浮気を繰り返す実母が許せません(写真 : tomos / PIXTA)

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私は結婚3年目で、1歳の娘がいます。ネットで不特定多数と浮気を繰り返す実母を受け入れられず、悩んでいます。
外見はきれいで優しそうな母ですが、幼少期から母のヒステリーや暴力に振り回されて育ちました。私が中2のとき、家族共用のパソコンの履歴から、母がネット上で知り合った不特定多数の男性と浮気を繰り返していることを偶然知りました。私と妹はショックで、「やめるよう」に懇願しました。しかし母は「やめるつもりはない」と開き直り、さらには「バレずにあなたたちと仲良く暮らしていたかった」と泣きました。それまで絶対的だった母が、私の中でとても汚い存在になりました。
母はそれ以降も変わることなく、浮気も言葉の暴力も昼夜問わずそのまま続いていますが、私は母が汚らわしく、母の体に触れることを避けるようになりました。偶然接触しても、しつこいほどせっけんで洗わないと落ち着きません。自分だけではなく、大切な私の娘が、私の母に触れたらと想像するだけで恐ろしく、実家に近づくのを避けてしまいます。
孫にまったく会わせないのも気がひけて、盆正月のみ帰省しています。産後に1度だけ布越しに抱っこすることを母に許しましたが、それ以降は母が孫に触れないか監視してしまいます(暗黙の了解で、母も触らないよう努めている感じです)。私の本心は最小限の連絡で、顔も合わせず暮らしたいのですが、成長後の娘や他人の目が気になり、母とどのように付き合うべきか迷っています。
ゼラニウム

家族が傷つくことに人並みの痛みも持ち合わせていない


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“男は外に出れば、7人の敵と闘っている”とよく言われますが、女性もさまざまな敵や誘惑と闘っています。女性のこの誘惑を「浮気」に限定してみますと、誘惑に勝つか敗けるかの分かれ目の1つは、「家族の存在」だったという人を何人も知っています。倫理観とか自制心などと難しいことを考える前に、「家族が傷つくこと」を望まず、その存在自体がブレーキになるというのです。

ゼラニウム様の母上は、この誘惑に自ら近づき、やめないと居直っています。母上は家族が傷つくことに、人並みの痛みも持ち合わせていない人と考えるべきです。

母上の心が家族に向いていないのに(しかもその方向がとんでもない所)、娘が他人の目を気にして母親を母親として遇するのは無理があります。他人って、どなたとどなたですか? 気にしなくてよい“他人”だと思いましょう。

もちろん、自由な不倫、浮気を容認する風潮が出てきているのは私も知っています。人間の生き方は多様で、他人に迷惑をかけていないかぎり、特定の価値観を押し付けてはいけないとは重々理解しているつもりです。しかしそれでも、「家族が傷つくことより、個人の欲望を優先させた」という意味で、「母親扱いされる資格」を失っていると思います。

母性は育てるもの

フランスの作家であり、20世紀フェミニズム運動の象徴的存在だったシモーヌ・ド・ボーヴォワールの有名な言葉に、「人は女に生まれるのではない。女になるのだ(注:そのように育てられるのだという意味です)」という有名な言葉があります。女の子なら人形、男の子なら車のミニチュアが与えられるというふうに仕向けられるだけで、最初から女の子なら、車の玩具より人形が好きで生まれてくるわけではない、等の主旨だったと記憶しています。

私は親となった人が不倫騒ぎを起こすと、必ずこの言葉を思い出します。母・父性も、子どもの成長に合わせてそのかかわりようで(精神面でも)、強くもなり弱くもなる部分があるように思います。

たとえば最近の、不倫が取りざたされている国会議員の場合です。“一線を越えたか否か”が問題になりましたが、私は小さな子どもをもつ母親が、説明できない理由でそれほど外泊しても困らない、家族のあり方が気になりました。

普通は、仕事で遅くなっても必ず帰るという親としての愛情や心遣い、責任感が(もちろん、物理的に無理な場合を除いて)、子どもに安心感を与え、その子どもから力を得、それらの愛情の交歓で母・父性や、親子の絆が育まれ、強まっていくのだと考えます。

親としての責任感こそが、母性と親子の絆の基本だと思います。私の友人にその夫や姑に、妻として嫁として、小説顔負けの過酷な扱いをされた人がいます。今の人なら100回家出しても足りない環境でしたが、彼女をそこに引き留めたのは、熱心で丁寧な育児でした。

離婚すればバラ色に見える人生の提案がいくつもあったそうです。しかし母親がいることが当たり前の子どもを裏切り、待ったなしに続くその世話を中断することなど、命に代えてもできなかったそうです。結果としてその母親としての責任感が、ブレーキになりました。

その後の健全な子どもの成長と親子関係に彼女は満足しており、誘惑に負けなくて正解だったと述懐しています。我慢や犠牲が美徳だとは申しませんが、産んだ者の責任として、健やかに育てる努力義務があるのです。産むだけでは母性は備わらないのです。

他人の目でなく、自分の納得感を大切にしよう

人間関係にある程度の形式は、潤滑油です。しかしそれも過ぎると、茶番劇です。ゼラニウム様、隠し通せてもやって良いことと悪いことがあります。多感な子どもを前にして、不特定多数との不倫を母親が居直るということは、“母親の責任感”の観点で見れば、決して容認してはいけないことです。

母上のあなたたちへの愛情や責任感は、人並み以下だと言わざるをえません。赤ちゃんを抱っこされるのも嫌なそんな人に、盆正月だけでも会わせに行くのは、なぜですか?

ゼラニウム様、他人の目を気にし、他人の尺度でご自分の生活を制約するべきではありません。どのような生き方が納得いくものか、ご自分の内面を深く見つめて決めるべきです。母娘だからと、何が何でも許す必要はありません。心を伴わない形式的な生き方は、子どもの養育者としても感心できません。

あなたの娘を、祖母である母上に会わせないことに、何ら引け目を感じる必要はありません。ボーヴォワールではありませんが、祖母になれば皆が、孫を愛しがるとは限りません。不特定多数の人との浮気をやめないのがその証拠です。

その母上を許容するにしても絶交するにしても、他人の目ではなくあなた自身で考え、納得しないと、一貫した行動をとることもできませんよ。今の決断が、永遠の決断でなくてもいいのです。将来、時が来ればお互いの考え方も変わっているかもしれません。

他人の目を気にして無理に行動するのではなく、ご自身で考えた、今の納得感を大切にご判断ください。