出費かさむわぁ…。江戸時代の参勤交代はどんなものだったの?藩士にとっては単身赴任?

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領地と江戸を行ったり来たり

大都市・江戸では人の出入りも多く、地方の武士も江戸で一定期間生活することがありました。これが、諸大名が隔年で領地と江戸を往復する参勤交代制度です。

三大将軍の徳川家光によって参勤交代が制度化されたことで、藩主は毎年三月頃に江戸にのぼり、一年間江戸で暮らしました。そして翌年三月には国元に帰り、領内の政治を行うのが常だったのです。江戸に上るのは藩主だけでなく、藩士もともに上京していました。江戸幕府が成立して間もない頃は江戸の社会的基盤ができていなかったため、参勤してきた藩主は将軍に挨拶したら、各々の藩へとんぼ帰りしていました。

後に、江戸に出てきた藩主のために屋敷地を建築し、住まわせます。大名は、江戸と地方とを1年おきに往来し、江戸の屋敷地では正室と子どもが暮らしており、国元の居城には側室を置いていました。

出費がかさむ参勤交代

参勤交代には、藩財政の5〜10%もの経費がかかっていたとのこと。参勤交代精度には、こうやって藩にお金を使わせることで経済力を奪うためというねらいがあった、という説もあります。確かに、地方から、賑やかに栄えた江戸に出てきたら、見るもの食べるものすべてが新鮮に感じて、ついついお金を使ってしまいそうですね。

例えば、八ツ時(午後2時頃)に仕事が終わったら、浄瑠璃を観にいったりして楽しんでいたようです。他にも美味しい肴を食べに出かけたり買い物したりと、門限がある中でもめいめいが江戸での暮らしを謳歌していました。

買い物は、国元への土産もあるから結構な量だったことが想像できます。あれを買ってきてこれも買ってきてと、リクエストが多かったのかもしれません。

将軍との結びつきはしっかりと

そして、大名が国元に帰るときは勝手に帰ってはいけませんでした。大名が国元へ帰るには、まず老中の指示を受けてから、将軍に「休息するように」と声をかけられてから交代の途についたのです。

帰りの道中にも、将軍へ暇を与えてくださったことへの御礼状を出し、国元に無事到着したらその旨を報告しなければなりません。さらに季節ごとに国元の名物・名産品を献上するなど、参勤交代が終われば「はいさようなら」ではないのですね。

「旧諸侯上野初御仏参之」豊原周延

このような参勤交代という制度により、将軍と大名は強く結びついていました。正確にいうと、「大名は将軍に服従していますよ」ということを表していたのです。したがって、参勤交代をしないという選択肢はあり得ないもので、もし拒否したら、幕府に反逆しているとみなされたそう。きっと、参勤交代の命令には従順に従い、江戸の暮らしをできる限り満喫するのが、賢い選択だったのでしょう。

参考文献:「江戸に学ぶ日本のかたち」山本博文