ともに下部組織出身の生え抜きである柿谷(左)と杉本(右)。“転換”を象徴する選手たちが躍動した。写真:茂木あきら(サッカーダイジェスト写真部)

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 後半のアディショナルタイムにソウザのゴールが決まったとき、サポーターの歓喜が弾けた。怒号のような声が飛び交うなか、ついに試合終了のホイッスルが鳴り響く。Jリーグ参入から23シーズン目、クラブ創設から24年。セレッソ大阪が長い無冠の時代にピリオドを打った瞬間だ。
 
 最初は1995年1月1日の天皇杯決勝。前年のJFLで優勝し、Jリーグ昇格を決めた勢いを駆って元日の国立競技場に駒を進め、ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)と対戦した。結果は0-2。点差以上の完敗だったが、悲壮感はなかった。それよりもJリーグに初めて参加できる高揚感がチームに満ちていた。
 
 2000年5月27日、長居スタジアム(当時)に川崎フロンターレを迎えて行なわれたJ1第1ステージ最終節。勝てば優勝、相手は最下位ということで、試合前からすでに勝利が決まったかのような雰囲気が漂っていた。「祝勝会は、ビールかけは…」などと話し合っていたと、のちに森島寛晃は明かした。いま振り返れば、とんでもないことだと分かる。だが、当時はそんなものだった。選手だけではなく、誰もが浮き足立っていた。延長Vゴールで敗れるという悲劇的な結末は、いわば必然だったのだ。立ち上がれず、ピッチに顔をうずめ泣いていた森島の胸には、戦わずして敗れた悔しさが詰まっていた。
 
 天皇杯では、02年と04年の元日も決勝で涙を呑んだ。ともに接戦で、02年に清水エスパルスに敗れた試合は、「グッドルーザー」と評されたほどによく戦った。しかし、届かなかった。04年は、ジュビロ磐田と対戦、森島や西澤明訓、大久保嘉人らが中心となって奮闘したが一歩及ばす、敗れ去った。
 
 そして記憶に新しいのは、05年12月3日のJリーグ最終節での「V逸」。勝てば優勝が決まる、FC東京との一戦だった。森島の盟友、西澤が先制ゴールを挙げ、主導権を握ったままゲームを進める。選手たちは戦った。しかし、試合終了直前に追いつかれて痛恨のドロー。手繰り寄せていたタイトルをまたも掴み損ねた。あとワンプレーを耐え切れなかったやるせなさは、長くクラブに染みついていたように思う。
 
 記憶に新しいと書いたが、それもすでに12年前のこと。以来、チャンスは巡ってこなかった。
 
 06年にJ2に降格。翌年から3シーズンは昇格できなかった。10年にJ1に復帰し、11年と14年にはACLに出場。その間、セレッソはクラブとして大きな転換期を迎えた。J2に降格したことをきっかけに、07年から育成型クラブへの転換を図り、組織を見直したのだ。トップチームの成績に左右されることなく、クラブとして安定した環境で、世界に通用するレベルの選手を育てる──。アカデミーで育った柿谷曜一朗、山口蛍、丸橋祐介、杉本健勇らが今回のルヴァンカップ決勝のピッチに立ったことは、まさにその象徴だろう。
 
 2017年11月4日、埼玉スタジアム2002のピッチでは、ユン・ジョンファンと森島が並んでカップを掲げていた。
 
「川崎フロンターレと言えば、17年前のことを思い出します。優勝を目の前にして、逃してしまった記憶が僕には残っていますけど、17年経って、その借りを今日返すことができたと思います」。指揮官は試合後の会見でこう語った。「いままでは勝負弱い森島でしたが、選手たちが『自分たちの手で歴史を変える』と言っていました。いまの選手たちは勝負強さを持っていて、あらためてそれを見せてもらいました」と、森島は晴れ晴れとした表情で言った。
 
「あと一歩」の呪縛は解けた。ここからが始まりである。柿谷は、「ずっとセレッソは波のあるチームだと言われてきた。チームの調子がいいときほど、危機感を持たないといけない」と、常々話している。試合後も、「ひとつ優勝したからといって、なにかが変わるわけではない。続けていってこそ意味がある」と前を向いた。
 
 25周年を迎えたルヴァンカップ。記念すべき輝かしいタイトルを手にしたいまこそ、この辛口の言葉をかみしめたいと思う。
 
文:横井素子(セレッソ大阪堺レディース広報)