日本を代表するフリーランスのイラストレーター、漫画家である寺田克也さんに聞く(写真:筆者撮影)

これまでにないジャンルに根を張って、長年自営で生活している人や組織を経営している人がいる。「会社員ではない」彼ら彼女らはどのように生計を立てているのか。自分で敷いたレールの上にあるマネタイズ方法が知りたい。特殊分野で自営を続けるライター・村田らむと古田雄介が神髄を紡ぐ連載の第15回。

寺田克也さん(53)は日本を代表するフリーランスのイラストレーター、漫画家だ。

雑誌や単行本の表紙、ゲームやアニメのキャラクターデザイン、特撮のクリーチャーデザイン、コミックと仕事は多岐にわたっており、日本国内はもちろん、海外にもファンは多い。

筆者は1度、寺田さんがライブペインティング(人前で絵を描いていくパフォーマンス)している様子を見たことがある。下絵なしのぶっつけ本番でガシガシとペンで描き進めていく。みるみる緻密に描かれた大猿王(『西遊奇伝大猿王』集英社。寺田克也さんが描く孫悟空の漫画)が完成していった。まるで魔法を見ているようで、びっくりしてしまった。筆者の周りで見ている人たちもみな感嘆のため息を漏らしていた。

なぜイラストレーター、漫画家になったのか


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そんな寺田克也さんはどのような過程を経てイラストレーター、漫画家になったのだろうか? 寺田さんの広くて武骨なスタジオにて話を聞いた。

寺田さんは1963年、岡山県玉野市に生まれた。5人家族で上に2人がいる末っ子だった。父親はサラリーマンで家もあった。裕福でもなく、貧乏でもない、ごく普通の経済状態の家庭だったという。

「あまりに普通すぎて、家庭環境に思うところが何もないんですよね」

小さい頃、絵を描いていたら、何かのはずみで親やおばさんに褒められたという。褒められたから、描き続けた。

「神童でもなんでもない。子どもらしいグチャグチャの絵ですよ。まあ普通の精神状態の人は、子どもが絵を描いてると褒めてくれるんですよ。『なに絵なんか描いてるんだい!!』なんて蹴っ飛ばす人は幸いにもいなかった。たぶん蹴っ飛ばされたら、やめてましたね(笑)」

絵はスキルの部分が大きい。丸を丸に描く、四角を四角に描く、というのは技術だからより多く手を動かした人のほうがうまくなる。

寺田さんは人よりも早く絵を描きはじめていたぶん、周りの人よりも絵画の技術のアドバンテージを持って小学校に入った。


『熊本市現代美術館開館十五周年記念で開催された『誉のくまもと展』にてライブドローイングされた作品。もちろん『一発描き』である

「当時は体が小さくて、勉強もダメで、絵のほかに優位に立てることがなかったので、より絵に傾倒しがちでした」

小学校時代は、周りに比べて絵はもちろんうまかったのだが、優越感に浸ることはなかった。それどころか、むしろ劣等感を持っていたという。

「似顔絵をめちゃくちゃ面白く描く奴がいたんですよ。そいつの絵を見るとみんな『あひゃひゃひゃ!!』って笑うんです。自分の絵はモデルに似てるんだけどつまらない。クラスメートに頼まれて描いてあげて『似てるね』って褒められてもなんにも面白くないわけです。そいつの絵が描きたいけど、もう俺には描けないんですね。すでに途方もないセンスの距離があって」

見たままに絵が描けるのは、寺田さんにとっては当たり前のこと、普通のこと、だった。それより向こうに行かないと人は喜ばないんだ、と感じた。

「こんな絵しか描けないのか」が原動力に

「『自分の絵がつまらない』という思いはいまだにあるんです。依頼されて絵を描く立場からは傲慢でしかないから人前では言わないけど『こんなのしか描けないのか……』っていつも思っている。それが描く原動力のひとつになってますね」

幼少期に早くも、絵を描いて生きていこうと思ったが、当時は具体的な職業を知らなかった。絵を描く仕事は画家だと聞いて、「だったら画家で行こう!!」と思ったが、画家のイメージもボンヤリしていた。

小学校3年生のとき、自分で『週刊少年ジャンプ』を買った。そして、初めて漫画家という存在を意識した。

石川賢(『ゲッターロボ』など)や永井豪(『デビルマン』など)が好きで、小学校高学年からは古本屋を回って過去の作品にさかのぼっていくようになった。横山光輝(『三国志』など)や白土三平(『カムイ伝』など)が大好きだった。

漫画家になろうと思ったが、漫画家になるには、

「話を作らなきゃならない」「コマを割らなければならない」「枠線も引かなければならない」

とめんどくさい作業が山積みで、できるわけないと思った。プロはいい道具や魔法を持っているからできるに違いない。自分はもっと簡単な道に行きたい。

中学生くらいになってイラストレーターという職業を知った。漫画家と違い絵を描くだけである。話を考えなくていいし、枠線も引かなくていい。

「ならばイラストレーターがいいんじゃないか?」と考えた。ただ、その頃はまだ、自分の絵のタッチも決まっていなかった。

「15歳くらいになると自意識が生まれてきて『自分の絵とは』なんて悩んでました。そんなときにメビウス(フランスの漫画家『密封されたガレージ』など)と大友克洋(『AKIRA』など)に出会ったんですよ。大ショックでした。まさにコペルニクス的転回を迎えるんです。

メビウスの絵に自分の欲しい線が見えた。自分が見えてるものが描けそうって思ったんですね。イラストと漫画って別物だったんだけど、メビウスを見たときに一緒でいいんだってわかった。

漫画家はアシスタントを使って描くものだと思っていたけれど、大友さんの短編を読んで『背景も全部1人で描いていいんだ!!』って気づきました」

デザイン科は天国?

そんな中学生のとき、家族で四国の松山のいとこの家に遊びに行った。そこで、いとこのお兄さんがデザイン科の高校の通っていると聞いた。

「え、デザイン科? 天国の別名か?」

と思った。岡山にも公立のデザイン科があると聞いて、両親に行きたい旨を伝えると、

「とりあえず普通科の高校に行って、大学で美術系に進めばいいじゃない」

と言われた。デザイン科は確かに潰しが利かない気がする。両親が言っていることは至極真っ当だった。仕方なく1度は、普通科の学校に行こうと決めた。滑り止めの高校に受かって家に帰る途中、自分の未来が走馬灯のように浮かんできた。

「普通科高校に行ったら絶対に途中で辞めてしまうな、って思ったんですよね。家に帰って親に『どうしてもデザイン科に行きたい。なんでもするから行かせてください!!』って頼み込んで。あんまりにも真剣で、目が言ってたみたいで(笑)。しょうがないわねって行かせてもらえることになりました」

念願かなって、デザイン学科に進学した。

高校生活は楽しいことばかりだった。デザイン科目の授業は半分で、もう半分は普通科の授業だったが、それでも楽しかった。

普通の学校だと、逃げ場所はノートの片隅の落書きだけだけど、デザイン科はデザイン棟に行ったら絵が描ける。もちろん先生にも怒られない。まさに天国だった。高校を卒業したら、すぐに東京に行ってプロになろうと思っていた。しかし先生に止められた。

「実力的にはまだまだプロのレベルじゃない。専門学校に行ったら、先生がたはプロの現場で仕事をしている場合が多いから、仕事がどこから来て、どこに行くのか、それを見ておくのがよいのではないか?」と忠言された。その意見が腑に落ちたので親に「申し訳ないが専門学校に行かせてくれないか」とまた頼み込んだ。東京で試験がない専門学校を探したら、阿佐ヶ谷美術専門学校が見つかった。

片道2時間半、往復5時間の通学

ちょうどその頃、父親が仕事の関係で単身関東に来ていたので、父親が千葉に家を用意して親子3人で住むことになった。

千葉の田舎から専門学校に通うことになったが、片道2時間半、往復5時間も通学時間がかかった。

「1学期の間は通ってみたけど、『無理だ!!』ってなって、そこからは泊まり歩きました。同級生の家、学校の先生の家、先輩の家……って50軒超えるまでは数えてました。無自覚に厚かましかったんです(笑)」

親は最初のうちは「なんで帰ってこないの!!」と怒っていたが、「大丈夫、大丈夫」となんとなく丸め込んだ。そのうち数カ月に1回しか帰らなくなった。定期代の代わりに、月4万円の食費をもらった。

専門学校2年生のあたりから、カンプの仕事をもらい始めた。カンプとは、広告のプレゼンテーションで仕上がりがどうなるのかをわかりやすく描いたスケッチである。当時はインターネットもなく、広告業界も活気があったので、カンプ仕事はたくさんあり、それだけで食べている人もいた。学生でありながら、月に4万円稼げるようになった。

「あるとき、ハッと『家を借りられる!!』って気がついて、そのまま不動産屋に駆け込んで、東高円寺に家賃1万5000円の、ちょっと傾いた4畳半のアパートを借りました」

学校にあった廃棄予定の製図机を拝借して、友達が子どもの頃に使っていたという赤いいすをもらい、実家から布団を車で運んでもらって、遅ればせながら1人暮らしを始めた。

自分で稼げるのは4万円、親から4万円もらって8万円。なんとか生活できる額だった。

「彼女がいたこともあったけど、基本は自分のことで精いっぱいだからうまくいかないですね。絵のことしか考えてないから……考えてないフリをしてたのかな(笑)。とにかく現状、何にもなってない自分がしんどかった。稼いでるってもたった月4万円だし。それじゃあ生活できないし。このままどうするんだろうって」

その当時、寝ると決まって悪夢を見ていたという。人を殺したり、殺されたりする夢だ。目が覚めて、なんで殺しちゃったんだろうと落ち込む。

「夢判断だと人を殺す夢は現状に満足してないってことらしい。未来に何者になれていない不安が無意識にストレスになってたんです。卒業して、親から月4万円ももらわなくなって、完全に自活するようになったら、ピタッと悪夢を見なくなった。それから1度も見てないですね」

卒業するつもりもなく単位も足りなかったが、母親に泣かれ、先生に説得されてなんとか卒業はした。就職するつもりはまったくなかった。

「絵を描いて生活できないなら、何でもやろうと決めていたけど、絵を描いて少しでも収入があるなら続けようと思ってました。その頃には自分のスキルがわかっていて、客観的に見えてました。ただ、プロでいけるというのはわかってたけど、どこまでいけるかはわからない。だから高望みはしてなかった。なんなら映画の看板の絵を描く仕事だけだってやりたかったし、1万5000円の部屋に一生住んでいてもよかったんですよ」

当時は景気が上向き傾向だったので、もしフリーでダメだったら就職しようという、甘い考えも持っていたという。

初めて舞い込んできた大きな仕事

21歳のとき初めて大きな仕事が舞い込んできた。ある日、学校の4つ上の先輩である西内としおさん(『みんなのうた』のアニメーションなど)から電話がかかってきて、


ファミリーコンピュータディスクシステムのゲームソフト『探偵 神宮寺三郎 新宿中央公園殺人事件』(写真:筆者撮影)

「ファミコン知ってる?」

と聞かれた。

「知ってますよ、持ってないけど」

と答えると、ファミリーコンピュータディスクシステムのゲームソフト『探偵 神宮寺三郎 新宿中央公園殺人事件』(データイースト)のキャラクターデザインなどの仕事を振られた。タイトルどおりのハードボイルドな作品で、西内さんの絵ではかわいすぎたため、お鉢が回ってきたのだ。

キャラクターデザイン、背景の原画、取扱説明書のイラスト、タイトルのロゴまで全部やらせてもらった。当時にしてはまとまったおカネが入ってきた。

「これはいける!! 一生食えるんじゃないか?って思ったよね」

ただ当時はゲームのイラストレーターの名前が前に出ることもなく、仕事が一気に増えるようなことはなかった。データイースト社からはたまにゲームのパッケージイラストをもらったり、神宮寺三郎シリーズの続編を担当したりした。

来た仕事は基本的には断らない

営業活動はしたことがなかったが、来た仕事は基本的には断らなかった。

「すぐに美味しい仕事がドンドン入ってきて寺田克也が確立される、なんてことはないだろうと思ってましたからね。若い頃だから、言ってもそんなに仕事は来なかったし。なんとか生活はできてたからOKでした。おカネに困ったときには西内さんや雨宮さん(雨宮慶太 有限会社クラウド代表 イラストレーター)の仕事を手伝って飯奢ってもらったり、誰かにたかったり。人の好意だけで生きてきた」

比較的楽観的な寺田さんだが、それでも仕事がなくなってしまうことについてはいつも考えているという。

「フリーになってからいつも俺の横には、ホームレスの俺が立ってますね。いつもホームレスになったときのことをシミュレーションしている。あそこのお店で廃棄食品をもらって食べて、あの通路で寝て、とかね。でもやっぱりそうなるのは嫌で、だからそうならないくらいの努力はしようって考えてます」

昨今、イラストや漫画をパソコン上で描き、デジタルデータで出版社などに入稿する作家が多くいるが、寺田克也さんはデジタルで商業作品を描いた先駆者の1人といわれている。

どのようなきっかけで、デジタル作品に向かったのだろうか?

「単純に、デジタルガジェットが好きだったから、というのがいちばんの理由ですよ。ウルトラセブン大好きなSF少年だったから、机の上にモニターがあるだけでワクワクしてしまう。実は今でも興奮してます(笑)」

寺田さんが25〜26歳のころ、マッキントッシュのコンピュータで絵を描く環境が整いはじめた。母校である阿佐ヶ谷美術専門学校にもパソコンルームができることになった。たまたま同級生がパソコンルームの責任者になり、システムを構築することになった。夜中に遊びに行っていじらせてもらった。

「これは楽しいわ!! 仕事になる時代が来たらいいなあと思ったんだけど、当時はフルセットで400万円くらいしたんですよ。その頃は銀行に100万円前後くらいの額があるかないかだから当然買えない」

一日千秋の思いで値下がりするのを待ち、28歳のとき、50万円まで値下がりしたマッキントッシュ LC IIIを購入した。

当時の技術ですでに、プロの現場で使用できるなという手応えがあったが、いかんせん出版社などの受け手が対応していなかった。

初めてのデジタルデータ入稿は、『月刊アスキーコミック』(アスキー)から頼まれた、『バーチャファイター』(セガ)のイラストだった。当時のパソコンでは1枚絵では描けなかったので、分割して描き入稿した。

どんどんデジタル入稿が進み…

そこから出版業界はどんどんデジタル入稿の対応が進み、現在はアナログ原稿で入稿する人のほうが少数派になった。現在寺田さんは、ほぼiPad Proのみで作画をして入稿している。

ただ、寺田さんは「デジタルならではの作品」を作ることには興味がないという。

「俺がデジタルに求めたのは、スピード感とかなんですよね。デジタルならではのフィルターにはまったく興味がなかった。アナログ、デジタル、どちらで描いても、同じような絵が出来上がるというのが大事なんです。なるべくツールには依存しない。ガジェットなんていつ使えなくなるかわからないですからね。そんなときにはすぐにアナログに戻れなきゃいけない。あくまで自分の右手がいちばん信頼のおける道具なんです」

ガジェットと同じく、作品を発表する雑誌などの媒体に、過度の思い入れを持たないようにしているという。

「プラットフォームに愛情を抱きすぎてしまうと、生活がきつくなることがあります。描いている雑誌がなくなったり、業界がシュリンク(縮小)したりする状況はつねにあるわけなんで。結局、いちばん大事にしなければならないのは、どこに描いているかではなくて、何を描いているか、なんですよ」

最近では、個展で原画などを直接見せる機会も増えた。

「昔は個展を断ってました。印刷が好きで、刷り出しとか見ると今でも気分が高揚するから、自分の仕事はそこにあると思ってたし、足を運んでもらうほどの絵を描いていないって思いもあって。でもアメリカの知り合いに『アメリカで個展をやらないか?』と誘われて、『アメリカならいいかな?』と思ってやってみたら結構な人数が来てくれたんですよね。なら個展もやってもいいな、と思いました」

冒頭で少し書いた、ライブドローイングは当初、客寄せで始めた。下描きしないで、連作6枚を描いた。やってみたら、皆に面白いと言われた。

確かにサクサクと絵を描いていく様子は見ていてとても面白い。寺田さんは、なぜ下描きなしで描けるようになったのだろうか?

下描きなしで描けるようになったのは…


なるべく一発で書くことを意識している(写真:筆者撮影)

「普段はシャーペンで下描きを描くし、消しゴムも使いますよ。ただ、昔からなるべく一発で書こうとか意識してる。それは中1か中2の頃に、手塚治虫先生が『マンガの描き方』 (光文社)で『落書きする時はなるべく消えないもので描きましょう。そうすれば上手くなります』という解説をしていて、なるほどと思って守ってます。だからいわば手塚先生のおかげですね (笑)。ものぐさなので、下描きを描くのも、消すのも嫌で、怠惰を突き詰めたのが、一発描きなんです」

フリーランスでイラストレーターを続けるのはやはり厳しい。あきらめて業界を去る人も少なくない。

そんな人から見たら、寺田さんは実にトントン拍子にイラストレーター、漫画家として出世してきたように見えるかもしれない。

「ある意味、3歳から人生に凹凸がないんですよ。俺がラッキーなのは、自分がやりたいこととスキルと適性が全部一致していたこと。小さい頃からラッキーだと自覚していて、なんて恵まれてるんだろうと思っていた。それ以外にも、学費出してもらって、家業を継がなくていいし、右手は動くし、これは全部ラッキーじゃないかって。いろいろな人に出会えたのもラッキー。今は健康なのがラッキー。そのつどラッキーを飛び石のようにして、生きてきました」

ただトントン拍子かと言われると少し違うという。周りから見たらトントン拍子に見えるかもしれないが、中学の頃のイメージでは今頃は『神のような画力』を持ってるはずだった。

一本線を引いたら、それを見たみんなが射精してしまうくらいの画力を目指していたが、現状そうはなっていない。

「そのあたりは傲慢なんです。もちろんそれは高望みだっていうのはわかってるんです。でも目標が高いところにあると、一生飽きないなって思うわけです。小さな目標は近くでいいけど(たとえば年収を上げるとか)、大きな目標はたどり着けないほど遠くに置いたほうがいいんですよ。モノづくりの最大の敵は達成感だったりします。達成感を得たら、絵を描くのを辞めちゃうんじゃないかという恐怖がある。だから、達成感はまったく必要なくて、共感なんかもいらないんです。

ただ自分がどれだけうまくなれるか、それによって人に喜んでもらえるか。まったくそれだけしかないんですよ」

絵のいいところは、何百年も前からうまい人たちが山ほどいて、天狗(てんぐ)になりようがないというところだという。たとえばディエゴ・ベラスケス(17世紀、バロック期のスペイン画家)の絵画を見ると、どこも追いついていないと思う。

「あのくらいのうまさにちょっとでもなりたい!!というのがいちばんの原動力ですね」

とはいえ、寺田さんの絵を見て「彼は図抜けた天才だよ」という人は多い。寺田さん自身は、才能についてどう考えているのだろうか?

「才能というのがいまだによくわからなくて……。自分にもあるんだろうなあとは思うんだけど、中学の頃の下手な絵を知っているからなあ。うまくなるための時間をいろいろな人の力を借りて(たとえばメビウスとか)短縮させてもらっているから、どこからが才能なのかわからない」

ただ、母方の祖父が亡くなった後に、自分の才能の源泉を見たような気がしたという。

「92歳で爺ちゃんが死んで、そのとき初めて彼が絵を描いていたことを知ったんですよ。若い頃は描いてたけど、戦争の後は描かなくなったって。爺ちゃんが15歳のときに描いた絵を見たら、俺の線とすごく近かったんですよね。それこそ、『俺が描いたかな?』と思うくらい。山から見た港の風景を描いているスケッチだったけど、15歳にしてはめちゃくちゃうまいし、感動した。もし俺に才能があるとするなら、爺ちゃんからいくばくか来ているのかな、と思いましたね」

寺田さんの話を聞いていると、修行僧のありさまを見ているようなそんな気持ちになった。修行はとてもつらいものだけれど、反面、すばらしく面白いものだ。1人で淡々とキャンバスと戦い続ける寺田さんは、とてもカッコいい。

自分がもらったものをどう若者に返していくか

そして寺田さんは自分に厳しい反面、他人にとても優しい。40代後半くらいからは、若手を育成することに興味が湧くようになってきたという。

「俺に子どもはいないけど、子どもがいたら成人するような歳になってきてて、自然と何かを育てることに意識が行くようになってきたんだと思います。といっても、若い人らとはあまり交流してないけど。若い人にしたらオッサンがそばにいたらウザいし。オッサンはオッサンとつるんでるほうが社会のためになるわけで(笑) 。ただ、まかり間違って迷って入ってきた若い人をたたき潰すことはないわけですからね」

自分が先人にもらってきたものを、どう若者に返していくかを考える。

「端的に言えば、飯をおごったりね。いいよねご飯は!! 基本だからね。すごい表面的な行為だけど、やっぱり若くておカネがない時期に奢ってもらえるとうれしいし。俺もさんざん奢ってもらってきたから。超裕福ではないけど奢れるくらいは稼いでるし。

仕事のやり方も聞かれたら答えるけど……。まあ15歳以上の人は勝手に思ったとおりやればいいよって。「根本的には自分でやれよ!!」 っていうオーラを全開に出して接するようにしてます。考えて考えて挑んで、それでものになるかどうかギリギリの世界ですからね」