不安に強い人は「人付き合いの整理」を習慣にしている

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 ここ10年ほどで急速に浸透したものの一つにSNSがあります。

 なぜここまでSNSは社会に受け入れられたのでしょうか。根本にあるのは、「人とつながっていたい」「仲間がほしい」という欲求のように思えます。いまある交友関係の結びつきを強めたい、新たなつながりをつくりたい……強く自覚はしていなくても、SNS利用者にはそんな心理が働いているはずです。

 一方で、「SNS疲れ」や「他人に振り回されている」などの意見もあるのも事実です。

 禅の思想と日本の伝統文化に根ざした「禅の庭」の創作活動によって、「世界が尊敬する日本人100人」に選出された枡野俊明師(新刊『近すぎず、遠すぎず。』がある)が、増え過ぎた人付き合いを見直して整える方法について語ります。

「改善要因」と「阻害要因」に分けて考える

 「禅の庭」をつくる敷地はさまざまです。もっといえば、一つとして同じ敷地はないといっていいでしょう。そして、どんな敷地にも必ず長所と短所が存在します。デザインするうえでの基本的な考え方は、長所はできるだけ伸ばし、短所は可能なかぎり緩和していく、消していくということです。そのため、私は短所を二つに分けて考えています。一つは改善要因、つまり、手を加えることによって気にならなくなる短所。もう一つは阻害要因、いくら工夫をしても変えようがない短所です。

 敷地同様、人も長所、短所をもっています。いいところばかりで非の打ちどころがない、完全無欠の人などいるわけもないのです。万々一いたとしても、そんな人は人間味に欠けますし、面白味もありません。

 相手の長所は受け容れやすく、短所は受け容れにくい。それが人間関係でしょう。ですから、まずは長所を見つけるのが、いい人間関係を築くポイントになります。やさしさやおおらかさ、気配りや、思いやり……。そんなところを相手のなかに見つけたら、親近感も増しますし、心の垣根もすぐに外れて、スムーズに、また、積極的に関係を結ぶことができるはずです。

 問題は短所です。こちらは改善要因と阻害要因に分けて考えてはいかがでしょう。もっとも、友人関係などプライベートなつながりでは、おたがいが長所を認め合い、短所は許し合っているはずですから、ことさら短所に目を向ける必要はないわけです。短所が許せない相手とは友人にはならないでしょう。

 一方、ママ友どうしのつながりや、仕事上の関係などオフィシャルなつながりになると、関係を絶つことはできませんから、短所をどう受けとめていくかが課題になります。

 たとえば、仕事の上司が結論を出すのが遅いといったケース。提案書を出してもなかなか返事がもらえない、といった上司もいるでしょう。これは改善要因です。上司本人はそれが自分のペースで、遅いという自覚がないことも考えられますから、提案書を出すときに「課長、お返事を○日までにいただけるとありがたいのですが……」といった言葉を添えることで牴善〞される可能性は充分にあると思います。

 どう考えてもまったくソリが合わない、すこぶる相性が悪いというのは阻害要因になります。人は気性も個性もそれぞれですから、なかにはそんな相手がいるかもしれません。この場合は、距離をおいて、必要最小限の事務的な付き合いだけをするのが望ましいでしょう。水と油のように、溶け合う余地がないのですから、できるかぎり接触を減らすのが最良の策です。

 ママ友でいえば、子どものクラス替えがあれば、相手との関係は変わりますし、また、企業では人事異動がありますから、いつまでもその相手との上司・部下の関係が続くわけではありません。しばらくは「君子危うきに近寄らず」に徹して、精神的なストレスの緩和につとめてください。

先入観にとらわれないよう人間観察する

 人の人物像をつくり上げるうえで、第一印象はとても重要だとされています。はじめて会ったときに直感で感じとったものは、おおむね正しいという説は認めますが、それにこだわりすぎるのも健全とはいえません。

 「禅の庭」の敷地にも狢莪谿象〞がよくないものがあります。

「う〜ん、あの木の枝ぶりがちょっと邪魔だな」といった状況。そこで犹泙邪魔〞ということにとらわれてしまうと、その視点でしか敷地を見られなくなります。そうしたとき私は、「邪魔な枝は切ってしまえ」という考えには至りません。その理由は、時間帯を変えて敷地に立つと、思いもよらない発見をすることがあるからです。夕刻、沈みかけた太陽の光がその枝にあたり、大地に影を落としてすばらしい景観となっていたりするのです。

 そこではじめて、邪魔と見えた枝がじつは「禅の庭」に陰影を与える、すぐれた素材であることに気づくわけです。犹泙邪魔〞という先入観から離れることができなかったら、こうした気づきはありません。先入観にとらわれることなしに、よく観察するからこそ、気づきがあるのです。

 人を見る場合も同様で、先入観は危険です。

「なんだか、あの人いつも怒ったような表情で、気難しそうな人だな」

そんな先入観をもつと、それが勝手にその人の人物像をつくり上げる土台になってしまうからです。

 その結果、気難しさをあらわす発言やふるまいばかりが目につくようになるのです。そして、「ほら、やっぱり気難しいじゃないか」ということになってしまう。その人に気難しいという面は少々あったとしても、人は多面的ですから、それはあくまでもその人の一面にしか過ぎないのです。

 実際には、違う面をいくらでも持ち合わせていますし、そのなかには気難しさを補って余りある、素敵な面もあるはずです。

 それに気づくためには、よく観察することです。観察のいちばんの妨げになるのは先入観ですから、それを取り払って観察する。すると、新たな発見があります。

「あれっ、他人に対してすごく気配りができる人なんだ」
「なに、なに、こんなふうに巧まざるユーモアを語れる人なのか」
「じつは、恥ずかしがり屋の一面を隠そうとしていたのですね」

 こうした気づきを得ることができれば、多面的に見えている証拠です。

 もちろん、逆も真なりですから、好ましいと感じていた人の嫌な面に気づくこともあるでしょう。しかし、それもその人の実像に迫っていくことですから、致し方なし、と受けとればいいのです。

 人は先入観、思い込みといったバイアスをかけて他人を見がちです。それが人間関係をややこしくしている一因であることは否めないでしょう。そもそも、人の人物像というものが、そうやすやすと描けるはずがないのです。

 観察のうえにも観察する。人物像を描き始めるのは、それからでもけっして遅くはありません。

関係を整理するために余計な物事を削ぎ落とす

 私は基本的に、人間関係は「広く浅く」より「狭く深く」が望ましいと思っています。もちろん、人付き合いに対する価値観は人それぞれ異なりますから、広く浅くを「よし」とする人も認めます。その前提でこれからの話を進めていきましょう。

 広く浅い人間関係の典型が、SNSを介してのものでしょう。実際、スマートフォンのLINEアプリの友だちの画面に、100を超える名前が並んでいる人もいるようです。

 それらの猴Э〞たちとコミュニケーションをとるのは大変です。何か情報がくれば、すぐにも返信しなければならない。「既読スルー」をすれば不評を買うことになりますし、それが重なれば、友人の輪から外されることにもなりかねないからです。

 さあ、そんなふうにSNSでやりとりをするのに費やす時間はどのくらいになるでしょうか。半端な時間ではないはずです。人生のかぎりある時間の、かなりの割合を消費しているはずです。

 実際、電車のなかでスマホの画面からずっと目を離さず、LINEやフェイスブックのやりとりをしている人は少なくありませんし、自宅に戻ってからもスマホを手放さず、寝るときにも枕元に置いているという人もいると聞きます。

 SNSはたしかに利便性の高いツールです。しかし、それは自分が主体となって使うという条件をクリアしていての話です。多くの人はSNSがむしろ主体で、それに振り回されている。そう私には見えます。

 考えてみてください。SNSでつながっている関係が犲臓覆犬帖砲里△襪發〞でしょうか。SNSは自分の素直な気持ちを、ほんとうの思いを、相手に伝えるものになっていますか? そこに心の交流を感じることができていますか?

 厳しい意見になるかもしれませんが、上っ面だけの言葉のやりとりでしかない、というのが私の偽らざる爍咤裡嗟Г世〞に対する評価です。

 あなたのなかに、「他人に振り回されて、ちょっとしんどい」という意識があれば、一度、腰を据えてSNS友だちを整理し直してみてはいかがでしょう。LINEが送られてきて、「既読スルー」するのは悪いから、返信している。やることがないと、つい、いつものクセでLINEを送ってしまう。周囲に反応してほしいがために調子に乗って、誰かの気になる情報を発信している……。それらをやめると、友だち群は確実にスリム化されます。

 「禅の庭」づくりの基本的な考え方の一つに、取り除くこと、削ぎ落とすことがあります。

 余計なものを取り除き、削ぎ落としていく。そして、もうこれ以上取り除くものがない、削ぎ落とすことができない、というギリギリのところではじめて「禅の庭」は成立するといっていいでしょう。

 世界遺産に登録されている京都・龍安寺の石庭は、わずか一五個の石で構成されています。その間に作者のイメージの世界で、究極まで取り除く作業、削ぎ落とす作業が繰り返されたことは、想像に難くありません。

 そのようにして表現された「禅の庭」は、どこまでも簡素でありながら、無限の広がりと奥行き、深みを感じさせます。つまり、簡素であるがゆえに、いつまで眺めていても、見飽きるということがないのです。

 人間関係もスリム化していくことで、ほんとうに大切なもの、かけがえのないものだけが残る、と私は考えています。深い心の交流は、そうしたつながりにしか生まれないのではないでしょうか。

 もちろん、SNSのつながりをすべて断ち切るのがいいというつもりはありません。SNSだからこそ、会いたい人にコンタクトをとることも可能ですし、インターネット上だから可能な言葉のやりとりも、場合によってはいいでしょう。私が警鐘を鳴らしたいのは、SNSが主流になっているコミュニケーションの現状であり、道具(ツール)とそれを使う側の主従が逆転している関係性です。

 利便性に偏りすぎている現状から、その猖寨〞に重心をシフトする。そのことが急務だと思いますし、そうすることによって、人間関係が、シンプルでありながら深く味わいのあるものになると思っています。

家族と向き合えなければ、他人と向き合えるはずがない

 人間関係の犖況〞は、いうまでもなく家族です。しかし、いまの時代、その家族が壊れかけているという印象をもっている人は少なくないのではないでしょうか。

 かつての家族は、朝に顔を会わせれば「おはよう(ございます)」と挨拶を交わし、そろって食卓につき、同じ献立の食事をとっていました。その間にそれぞれの近況が語られることにもなっていたのだと思います。

 ところが、その家族の在り様は、時代の変容とともに大きく様変わりしたかに見えます。ろくに挨拶も交わさない、食事時間も献立もマチマチ、といった家族が珍しくないとも聞きます。時代の変化や家族のさまざまな事情はありますが、家族がバラバラになっていることは否めない現実といわざるを得ません。人間関係の原型は瓦解の方向に向かっています。

 この状況に私はおおいに危惧(きぐ)を感じています。人はまず、家族との触れ合いのなかで長幼の序、すなわち、年長者を敬うことを学び、親は子どもを、子どもは親を、思いやり、大切にする心を育んでいったのだと思います。

 「露(ろ)」という禅語があります。どこも包み隠すところがなく、すべてがあからさまになっている、という意味です。人がその「露」の状態、つまり、社会的な立場から離れて「素顔」「素の自分」でいられるのは、本来、家族のなかでのこと。

 家族が触れ合う場面がなくなったということは、学びや育みの場を失ったことであり、同時に、素顔でいられる時間を喪失したことでもある、といっても過言ではありません。

 家族の立て直しは、現代において重要なテーマの一つです。

 そのための具体的な方法として、私は以前より、週に一度は家族そろって食事をすることを提案してきました。家族のそれぞれが「なんとかしなくちゃ」と頭で考えていてもダメなのです。身体を使って動かなければ何も始まりません。

 たとえば週末の一日は家族が全員で食事をする。それを家族のルールにすれば、時間のやりくりはつけられるものです。

 最初はどこかぎこちなさがあるかもしれませんが、そこは家族です。続けているうちに、さまざまな話題も出るでしょうし、そのとき家族それぞれが考えていること、していることなどについても、狆霾鷆ν〞ができるようになります。

 触れ合う時間が増え、あらためて家族がおたがいのことを知るようになれば、自然にその時間は素顔でいられるようになるでしょう。東日本大震災以降、「絆」ということがさかんに語られましたが、絆はおたがいが素顔で触れ合い、結び合うなかから生まれるものである、と私は思っています。

 ちなみに、素顔、素の自分でいることは、「禅の庭」づくりでもとても大切なのです。作庭作業に入る前には、当然、デザインを起こし、図面を引きますが、実際に現場に立つときにはほとんどそれをもちません。そのとき、その空間で感じたことを表現していく。そのことだけに注力します。その妨げになるのは作為です。つまり、「こんな庭にしてやろう」「見る人を感動させてやるぞ」……。そうした思いがあると、ある種の狃気〞が庭にあらわれてしまうのです。

 作為を捨て、そのときどきの素の自分で空間に向き合うことを、私は常に心がけています。人間関係も、作為があるものはほんものとはいえないでしょう。

「この人と付き合ったら、何かメリットがありそうだ」
「あの人は自分の得になりそうもないから、付き合いは遠慮しよう」……。

 そんな思惑があったら、人間関係は計算、打算が色濃いものになってしまいます。

 まずは家族と素の自分で向き合う。それが、他人との間にも、作為のない、ほんものの人間関係を築いていくための入り口となります。

【著者紹介】
枡野 俊明(ますの しゅんみょう)

1953年、神奈川県生まれ。曹洞宗徳雄山建功寺住職、多摩美術大学環境デザイン学科教授、庭園デザイナー。大学卒業後、大本山總持寺で修行。禅の思想と日本の伝統文化に根ざした「禅の庭」の創作活動を行い、国内外から高い評価を得る。芸術選奨文部大臣(当時)新人賞を庭園デザイナーとして初受賞。ドイツ連邦共和国功労勲章功労十字小綬章を受章。また、2006年「ニューズウィーク」誌日本版にて「世界が尊敬する日本人100人」にも選出される。庭園デザイナーとしての主な作品に、カナダ大使館庭園、セルリアンタワー東急ホテル庭園『閑坐庭』(ともに東京都)、祇園寺 紫雲台庭園『龍門庭』(茨城県)、蓮勝寺 客殿庭園『普照庭』(神奈川県)、ベルリン日本庭園『融水苑』(ドイツ)、ベルゲン大学新校舎庭園『静寂の庭』(ノルウェー)、カナダ国立文明博物館日本庭園『和敬の庭』(カナダ)など国内外に多数ある。主な著書に『禅シンプル生活のすすめ』、『心配事の9割は起こらない』(ともに三笠書房)、『怒らない 禅の作法』(河出書房)、『スター・ウォーズ禅の教え』(KADOKAWA)などがある。