川口能活がサッカー人生における「ターニングポイント」を告白【写真:編集部】

写真拡大

【連載第1回】「苦しかった」あの1か月、元日本代表GKはいかにして今があるのか

 自身のサッカー人生を綴った著書「壁を超える」を上梓した元日本代表GK川口能活(SC相模原)。42歳にして今なお、ピッチに立ち続ける希代の名GKはいかにして、現在の地位まで上り詰めたのか。全4回にわたり探る連載。第1回は自身のサッカー人生における「ターニングポイント」をどのように切り抜けてきたのかを語る。

 高校を卒業後、Jリーグの横浜マリノス(現横浜F・マリノス)に入団。42歳の現在まで続くサッカー人生の分岐点を問うと、「挫折感を味わった出来事」として、海外移籍先でポジションを失ったこと(01〜04年)、ジュビロ磐田時代に負った接触プレーによる右すねの骨折(09年)、そして、ジュビロとの契約が切れた後の空白の時期(13年12月〜14年1月)を挙げた。

「特に右すねのケガは、その後の契約にもつながる分岐点だったと思います。復帰までに約1年かかり、パフォーマンスが上向きになってきたところで、今度はアキレス腱を断裂(12年)。今度は復帰後も自分がイメージするプレーになかなか戻れなくなり、13年のシーズンをもって、ジュビロとの契約も終わりました。解雇を告げられたショックは勿論、大きかったけれど、結果を残せなかったのだからクラブとしては当然の判断。それよりも、次のチームが決まるまでの1か月が苦しかった」

 これが、川口にとって「次のチームが決まらない」という初めての経験となる。ちょうど2人目の息子も生まれた時期とも重なり、家族を養う父親としても先の見えない不安に苦しんだ。

「何より“所属クラブがないかもしれない”ということが現実に打撃を受けました。自分では『いつかはこういう日がくる』と覚悟をしていたつもりでしたが、やはり“どこかに決まるだろう”という想いが心のどこかにあったんです。ところが、現実は想像以上に厳しかった。過去、築き上げたJリーグや日本代表の実績があったとしても、これだけ厳しいのだということを突き付けられました」

「今も僕の中に生きている」―人生そのものに影響を与えた“あの人の言葉”

 現役続行さえ危ういかもしれない――。そんな最悪のシナリオも頭によぎるが、年が明け、ようやくいくつかのチームから契約の話が持ちかけられる。そして、14年のシーズン、旧知の存在であるラモス瑠偉から直接、声をかけられたこともあり、彼の監督就任が決まっていたJ2のFC岐阜と契約を結んだ。

「3つのターニングポイントで起こった出来事はすべて異なります。ただ、共通しているのは、苦しい状況に追い込まれても、トレーニングだったり体調の管理だったりと、とにかく目の前のやるべきことに集中し、手を抜かずに取り組み続けた、ということです。僕にとって幸運だったのは、“助けてくれ”とお願いをしていなくても、常に手を差し伸べてくれる人たちがいた。コーチやチームメイト、先輩方、そして家族。彼らのおかげで壁を乗り越えることができたし、今の自分がいると思います」

 川口の生きる姿勢に多大な影響を与えた人物の一人に、清水商(現・清水桜が丘高)時代のサッカー部の恩師、大滝雅良氏がいる。その大滝氏が好んで使っていた言葉が「人事を尽くして天命を待つ」。まさに分岐点を迎え、乗り越えた川口の姿勢そのものだ。

「大滝先生は常に“何が起こるかなんてそのときにならないとわからない。まず答えを求めるのではなく、過程を大切にしろ”とおっしゃっていました。大滝先生はどんなに多忙でも体調が悪くても、サッカー部の練習には必ず来ていた。今思えば、毎日の積み重ねが大事だという教えを体現してくれたのだと思います。状況が変わってもやるべきことは変わらない――。先生の姿を見てきた僕のなかにはその言葉が今も生きている。そして、サッカーは勿論、人生そのものにも大きな影響を与えていると思います」