ユン・ジョンファン監督とともにトロフィーを掲げる森島寛晃氏【写真:Getty Images】

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ファンやサポーターの記憶に残る永遠のレジェンド

 セレッソ大阪が悲願の初タイトルを獲得した。埼玉スタジアムで川崎フロンターレと対峙した、4日のYBCルヴァンカップ決勝を2‐0で制して、通算12チーム目のカップウイナーズとして歴史に名前を刻んだ。フロントの一員として大一番を見守り、表彰式後には後輩たちの手で胴上げされた初代ミスター・セレッソ、森島寛晃氏(45)が抱いてきた思いをたどりながら、セレッソが歩んできた過去、現在、そして未来をあらためて描写する。(取材・文:藤江直人)

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 青空を見上げながら、セレッソ大阪の悲願を成就させた後輩たちの手で宙を舞う。何度も夢に見てきた至福の時間は、しかし、思い描いていた時間の半分で突然の終焉を迎えてしまった。

 クラブに初タイトルをもたらしたユン・ジョンファン監督に続いて、初代ミスター・セレッソとしていまもファンやサポーターの記憶に残る永遠のレジェンド、森島寛晃氏が胴上げされた直後だった。

「うわっ、重たってみんな言って、下に誰もいなくなった。あれはちょっと意図的だったと思います」

 両手を大きく広げながら4度舞ったユン監督とは対照的に、2度目で埼玉スタジアムのピッチに落とされる。慌てて立ちあがり、ぼう然としている森島氏の周囲に爆笑の輪が広がっていく。

 現役を退いて9年。アンバサダーをへて、今シーズンからフットボールオペレーショングループの部長としてフロント入りした森島氏が、いかに愛されているかを物語る微笑ましい光景だった。

「本当はもうちょっと宙を舞いたかったかな。ただ、ああいう歓喜の輪というものに、いままでは一度も入れなかったので。選手たちはみんないい表情をしていましたし、ファンやサポーターの方々を含めて、25周年という記念すべき年に優勝できたことを本当に嬉しく思います」

 前身のヤマザキナビスコカップ時代から数えて25周年となる節目のシーズンで誕生した、通算12チーム目となるカップ戦ウイナーズ。もっともヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)が連覇を達成した最初の2大会、1992シーズンと1993シーズンにセレッソは出場していない。

 当時は前身のヤンマーディーゼルサッカー部として、ひとつ下のカテゴリー、旧ジャパンフットボールリーグ1部を戦っていた。プロ化の波に乗り遅れ、昇格争いでもジュビロ磐田とベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)の後塵を拝した黎明期から、森島氏は「8番」を背負い続けてきた。

 静岡県の東海大学第一高校からヤンマー入りしたのが1990年。活躍の舞台をJリーグに求め、移籍していったチームメイトたちが少なくなかったなかで、1994シーズンからセレッソ大阪に改称され、翌年からはJリーグへ昇格したチームを無我夢中でけん引してきた。

2000年、いまも忘れられない瞬間

 迎えた2000シーズン。いまも忘れられない瞬間が訪れる。5月27日のファーストステージ最終節。勝てば無条件で優勝が決まる大一番で、セレッソは一敗地にまみれた。

 相手はくしくも、今シーズンのYBCルヴァンカップの頂点を争った川崎フロンターレ。延長戦にもつれ込み、伏兵のFW浦田尚希にVゴールを決められてからしばらくして、すでに勝利を収めて待機していた横浜F・マリノスが狂喜乱舞する姿がオーロラビジョンに映し出された。

 舞台となった長居スタジアム(現ヤンマースタジアム長居)には、小雨が降り続いたにもかかわらず4万人を超える大観衆が詰めかけていた。チームカラーのピンク色の雨ガッパで一色に染まったスタンドが静まり返った光景を、いまも森島氏は忘れていない。

「ピッチの上であれだけ号泣した記憶はないですね。こんなにもセレッソを応援してくれるサポーターがいるんだと、感激しながら臨んだ試合だった。だからこそ、負けたことがずっと心に残っていて」

 いま振り返れば敵地で行われたマリノスとの首位攻防戦を制し、ステージ優勝に王手をかけた5月20日を境に、心のどこかに隙が生じていた。フロンターレが最下位に低迷していたことも、油断や慢心を招く一因になった。

「戦う前からもう優勝したかのような雰囲気になって、みんなの頭のなかにどんどん勘違いが生まれていったというか。フロンターレ戦の当日も『夜はヘルメットをかぶっていこうか』と、祝勝会のビールかけに備えた話をしていたくらいですから」

 いまでこそ苦笑いしながら話せるが、当時は誰一人として「優勝」の二文字を経験したことがなかった。ゆえにキックオフの笛が鳴り響いた直後から、金縛りにあったかのような違和感に襲われる。

 そして、森島氏とともに思い描いたようにプレーできないもどかしさを覚え、最後は悔し涙を流したのが「6番」を背負い、中盤の底でパスの配球役を務めていた司令塔のユン監督だった。

 今シーズンから監督として15年ぶりに古巣へ復帰。セレッソとしての初タイトルを、しかも因縁のフロンターレと対峙した決勝を制した試合後に、44歳の指揮官は感慨深い口調でこう語っている。

「川崎と言えば、17年前のことを思い出します。目の前にあった優勝を逃してしまった記憶が僕のなかに残っていますけど、こういう結果を出すことで歴史は変わると思っています」

 翌2001シーズンは一転して年間順位で最下位となり、J2への降格を余儀なくされた。他クラブからのオファーをいっさい見ることなく森島氏は残留を決め、ユン監督も母国・韓国への復帰を1年先送りにしてJ1復帰のために全力を尽くした。

2005年、アディショナルタイムに訪れた2度目の悲劇

 2002年にはワールドカップが、日本と韓国で共同開催される。代表での活動を考えれば、リスクを伴う決断だった。果たして森島氏はトルシエジャパンのスーパーサブとして活躍し、長居スタジアムで行われたチュニジア代表とのグループリーグ最終戦では先制ゴールも決める。

 一方のユン監督はJ2でのプレーを選択したことで、韓国代表を率いていたフース・ヒディンク監督の信頼を得られず、ベスト4進出の快挙を達成したチームのなかで出場機会を得られなかった。

 約束通りに1年でのJ1復帰を果たしたセレッソの歴史の一部には、ワールドカップ日韓共催大会という舞台に関して、同じ1972年度生まれの2人の男たちの悲喜も刻まれている。

 そして、18チームによる1ステージ制に変更された2005シーズン。タイトルにはカウントされないステージ優勝ではなく、リーグ優勝をつかみ取る絶好のチャンスをセレッソは手にした。12月3日の最終節を前にして、セレッソは単独首位に浮上していた。

 再び舞台となった長居スタジアムには、5年前を上回る大観衆が詰めかけていた。しかも、FC東京を2‐1とリードしたまま、時計の針は3分間の後半アディショナルタイムへ突入しようとしていた。

 ピッチを縦横無尽に駆けまわり、後半37分にベンチへ退いてからは応援役に徹していた森島氏は、時計を見ながら「これは勝ったかな」とほんの一瞬ながら思ったという。

「試合終了のホイッスルが鳴り響くまでは、絶対に油断してはいけないと言い聞かせながらプレーしていたんですけど……同じように最後にピッチにいた選手たちにも、最後の最後になって、一瞬の隙というものが生まれてしまったのかなと……」

 FC東京が獲得した右コーナーキックからゴール前の混戦が生まれ、何とか頭でかき出したDF柳本啓成のクリアも中途半端になってしまう。すかさず反応したMF今野泰幸(現ガンバ)が、胸トラップから流れるような動きを見せて左足のシュートを放つ。

 ボールはゴール前の密集地帯をすり抜け、ゴールネットを揺らす。まだ時間は残っていたが、ピッチ上のセレッソの選手たちにも、ベンチにいた森島氏にも、自分たちを鼓舞する力はもはや残されていなかった。

「日本一、腰の低いJリーガー」と呼ばれた面影

 ライバルであるガンバに初優勝を献上したばかりか、最終節で勝利した浦和レッズ、鹿島アントラーズ、そしてジェフユナイテッド市原・(ジェフユナイテッド千葉)に勝ち点で並ばれ、得失点差で後塵を拝する5位に転落した悲劇。サッカーの神様に科された試練だと、森島氏は受け止めてきた。

「2度目のチャンスを得たのに、最後の最後で勝ち切れないということは、勝負に対する貪欲さといったものがセレッソには足りなかったのかなと。その意味ではあのまま優勝していたとしても、アントラーズのような常勝軍団になっていったのかと言えば、まだまだ早いと」

 2008シーズンをもって19年間におよんだ現役生活にピリオドを打ってからは、アンバサダーを務めながら愛してやまないセレッソの成長を見守ってきた。ヤンマー時代から一貫して背負ってきた「8番」には、喜怒哀楽のすべてを含めたクラブの歴史が凝縮されている。

 そして2017年11月4日に、香川真司(現ボルシア・ドルトムント)、清武弘嗣をへて「8番」を背負うキャプテン、柿谷曜一朗の手で、優勝カップが表彰台で誇らしげに天高く掲げられた。受け継がれる「8番」の魂を、森島氏はこう語ったことがある。

「僕が引退したときの『8番』のままだったら、おそらく何も残らなかった。その後に真司やキヨ、そして曜一朗が背負ってくれたことで価値を上げてくれた。いまではむしろ僕自身が『8番』をつけていたよかった、と思っているくらいですから」

 現役時代から「日本一、腰の低いJリーガー」と呼ばれた面影は、いまも変わらない。味わわされてきたすべての艱難辛苦を柔和な笑顔に変えてきたからこそ、魂を引き継いだ後輩たちから慕われる。

 ユン監督と一緒にカップを掲げ、ユン監督に次いで胴上げされた光景が、セレッソにおける森島氏の存在を物語っている。ゴール裏をピンク色に染めたファンやサポーターからも「モリシ、モリシ、モリシマ」のコールが鳴り響いた。歴史がようやく変わった。

ビールかけをしたい思いはあったものの「ビールは自分で飲みます!」

「いままでの『勝負弱い森島』というのが、サポーターの声援とともにようやく取れたというか。僕はグラウンドでずっと練習をながめているだけですけど、みんなから勝ちたいという思いと勝負に対するこだわり、最後まであきらめない姿勢というものを感じていました」

 盟友でもあるユン監督の厳しくも優しさ、楽しさがあふれる指導のもとで、変貌を遂げつつある今シーズンのチームにひそかに手応えを感じていた。ルヴァンカップ制覇でそれが確信に変わったいまだからこそ、感慨に浸る間もなく、セレッソに携わる一員として次なる目標を見すえている。

「来シーズンのACL出場権獲得というところで、リーグ戦でも十分に可能性がありますし、何よりも天皇杯でここ(埼玉スタジアム)に来られるチャンスがありますから。監督もミーティングで締めていたように、これで気が抜けるのではなく、さらに貪欲さを出していけるようにしないと」

 優勝の可能性こそ消滅したものの、残り3試合となったリーグ戦では3位につけている。来年元日の決勝戦が埼玉スタジアムで行われる天皇杯全日本サッカー選手権でも、ベスト4に進出しているセレッソには、立ち止まっている時間はない。

 ゆえにルヴァンカップ制覇の喜びを分かちあう、祝勝会の類はシーズン中には開催しない。シーズンオフも現時点で未定だ。3度の準優勝を経験した天皇杯を含めて、5度の“2位”を経験している森島氏は、実はプロ野球のようなビールかけをする夢を抱いていた。

 幻に終わった2000シーズンのファーストステージの続編を、望んでいるわけではない。喜びを爆発させ合うことで、さらにタイトルを獲得したいという貪欲さが芽生える。その中心で泡まみれになる自分自身の姿を、いつしか思い描いてきた。

「そういう気持ちはずっと頭のなかにありましたけど、何よりも優勝したこの瞬間を味わわないと。だから、ビールは自分で飲みます!」

 ルヴァンカップ制覇を触媒にして成長のスピードがさらに加速され、強豪クラブの仲間入りを果たすセレッソの輝く未来を確信しながら、森島氏はサッカー小僧のような天真爛漫な笑顔を弾けさせた。

(取材・文:藤江直人)

text by 藤江直人