人妻が恋するのは、罪なのか。

裕福で安定した生活を手に入れ、良き夫に恵まれ、幸せな妻であるはずだった菜月。

結婚後に出会った彼は、運命の男か、それとも...?

人妻の菜月は、独身の達也と出会い、恋に堕ちてしまう。禁断の関係は夫にまで知らるが、二人はめげずに愛を誓った。そして菜月はとうとう離婚を切り出すが、達也が海外赴任を隠していたことを知り、だんだんと我に返り始めた。




「菜月さんは、相変わらずお料理が上手ねぇ」

義母に“さん”付けで呼ばれるたび、菜月は胸がチクリと痛んだ。

―菜月さんー

かつて、同じ呼び名を何度も耳元で囁かれた記憶が、淡く蘇る。

宗一の母親は、名古屋から友人と歌舞伎を観にやって来たついでに息子夫婦の家に寄った。にこやかで感じの良い初老の婦人は、大粒のパールを胸元に輝かせ、菜月の手料理をつついている。

「これ、本当に美味しいわ」

見ためは華やかに見えるが、実は大して手のかかっていない、寿司桶のまま食卓に並んだちらし寿司。新婚間もない頃、料理教室で習ったおもてなしレシピだ。

「そうなんだよ。菜月の料理は、まったく飽きないよ」

義母の向かいで、宗一は爽やかに答えた。

―なっちゃんは、結局何も失わなかったんだね。本当に、昔から要領がいいよねー

偽善的な笑みを浮かべながら、菜月は親友の美加の言葉を思い出す。傍から見れば、まったくその通りだろう。

心の隅で唸りを上げようとする感情を抑えながら、義母と夫のためにデザートとコーヒーの準備をする。

「本当に、いい奥さんだこと」

菜月が恋に溺れたことを、義母はもちろん知らない。正気を失うほど身を窶し、そして、その恋を失ったことも。

物理的には何も失ってはいなくとも、今の菜月は、何も持っていない状態に等しかった。


結局、家に戻った菜月。達也との、最後の夜は...?!


呆気ない、情事の終わり


身を滅ぼしかけた恋の終わりは、思ったより呆気ないものだった。

「達也くん、私、家に戻るね...」

彼と過ごした最後の夜、自分の口から発せられたその一言を、菜月は他人事のように聞いていた気がする。

それまで一番恐れていた場面であるのに、涙も流れなければ、悲しみも怒りも感じない。これまでの荒ぶった感情はすべて消え去り、むしろほっとするような感覚すらあった。

こんな結末を、もしかすると、ずっと前から予想していたのかもしれない。そんな風に思えるくらい、菜月は奇妙なほど冷静だった。

「...今日、旦那に会ってたんだっけ」

達也はペットボトルの水を一気に飲み干し、疲れを吐き出すように、肩で大きく息をした。

「なんで、知ってるの...?」

「知ってるよ、そんなの」

投げやりに言った彼の顔は、苦しげに歪んでいた。

―今さらそんな顔をするなんて、ずるい。

反射的にそう思ったものの、それを口に出す力は、菜月にはもう残されていなかった。

「菜月さんは結局帰るだろうって、ずっと思ってた」

「どうして...?」

「賢い夫婦だから。おたくは」

そして、最後に達也がそう呟いたときだけ、菜月は身体がねじ切れそうな痛みを感じたのだ。


「大そうなハッピーエンドだね」


想定外だったのは、『ザ・ラウンジ by アマン』で親友の美加に一連の報告を済ませたあとの、不快を露わにした彼女の反応だった。




「これだけ騒いで、散々人を巻き込んで、大そうなハッピーエンドだね」

美加が嘲笑うように言ったとき、はじめは冗談かと思ったが、そうではなかった。

「振り回されたこっちが馬鹿みたい。結局、なっちゃんは火遊びを楽しんだんじゃない?宗一さんと達也、真逆のタイプだもんね。彼氏と夫の両方を手に入れるなんて、本当にやり手」

吐き捨てるように言った彼女は、憎しみを持って菜月を見つめた。

「...美加、どうしたの?ごめん、でも私、そんなつもりじゃ......」

「そうだね、知ってる。なっちゃんは天然だから。でも、暇な主婦のトラブルに巻き込まれるほど、私にとって迷惑なことはないの」

美加は強くこちらを睨みながら、しかしその目には涙が浮かび始めていた。まるで、その言葉に傷ついているのは彼女自身であるかのように。

「ねぇ、分からない?家のポストに写真入れたのも、宗一さんと会ったのを達也に伝えたのも、私だよ。達也にはね、なっちゃんは本当は旦那が好きだから......最後は家に帰るよって...私が...言って......」

涙声に変わった美加の言葉はだんだんと支離滅裂になり、最後はよく聞き取れなかった。

一体自分の何が、大事な親友をこれほど追い詰めてしまったのか。

菜月は彼女の告白にショックを受ける一方で、この状況にただ戸惑っていた。

そして美加は、ほどなく「ごめん」と言い残してその場を去ってしまい、彼女に会うのも、結局それが最後となった。


恋に溺れた人妻の、その行く末は...?


快楽とは、苦痛を水で薄めたようなもの


達也と別れてから、しばらくの時間が経つ。

喪失感は、菜月の予想をはるかに上回るものだった。

―菜月、家に戻りなさいー

夫に説得されたときは、もうそれ以外に選択肢はないと思った。

すでに何もかも滅茶苦茶ではあったが、あのときはそれが一番マシな選択に思えたし、あのまま達也と一緒にいれば、自分が完全に壊れてしまいそうだった。

駐在を控えた達也が菜月を負担に感じているのも分かったし、いったん冷静になれば、自分はただの30過ぎの人妻で、未来ある独身の彼に寄りかかる権利もないことに気づいた。

自分から身を引くことが、ほとんど正気を失いかけていた菜月のできる、せめてもの分別ある振る舞いだった。




「じゃあ、私はそろそろホテルに戻るわね」

義母はナプキンで丁寧に口を拭いながら言った。

この贅沢なマンションの一室をプレゼントしてくれたのはまさに宗一の両親であるのに、ときどき東京にやってくる彼らは、気を遣っているのか、息子夫婦宅を訪れはしても、宿泊には必ずホテルを使う。

そんな距離の取り方ができる義両親が菜月は好きだったし、多くの妻が嫁姑関係に少なからず不満を持つのに対し、自分は恵まれているはずだった。

「今日は、母さんに付き合ってくれてありがとう」

タクシーに乗り込んだ義母を見送ると、宗一は菜月の頭を撫でた。

達也の家から自宅に戻ったとき、夫は「おかえり」とごく普通の反応を見せただけで、それ以降、妻の不貞には一切触れられていない。

菜月はそんな夫に感謝と申し訳なさ、そして小さな落胆を感じながら家庭に戻っていったが、これが達也の言った“賢い夫婦”というものなのだろうか。




夫が風呂に入り、キッチンに一人になると、菜月は半ば神経質に後片付けを始めた。

―菜月さんー

前触れなく、不意に蘇る達也との思い出に浸るのは、すでに菜月の習慣になっていた。

年下の彼の、あのぶっきらぼうな物言いと、菜月を抱きしめるときの屈託のない笑顔。男に母性をくすぐられ、可愛いと思うのは初めてだった。

―菜月さんー

情事によって唯一残されたのは、痛烈な記憶だ。

あの、感情一つで人生がどうにでもなりそうだった危うい女が、今も菜月の身体の隅々でじっと身を潜め、達也を求めている気がする。

あともう少し、もう一歩でも違う選択をしたなら、彼と一緒になる未来はあっただろうか。

―菜月さん、元気でねー

しかし、もう恋は終わってしまった。

六本木のマンションを出るとき、見送ってくれた達也を振り返らなかったのは、気持ちを切り替えて家に帰りさえすれば、すべてはそのうち自然に収束するだろうと漠然と思っていたからだ。

だが無論、現実はそんなに甘くはない。表面的にせよ、滑稽とも思える夫婦生活を普通に続けるには非常な努力を要した。

いくら上手くきちんと日々を送ろうとも、元の自分に戻れる気配はなく、苦しい胸の痛みは一向に消えないのだ。

快楽とは、苦痛を水で薄めたようなもの。

そんなことを言ったのは、フランスの作家だったか。

仮にそうだとすれば、この痛みを抱えながら生きていくのも、女としては意外に悪くない人生かもしれない。

菜月はそんな風に自分に言い聞かせ、食卓の片付けに励んだ。

―Fin