気鋭の社会学者が見た ニューヨークの最底辺とセレブの意外な共通点と超えられない壁 [橘玲の世界投資見聞録]

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 スディール・ヴェンカテッシュはインドで生まれ、カリフォルニアで育ち、シカゴ大学で社会学を学んでいた。文化人類学や社会学にはエスノグラフィーという分野があり、文明と接触した経験のない伝統的社会(かつては「未開社会」と呼ばれた)や、先進国のなかのマイノリティー集団などと長期間行動をともにし、フィールドワークによって独特の文化や行動様式の解明を目指す。スディールのやりたかったのは、このエスノグラフィーの手法を使って、「アメリカで貧しい黒人として生きていくのはどういう経験か」を調べることだった。

 スディールはシカゴ大学の近くに、学生たちが「ぜったいに足を踏み入れてはならない」と指導されている団地があることを知る。そこで、社会学の調査票をもってその団地を訪ねることにした。

 ――ということではじまるのが『ヤバイ社会学』で、日本でも話題になったから知っているひとも多いだろうが、そのさわりだけ紹介しよう。

アフリカ系アメリカ人と”ニガー”は別の集団

 スディールが調査に赴いたのはシカゴでもっとも貧しく、失業率も生活保護率も犯罪発生率も高く、通りを歩くひとの姿はなく、建物より空き地のほうが多い地区の団地だった。

 そんなところをよそ者がうろうろしていれば当然だが、スディールはたちまちギャングスター気取りの若者たちに取り囲まれ、銃やナイフで脅される。彼らはいま、メキシカンギャングと抗争中だったのだ。

 窮地に陥ったところに、彼らのボスが現われる。JTと呼ばれるその男は、年齢はスディールと同じくらいかすこし上で、「キラリと光る金歯が何本か、耳には大きなダイヤモンドのイヤリング、奥のほうから空っぽの目がぼくをじっと見つめているけれど、こちらにはなにも読み取らせてくれない」。

 JTはクリップボードにはさまれた質問票に興味をもち、「なんだ、それは?」と訊く。スディールは、「全国的に有名な貧困問題の専門家が指揮している調査で、若い黒人の生活を理解して、よりよい公共政策を立案するのが目的なんです」と説明する。このあとのやりとりはこんなふうにつづく。

「貧しい黒人であることについてどう感じていますか?」スディールが質問を読み上げる。「とても悪い、いくらか悪い、よくも悪くもない、いくらかよい、とてもよい」
「オレは黒人(Black)じゃねえよ」JTはニヤニヤしながらまわりを見回す。
「なるほど、それでは、貧しいアフリカ系アメリカ人(African American)であることについてどう感じていますか」
「オレはアフリカ系アメリカ人でもねえな。おれはニガー(Nigger)だ」
 呆然とするスディールに向かって、「“ニガー”ってのはこういうところに住んでるやつらのことだ」とJTはいう。「“アフリカ系アメリカ人”ってのは郊外に住んでるやつらだな。アフリカ系アメリカ人はネクタイを締めて仕事に行く。ニガーは仕事なんかもらえない」

「ニガー」というのは黒人に対するあからさまな蔑称で、アメリカ社会では公にはぜったいに口にしてはならないとされている。PC(political correctness/政治的正しさ)にもっとも適した呼称はAfrican Americanだが、60年代の公民権運動の高揚のなかで「ブラック・パワー」や「ブラック・イズ・ビューティフル」が叫ばれるようになり、「ホワイト」と「ブラック」は社会的に認められる表現となった。だが黒人社会のなかで、African AmericanとNiggerが異なる集団として認識されているなどということは、それまでまったく知られていなかった。

 そのあとJTは「こいつ見張っとけ」といってどこかに行くと、数時間たってビールと食料品店の袋をもって戻ってきた。仲間とスディールにビールが回され、だらだらと飲み会がつづいて朝になった頃、「来たところへ帰んな」とJTはいった。「街なかを歩くときはもっと用心しろ」

 スディールがカバンとクリップボードを拾っていると、「ウロウロしてくだらない質問するのなんかやめな」と、JTは“正しい”社会学の調査方法を享受した(彼は大学で社会学を学んだことがあった)。「オレらみたいなやつらとつるんで、そいつらがなにをするとか、そういうのを知らないとダメだ。ああいう質問をしても誰も答えねえよ。街で暮らしてる若いやつらのことがちゃんとわからないとな」

 こうしてスディールはシカゴの黒人ギャングと行動をともにすることになり、最後には1日だけだがリーダーを任されることになる。そのフィールドワーク体験を書いたのが“Gang Leader for a Day(1日だけのギャングリーダー)”で、それが人気経済学者スティーヴン・レヴィットの世界的ベストセラー『ヤバい経済学』(Freakonomics)に大きく紹介されたことで広く知られるようになる。

『ヤバイ社会学』には、派手な暮らしをしているように見えてもギャングが実家に“パラサイト”しているのは稼ぎが少ないからだとか、売春婦たちはきわめて戦略的に価格や相手を決めているなど、興味深い知見がたくさん出てくる(未読の方はぜひ)。

 こうして名前を売ったスディールは、コロンビア大学に職を得てニューヨークに移ることになる。そこでの新たなフィールドワークの成果をまとめたのが『社会学者がニューヨークの地下経済に潜入してみた』だ。原題は“Floating City”で、「たゆたう街」のような意味になる。

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