その金融商品は本当に顧客本位のものなのか


 異色の官僚ともいわれる森信親長官の就任以降、金融庁は投資信託の販売手法や地銀の経営姿勢など、金融業界に対する指導を強化してきた。あまりの積極ぶりに一部からは統制経済の再来との声も聞かれる。

 官による介入は、市場メカニズムを歪めてしまう可能性があることから、できるだけ実施しない方がよいというのが一般的な理解である。だが、金融庁による今回の介入は、基本的にすべて正しく、市場に対してプラスの効果をもたらす可能性が高い。そして「正しい」がゆえに、長い目で見たときの影響もまた深刻なものとなるかもしれない。

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ターゲットになったのは毎月分配型投信

 このところ、金融庁がもっとも厳しい目を向けているのが投資信託の運用・販売手法である。証券会社のリテール部門の多くは、個別株の売買で利益を上げることができなくなっており、経験の浅い個人投資家を対象とした投資信託の販売に力を入れている。銀行も窓販が解禁になって以降、積極的に投資信託を販売するようになってきた。手数料獲得について行員に厳しいノルマを化すところもあり、証券会社もビックリするほど積極的にハイリスクの商品を推奨している。

 だが金融リテラシーがそれほど高くない顧客にこうしたリスク商品を販売するのは容易なことではない。このため商品開発においては「経済的利益」よりも「心地よさ」を重視する傾向が強くなり、結果的に投資家の利益にならない商品が増えた。その代表的な例が毎月分配型の投資信託である。

 毎月分配型の投資信託は、収益の一部を毎月分配するタイプの商品で、少額であっても毎月お金が振り込まれるという「安心感」がウケて大ヒットとなった。だが、運用先から得られる本当の収益は、最短でも四半期に一度、長いものでは1年に一度の頻度でしか払い込まれない。

 毎月分配型投信では運用益が出る前に、顧客にお金を払い込んでしまうので、利益を分配しているように見えても、実は自分が振り込んだお金がただ返ってきているだけに過ぎない。分配してしまった資金は再投資できないので、ファンド側が運用に回せる資金が少なくなってしまう。一般論として毎月分配型の投信は顧客にとって不利な商品という解釈にならざるを得ないだろう。

 海外ではこうしたタイプの投信はほとんど存在しておらず、毎月分配型の商品が大ヒットしているのは日本だけである。

 森長官は2017年5月、金融業界に対して「消費者の利益を顧みない生産者の論理が横行している」と発言。各社の営業方針について手厳しく批判した。具体的な商品に言及したわけではないが、毎月分配型投信をターゲットにしていることは明白であった。金融機関各社は金融庁の強硬な姿勢に青ざめ、毎月分配型投信の販売を自粛するようになった。

日本の投資信託の手数料は割高

 金融庁は投資信託の販売手数料や信託報酬に対しても批判の矛先を向けている。森氏は日米の投資信託を比較した場合「日本の手数料は5倍も高い」と指摘。日本の金融機関は規模の小さい複雑な商品をたくさん作って、顧客に回転売買させていると批判している。実際、この指摘は正しい。

 信託報酬については通常、投資金額に対する%で表示されるので、実際、いくらの手数料が差し引かれているのかを実感できていない顧客も多い。信託報酬が2%と聞くと、そんなものかと思ってしまう人も多いのだが、具体的な金額を聞けばそれは驚きに変わる。

 例えば投資信託を100万円分購入したと仮定しよう。信託報酬は2%なので年間の手数料は100万円の2%で2万円である。この投資信託が4%の利益を上げたとすると、顧客が1年間に得られる投資収益は4万円になる。だが利益の4万円から手数料の2万円が引かれるので、現実には(単純計算で)利益の半分が手数料として抜かれていることになる。

 よく証券会社が販売手数料ゼロと宣伝しているが、これも販売手数料がゼロになるだけで毎年の信託報酬がなくなるわけではない。販売手数料がない分、信託報酬は高く設定されていると思った方がよいだろう。

 森氏が指摘するように、日本では割高な商品が多く、それを正当化するため商品構成を複雑にするケースが多い。これに対して米国はシンプルで安価な商品が多く、投資家にとってメリットが大きい。

 だがここで重要なことは、投資家にとって損となるこうした商品を、金融機関が必ずしも強引に販売しているわけではないという点である。

顧客の要望と顧客の利益、どちらを優先するか

 内容が分かりにくく、信託報酬も高いという商品は多い。だが日本人の顧客は、複雑で難しそうに見える商品を好み、シンプルで手数料の安い商品をあまり望まないというのもまた現実なのである。

 毎月分配型投信についても、ここまで大ヒット商品となったのは、顧客が強くそれを望んでいたからである。顧客の中には、メディアの報道や識者の指摘などによって毎月分配型投信にはメリットがないことを理解しているにもかかわらず、毎月お金が振り込まれる「安心感」から、このタイプの商品でなければ買わないと言い切る人もいるくらいだ。

 この話は、乱暴に言ってしまえば、日本の個人投資家は金融リテラシーが低いのだという結論でおしまいとなる。だが、仮にそうだとして、この現実を目の前にしたとき、金融機関はどのような商品を売ればよいのか、そして当局はどのような姿勢で金融行政に臨めばよいのかというのは非常に難しい問題だ。

 最近の金融庁は、顧客本位にならない商品は顧客が望んでいても売るべきではないと、規制強化の方向性を鮮明にしている。一方、金融機関に自由に活動させれば、市場が拡大して手数料の引き下げ競争が起こり、結果的に顧客の利益にならない商品は淘汰されるとの考え方もある。

 小泉政権時代の規制緩和はまさに後者の考え方に立脚したものであり、最終的には市場メカニズムが健全な商品を生み出すとの価値観が前提になっている。実際、米国の投資信託が健全に運営されているのは市場メカニズムによるところが大きい。

過度な介入は、金融機関の当事者能力を失わせる危険性

 金融商品が顧客本位になっているのかという問題は、古くて新しいテーマである。1960年代に発生した株価下落(いわゆる40年不況)や80年代バブルの崩壊など、それぞれの時代において、回転売買を中心とした金融商品の販売手法は何度も批判の対象となってきた。だが、結局のところこうした商習慣はなくならず、形を変えて現在でも継続している。

 金融庁はこうした状況に業を煮やし、とうとう直接介入という荒療治に乗り出した。一連の金融庁の指摘はすべて正しく、金融機関に反論の余地はまったくないだろう。だが金融庁の主張があまりにも正しいがゆえに、これらがもたらす影響もまた深刻なものとなるかもしれない。

 金融業界は金融庁の強行姿勢に恐れをなし、一連の改革を進める可能性が高い。その結果、顧客本位の商品やサービスが増え、当面は投資家の利益が保護されることになる。だが、これらの改革は、顧客と金融機関のコミュニケーションによって成立したものではなく、上からの指示で一方的に行われるものだ。

 こうした状況に金融機関が慣れきってしまえば、今後、金融機関は金融庁の顔色をうかがうことばかりに血道を上げ、自らの力で商品やサービスを改善する力をさらに低下させてしまうだろう。日本の金融機関はかつて護送船団方式と呼ばれ、官を頂点としたヒエラルキーの中で当事者能力に欠けると批判されてきた。だが、こうした当事者能力のなさは、金融当局による度重なる介入の結果でもある。

 官による介入の結果、企業としての感覚がマヒしていく事例は、石油元売り業界など他の業界でも見られる。

 日本国内の石油業界は設備過剰の状態が続いており、再編やリストラが必至といわれてきた。しかし護送船団方式の体質に慣れきった石油業界は現状維持に固執し、これに業を煮やした経済産業省は「エネルギー供給構造高度化法」に基づいて設備の削減や経営統合などを強く要請。結局、一連の介入によって設備の合理化が進むという皮肉な結果となった。同省の強硬なやり方は、かつてミスター通産省と呼ばれた佐橋滋次官の時代を彷彿とさせる。

 官による判断が正しいうちは、こうした介入もうまく作用するだろう。だが官がいつでも正しいとは限らない。というよりも、歴史を見れば分かるように、官が正しかったケースはむしろ少ない。金融機関が当事者能力をなくした先に「正しくない」官の介入が行われたとき、市場がどのようになってしまうのか、想像もつかない。

筆者:加谷 珪一