泰平の世が続いた江戸時代。多くの娯楽出版物が流通し、「読本」と呼ばれる読み物が流行するようになりました。はじめは上方で中国の白話小説(口語体で書かれた物語)が和文に翻訳されていたのですが、文化・文政の頃ともなると江戸を中心にオリジナルの読み物が隆盛になりました。
そんな中登場したのが滝沢(曲亭)馬琴(本名滝沢興邦 1767〜1848)。江戸時代最大のヒット作家・馬琴は、1848(嘉永元年)年の旧暦のこの日、82歳で死去しました。代表作は、言わずと知られた日本文学史上最大の大長編「南総里見八犬伝」。この壮大な物語の舞台はなぜ房総半島で、そしてなぜ里見家だったのでしょうか?

千葉県館山市の館山城(館山市立博物館分館)には南総里見八犬伝に関連した資料が展示されています


あまり知られていない室町時代の関東。大変な動乱を繰りかえしていました

江戸時代の大人向けの絵本であり、漫画の元祖でもある「黄表紙」作者として出発した馬琴はやがて、史伝を下敷きにした本格的な長編読み物に取り組むようになり、平安時代の豪傑・鎮西八郎為朝を描いた「椿説弓張月」では若き葛飾北斎と組み、本格的なストーリーものの名手となりました。おりしも当時の読本から諧謔的要素が綱紀粛正により下火となり、馬琴はいよいよ、畢生の大作「南総里見八犬伝」を文化11(1814)年から開始します。28年の長きに渡り、最盛期から円熟期を費やし書き継がれた「八犬伝」は、馬琴の代表作というにとどまらず、日本文学史上の伝奇文学の代表作と言っても過言ではありません。その間に、馬琴は目の酷使がたたり73歳のときには失明し、息子・宗伯の妻であるお路に口述筆記をさせて書き継ぎ、完結させたといわれます。
初め里見氏の安房に興るや、徳誼以て衆を率ゐ、英略以て堅を摧く。二總を平呑して、之れを十世に傳へ、八州を威服して、良めて百將の冠たり。是の時に當て、勇臣八人有り。各犬を以て姓と爲す。因て之を八犬士と稱す。
の名文で始まる八犬伝の大ロマン。舞台は室町中期の関東。室町時代というと、田楽や能などの芸能や書院造の建築など、京都での文化面の発展ばかりが叙述されがちですが、その頃関東はすったもんだしていました。京都の室町幕府の出先機関として、当初鎌倉幕府の跡地である鎌倉(現・神奈川県鎌倉市)に関東東北を分国支配する「鎌倉公方(くぼう)」が置かれていました。執事の名目で実質ナンバー2の関東管領(関東執事)が幕府から遣わされ、鎌倉公方の監視役に。この構図から、室町中期には鎌倉公方と関東管領に権力争いが生じ、1455年には、鎌倉から下総国古河(現・茨城県古河市)を本拠を移し、「古河公方」と称されるようになりました。以降、関東の首府は古河に置かれることになるのですが、やがて古河公方内でも内乱が起こります。その結果小弓城(おゆみじょう・千葉県千葉市中央区)を本拠とした小弓公方が分裂、結城合戦、第一次国府台合戦が勃発。小弓公方がたについた足利清和源氏の流れを汲む里見家は、この戦いに敗れ、房総の奥地、安房地方に逃れます。実質、「戦国時代」といわれる動乱期は、実はこのとき房総地方一帯ではじまったのでした。こうして里見氏は房総の地で戦国時代を生き抜くことになるのですが、この里見氏の史伝・戦記をもとにした物語こそ、「南総里見八犬伝」なのです。

ことの発端は姫と犬との結婚!?


房=総は「扶桑」。里見の支配する房総は日本全体になぞらえられていた

「山海経」「淮南子」「史記」「宋書」など、中国の古典でたびたび言及されている東の海の彼方にある扶桑(ふそう)国。「山海経」では天をぬきんでた「扶桑樹」が生えるその国は道徳心の高い人々の住む国ともされました。日本では、江戸期に入り盛んになった国学の中で、その扶桑国とは、
「諸越(支那)の古書どもを閲するに、その国の古伝説に、東方大荒外に、扶桑国と称する神眞の霊域、君師の本国ありて(中略)採り集めて熟(つばら)に稽ふるに、その扶桑国としも謂へるは、畏きや吾が天皇命の、神ながら知し食す皇大御国の事にして」(「大扶桑国考」天保7年/1836)
と平田篤胤が記したとおり、扶桑国=日本のことであるというのが一つの定説でした。さらに、その扶桑の大木が生える地が日本のどこか、ということになると、それは房総半島である、ともされたのです。荻生徂徠は「南留別志」(なるべし・元文元年/1736年)で、「上総はかんつふさ、下総はしもつふさなり、安房もふさといふ字を用ゆ、古(いにしえ)の扶桑国なるべしとみえたり」と断じ、房総半島こそが扶桑国といわれる場所であったとしています。また風土記には下總・上總の總(ふさ)とは木の枝の意味で、かつて巨大な楠を生えていたと記しています。
それを裏付けるように下総には、匝瑳・香取・海上の三地域にまたがる巨大な椿の木があり、フツヌシとサルタヒコにより引き抜かれて巨大な椿の海が出来た、という伝説があります。
博覧強記の滝沢馬琴が知らなかったはずもなく、馬琴は太平洋に面した東の果ての日出ずる地である房総半島こそ伝説の扶桑の国であり、神仙思想が発し行き着く場所と考え、自身の作品の舞台として選んだのでした。
物語の前半部の主人公と言っていい里見家の姫君・伏姫(ふせひめ)と、愛犬八房(やつふさ)という名もまた、「ふせ」「ふさ」と、扶桑と関係しています。伏姫は、三伏の時節(盛夏の庚の日にあたり、相克の凶日)に生れたために伏姫、八房は白に八つの斑があったため八房、とそれぞれ理由は述べられているのですが、いわばダブルミーニングです。

「南総里見八犬伝」の始まりとなった富山


「関東大戦」は予言の書だった?

さて、物語は安房に拠点を築いた里見家が、隣国の仇敵・館山城主安西景連に攻められたとき、困窮した当主里見義実が、敵の首を取ってきた者には伏姫を与えると戯言をもらしたところ、八房が景連の首を取ってきたため、伏姫と八房は夫婦となる異類婚へと急展開します。
この八房、とあるいわれを聞き義実自身が興味を持ち村人からもらいうけた犬でした。鴨川の長挟郡に住む技平の飼い犬が、あるとき一匹だけ子犬を産んだ。多頭出産である犬が一頭で生れるのは大変珍しく、その犬は群を抜いて賢く勇猛であるという俗信がありました。しかもその母犬は、あるときオオカミが来てかみ殺されてしまったのだが、子犬だけはどうにか生き残った。そのあと、狸が山から下りてきて乳を与えて育てたという。実際八房は賢く勇猛であったわけですね。
伏姫と八房は富山(とやま・実際には南房総市のとみさん)に篭り夫婦となります。法華経の読経の日々を繰りかえすうち、姫は八房の気を受けて妊娠してしまいます。これを恥じた伏姫は、父・義実と許婚の金碗大輔の前で腹を割き自害。その腹から出た白気が、姫が幼少期に役小角(えんのおづぬ・修験道の祖で伝説の超能力者)から賜った108の珠からなる数珠の中の八つの大珠と感応、珠は関東全的に飛び散っていき、各地で生を受けて、かくて「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」のそれぞれの珠を持つ八犬士の誕生となります。
八人はそれぞれ関東甲信越、上方などで奇想天外な活躍の後、やがて安房の里見家の元に集い、関東管領と古河公方(作品中では滸我公方)の連合軍との関東の覇権をかけての全面戦争「関東大戦」に突入していきます。
物語では、行徳口の現在の妙見島と市川の国府台の陸戦・東京湾の洲崎沖の海戦が勃発し、いずれの戦いも里見軍の大勝利となります。この戦いは史実にあるものではないまったくの創作ですが、馬琴が日本のミニチュアに見立てた房総の地と、関東の西半分を治める関東管領、北部を押さえる滸我公方と、室町幕府の後ろ盾を得た東海道各地の豪族の連合軍は、当時清国をアヘン貿易で骨抜きにしつつあった欧米諸国に見立てられていました。関東を舞台にしたミニチュア版の世界戦争を馬琴は描いたのです。そして、東洋の文化、とりわけ精神文化を担った八犬士が、聖地である房総を敵軍から死守するさまが、その戦で描かれたのです。

伏姫と八房が籠ったとされる「伏姫籠穴」

馬琴の生きた時代、日本が古くより手本としてきた中華文明は既に異民族の清王朝で、しかもその清がアヘンを売りつけられ、欧米によってアリにたかられるように蝕まれている。欧米による世界の植民地化がはじまっていた時代です。日本にも程なくやって来るだろう欧米の脅威を思い、文化人たちは東洋の文化と精神をいかにして守るか、ということを真剣に考えていた時代でした。
実際江戸幕府は、欧米の「黒船」に備えて応戦の準備をし、韮山代官・江川太郎左衛門は観音崎と富津岬を結ぶ線を最重要防衛ラインととらえ、江戸湾各所に台場砲台を設けることを提案しています。
それが実現したのは実際には明治維新以降の日清戦争当時ですが、その際に真っ先に建設されたのも富津岬の根元の砲台(富津元洲堡塁砲台)と、富津岬沖の第一海堡(だいいちかいほう)でした。房総半島は、日本を外敵から守る盾として位置づけられ、それは八犬伝の物語世界と現実とがリンクしていたことの証拠です。
関東大戦も、やがて時代が下り日本が突き進むことになる太平洋戦争という無謀な戦争を予言した(もっとも物語では主人公側である里見軍=扶桑国日本が勝つわけですが)ともいえるかもしれません。八犬士と、太平洋戦争のスローガン八紘一宇が八という数字でつながっていることも、因縁めいたものがあります。

富津岬から東京湾をのぞむ