

英里はしばしば、そう自分に言い聞かせることがある。

凡人の倍速で生活する吾郎を見ていると、何となく引け目を感じ、自分が妻ではなく、まるで居候にでもなったような気持ちになるからだ。

だからせめて、家事を一生懸命にこなすくらいしか、自分の存在意義はないのだ。

そして何より、自分たちが夫婦として不完全に感じてしまうことから、英里は必死で目を逸らしていた。


英里の新婚生活のモヤモヤに、さらに拍車がかかる出来事とは...?


また、私だけ置いてけぼり?


「わぁ、可愛い〜!!」

休日の昼下がり。

英里は友人の咲子と、萌の自宅にお邪魔することになった。

咲子は玄関に入るなり、萌の腕に抱かれた赤ん坊の可愛らしい姿に歓声をあげる。萌は、つい先日母親になったばかりだ。

よって、最近三人はもっぱら萌が暮らす広尾のヴィンテージマンションに集合している。

「散らかっててごめんね。旦那は出かけてるから、ゆっくりして」

部屋着に薄化粧で小さな娘を抱く萌は、すっかりママの表情をしている。といっても、すっきりとした美人顔はそのままで、母性が加わったぶん、女性としてさらに魅力を増した。

萌が言うほど部屋は散らかってはいなかったが、そこはおもちゃやベビー用品で溢れていた。加えて、家中のあちこちに飾られた多くの家族写真を、英里はついついじっと眺めてしまう。

結納、結婚式、ハネムーン、マタニティフォト、そして、新生児を囲む夫婦の写真。

吾郎の無機質なタワーマンションの部屋とは180度異なり、萌の家は、温かい生活感と家族愛が滲み出ていた。




―普通の夫婦は、こうやって思い出と記念写真が増えていくんだわ...。

比べてはいけないと思いつつも、英里にはどうしても、胸が軋むような苦い感情が湧いてしまう。

「英里は結局、結婚式はしないの?」

そんな英里の心境など露知らず、親友二人は笑顔で問う。

「うーん...吾郎くん、やっぱり結婚式には否定的だから......」

「そんなの、一生に一度のことなんだから、少しくらい我儘聞いてもらった方がいいわよ!吾郎先生だって、もう英里の旦那さんなんだから。いつまでも遠慮してちゃダメよ」

咲子の意見に、萌がうんうんと強く頷いている。

独身時代、英里は結婚願望のない吾郎と結婚するため、さんざん試行錯誤を繰り返した。咲子と萌はその間ずっと、愚痴や相談に根気強く親身に付き合ってくれていた。

二人の支えや協力なしには、結婚はできなかったと言っても過言ではない。

そんな彼女たちに、またしても新婚生活に悩みを抱えているなんて、どうして言えるだろうか。

あれだけ周囲を振り回して結婚に踏み切ったのだから、英里と吾郎はハッピーエンドでなければならないのだ。

「ところでね...」

手土産に持参した千疋屋のフルーツゼリーを片手に、咲子がニコニコ微笑んだ。

「私...妊娠したの。三ヶ月だって、つい先週判明したの」

ーうそ?!うそ?!きゃー、おめでとう!!...

萌が歓喜の声を挙げるのが、少し遠くに聞こえた。

―また、私だけ置いてけぼり...?

結婚は、ゴールではない。

英里はこの瞬間、頭では分かっていたはずの事実を、嫌というほど痛感した。

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吾郎と英里の“ズレ”が、徐々に明るみになっていく...?