Vプレミアリーグ男子で、全日本の元キャプテン・清水邦広(パナソニック)が気を吐いている。開幕から5試合を終えた時点で、アタック決定率や総得点のランキングでベスト5に入るなど、4勝1敗でリーグ2位につけるチームをけん引している。

 清水は今年度、全日本のメンバーに登録されながら、国際大会に出場することができなかった。その原因となったのは、医師から「選手生命に関わる」と宣告されたケガ。そこからの完全復活を期す清水に、外から見た全日本の戦い、今季のVリーグにかける想い、そして2020年の東京五輪について語ってもらった。


ケガを乗り越え、Vリーグで復活の兆しを見せる清水

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――Vリーグで好調を維持していますが、昨年12月に骨折した右足首の状態は?

「今は大丈夫ですが、再発の可能性はゼロではありません。今後も現役を続けていく限りは、この足首と一緒にやっていかなければならないので、リスクを減らすことを常に意識しています。食事では栄養のバランスを今までよりも考えるようになりましたし、カルシウムを摂るためにサプリメントも活用しています。体のケアも、以前は練習後のアイシング程度だったのが、少しでも違和感がある部位は念入りにケアをするようになりました」

――清水選手は、これまでもケガが多かった印象がありますが。

「そうですね。中学生のときの網膜剥離が始まりで、肉離れは何回もやっています。右足首については、大学1年のときに靭帯断裂、リオオリンピックの数カ月前に腓骨筋腱脱臼、そして、昨年の舟状骨骨折。大きなケガをちょいちょいしているので、『今回も1カ月2カ月くらいで治るかな』と自分では思っていたんですが……。いつ復帰できるか、病院の先生もわからなかったんです」

――昨シーズンのファイナル6前日に行なわれた会見では、報道陣から質問が集中し、”選手生命”についても話をしていましたね。

「右足首を骨折した直後の天皇杯前に、主治医の先生に『出たい』という希望を伝えたんです。いつもだったら、先生は無理を聞いてくれる方なんですよ。どこかを傷めても、『処置しながらだったら、出てもいいよ』と、選手の意思を尊重してくれるんですが、『今回は本当に選手生命に関わるから、出場はやめたほうがいい』と止められました。

 右足首は何回もケガしていて手術も2回しているので、『メスを入れたら治るかどうかも、はっきりとは言えない』とまで言われました。なので、手術をせずにリハビリで状態を上げていく方法を取りました。いつ復帰できるかわからないなかでリハビリを続けるのは、相当きつかったです」

――結局、清水さんが出場できず、チームが1勝4敗で終わったファイナル6をどう見ていましたか。

「もちろん悔しさはありましたけど、当時はどうやってケガを治すかで頭がいっぱいでした。2週間に1度、レントゲンやCT、MRIを撮っていたのですが、ほとんど変わらなかったり、逆に悪化していたりしたので……。自分のことで精一杯でしたね」

――それでも、リーグ終了後の5月に行なわれた黒鷲旗(くろわしき)大会には出場し、復活したようにも見えましたが。

「そのときも100%ではありませんでした。ただ、CTやMRIで白く映るケガは薄くなってきていて、主治医の先生が『もし違和感が出たりしたら、試合中でもすぐやめる』という条件つきで出場をOKしてくれたんです。練習では、ジャンプの本数を制限して、20本、50本と少しずつ増やしながら準備を進めていきました」

――不安を抱えながら、決勝までプレーを続けましたね。元JTサンダーズの越川優選手のラストゲームにもなったその決勝は、特に素晴らしい試合になりました。

「ずっと前から、僕は『見ている人たちに、何かを伝えられるような試合をしよう』と心がけています。決勝は、両チームとも気持ちが前面に出ていました。最後に勝てなかった悔しさはありますが、その試合を見ていたファンには何かを感じ取ってもらえたんじゃないかと思います」

――その後の全日本でも活躍が期待されていましたが……。

「正直、黒鷲旗のときのように制限をかければ、ケガを悪化させずに全日本でも戦えたかもしれません。でも、それは怖かった。日の丸を背負うと無理をしてしまったかもしれないし、そうなったら選手生命に関わりますからね。それで後悔するなら、しっかりリハビリをして復帰しようと思ったんです。

 振り返れば、初めて全日本に選出されてから今まで、全日本やリーグの試合に出続けていたので、体づくりやリハビリのための時間がほとんどありませんでした。そのツケで、肩、足首、膝など、いろんなところに痛みを抱えていた。だから、全日本から離れている間にどれだけ回復できるかを、周りのトレーナーやスタッフに相談しながらやってきました」

――リハビリの過程ではビーチバレーもされたようですが。

「足首の強化と体づくりを重点的にやっていたんですが、足首に負担をかけないよう3カ月ほどスパイクを打つのをやめたら、感覚が鈍ってしまって。昨年12月から4月までまったく打てなかったことも影響していたでしょうね。それが、足元が砂なら負担が和らぐということで、先生からも『ビーチバレーだったらスパイクを打っていい』と許可が出たんです。リハビリやトレーニングと並行してビーチバレーをやっていくなかで、純粋に『バレーを楽しむ』という感覚も取り戻すことができました。『ああ、バレーボールって楽しいな』って」


photo by Nakanishi Mikari

――その間に行なわれた全日本の試合、特にグラチャンについての印象は?

「いいバレーはできていました。深津(英臣)がキャプテンになって、若手をまとめられていたと思います。僕と同じポジションでプレーした大竹(壱青)と出耒田(敬)も、それぞれの特色を出して頑張っていましたね。グラチャンは苦しい戦いになりましたが、それまで当たっていた相手とは違う、世界トップの強豪国が揃っていましたから。そこで世界との差を体で感じたでしょうし、いい経験ができたんじゃないかと思います」

――ワールドリーグやアジア選手権で好成績を収めながら、グラチャンで全敗したことで厳しい声を上げるファンも多かったと思いますが。

「勝利と育成を両立させるのは難しいですけど、それが日本の代表の宿命です。全日本に選ばれたからには、どんなことを言われても受け止めて、結果を残していくことが必要だと思っています。全敗したことについては、どんな理由を述べても言い訳にしかなりませんから。

 男子は昨年のリオオリンピックも行けませんでしたし、このままでは『男子バレーは弱いね』と言われ続けてしまう。しっかりと結果を受け止めて、みんなが強くなるために模索していかなければいけない。世界に通用するところは絶対にあります。コートの6人、登録される14人がひとつになって戦っていけば、突破口は見つけられるはずです」

――リオオリンピック後のインタビューでは、その先、特にみんなが気にしていた東京五輪について言及することはありませんでしたね。

「そのときは引退を考えていましたから。ロンドンに続いてリオの出場権も逃し、責任を感じていたんです。そろそろ潮時かなと。それからいろいろ考えて、『やっぱり頑張ろう』となったときにケガをしてしまった。決意をした矢先でしたから、かなり精神的に苦しかったです」

――それでも、今季のVリーグ2週目の会見では、はっきりと「東京五輪を目指します」と宣言しました。そう思えるようになった理由は?

「『このままじゃ終われない』という想いですね。全敗で終わった北京オリンピックに出場した選手は、もう数えるほどしかいません。そのひとりである僕が最後の最後まで世界と戦おうとすることが、次の世代にもつながるんじゃないかと。まだまだ僕が男子バレー界を引っ張っていかなくちゃいけないと自分を奮い立たせたんです。そのために、まずはリーグで結果を残して、全日本にまた選んでもらわなくちゃいけません」

――今季は、谷村孝(※)さんに捧げるシーズンでもありますね。
※入社してから2016年に引退するまでパナソニックで共にプレー。今季のリーグが開幕する直前の9月に、心室細動による急性循環不全により35歳の若さで急逝した。

「谷村さんは偉大な先輩でした。チームメイトは、家族より長く一緒の時間を過ごす仲間。訃報を聞いたときは信じられず、パナソニックのメンバー全員が悲しみを抱えています。でも、一番つらいのはご家族の方です。僕たちが勝利を届けることで、ご家族を少しでも勇気づけたい。それを、天国の孝さんも喜んでくれると思います。孝さんのためにも、今季は必ずこのチームで優勝します。

 チームの優勝に、自分の全日本への復帰がつながればいいなと思います。現役を続けている間は、オリンピックが最大の目標であり夢でもある。すでに30歳を超えてベテランの域に入っていきますが、日本のトップ選手であり続けたい。そして東京オリンピックに出て、今度は勝ちたいです!」

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