2003年に川崎に加入した中村とともに、チームも右肩上がりの成長を見せた。写真:徳原隆元

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 エドゥアルドのミスを見逃さなかった杉本健勇が開始47秒で先制弾を叩き込むと、川崎はその1点を最後まで跳ね返せなかった。

 
 中村憲剛は「最初にああいう失点をしたというのが、今シーズン初めてだと思うので。それがこの決勝に来るというのがまた……」と肩を落とした。川崎は誰もが「憲剛さんのために」を合言葉に試合に臨み、柿谷曜一朗がそんな川崎を倒したい、と意気込んでいた。どちらが勝っていてもおかしくない試合ではあったが、ミスが勝敗を分けた。川崎はまたもやタイトルを逃した。
 
 川崎のタイトルへの最初の挑戦は2000年のナビスコカップだった。鹿島と対決した決勝戦は、大方の予想通りの結末を迎える。当時現役選手として出場し、一敗地に塗れた鬼木達監督は、試合前から勝てそうに思わなかったのだと発言。現役時代、強気なプレースタイルが売りだった鬼木監督が試合前から気圧されていたのだから勝敗はやる前から付いていた。
 
 川崎はリーグ年間最下位に終わったこの00年の惨敗を契機にチームの改革に乗り出す。この失敗がチームの理念を置き去りにした安易な補強にあるとみなした川崎は、現場の体制改革を断行。その一環として、翌01年に就任した福家三男GMが招聘したのが、同年のシーズン中に大分を解任されていた石崎信弘(現テゲバジャーロ宮崎監督)だった。石崎は厳しい練習で若手を鍛える術に長けており、先を見越したチーム作りができる監督だった。この石崎の最後のシーズンとなった03年に中村憲剛が川崎に加入すると、石崎は攻撃的なポジションで中村を重用。すべての試合で帯同メンバーに選出し、44試合中34試合に起用した。
 
 中村の新たな才能を引き出したのが04年に就任した関塚隆だった。勝点1差でJ1昇格を逃した石崎が03年をもって契約満了。その後任に就いた関塚が断行したのが中村のボランチへのコンバートだった。
 
 まだボランチというポジションが「守備的な中盤」としての認識に留まっていた時代。ディフェンスラインの前で相手の攻撃に蓋をする役割を担うとの理解が大勢を占めていたなか、中村のプレーは異彩を放っていた。DFからボールを引き出すと、簡単にターンして前を向き、攻撃の起点となった。DFからのパスをそのままダイレクトで返すボランチが珍しくなかった当時のJ2では、画期的なプレースタイルの選手だった。相手の圧力がかからない中盤の底を起点に、前線のジュニーニョを走らせる。このスタイルが当時のJ2を蹂躙。苦しんだ過去3シーズンのJ2での戦いが嘘のような快進撃が続き、川崎はシーズン104得点、勝点105の記録的な成績でJ1再昇格を決めた。
 
 川崎の顔となった中村がチームを牽引しJ1で躍進。川崎はタイトル争いを繰り広げるに値するチームへと成長し、関塚が望んでいた常勝クラブへの階段を上っていった。

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 2000年のナビスコカップ準優勝は実力を反映したものではなかったが、2006年のリーグ2位を皮切りに始まった川崎の準優勝の記録は、それに値するチーム力を反映したものだった。不人気クラブが人気クラブへと急成長を遂げていくなかで、関塚の指揮下で主力選手として活躍した選手が中村だった。
 
 その中村が2016年にリーグMVPを獲得。日本代表としても2010年の南アフリカ・ワールドカップを経験しており、個人で手にできる栄光の数々を手中に収めている。今回のルヴァンカップ決勝では、まさに最後に残された川崎のタイトルを目指して臨んだが、またしても優勝には手が届かなかった。
 
「落ち込んでいる」と口にする試合後の中村は、今のサッカーを「やっていくしかないです。これで、今日の負けで全部が終わったわけじゃないので」と前を向いた。川崎にはまだリーグ戦が残されている。残りは3試合で、首位鹿島との勝点差は4。追いつくには厳しい数字だが、不可能な数字でもない。だからこそ、もう一度前を向き、優勝をかけて最後の3試合に挑む。
 
取材・文:江藤高志(川崎フットボールアディクト編集長)