私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第3回
日本初のW杯、衝撃の落選メンバー発表〜北澤豪(1)



 1997年秋、日本代表はフランスW杯アジア最終予選を戦っていた。

 北澤豪が連絡を受けたのは、10月中旬のことだった。Jリーグが終了し、北澤は代表に呼ばれることを想定して沖縄で自主トレをしていた。そこに、サッカー協会から代表招集の連絡が入って急きょ東京に戻ってきた。

 すると、代表の岡田武史監督からも電話がかかってきた。

「おまえを(次のUAE戦から)呼びたいと思っている。でも、自分で戦う決断をしない限り、これから先は戦える場じゃない。代表に来るかどうかは、自分で決めてくれ」

 その言葉を聞いて、北澤はイラッときたという。

「(岡田監督は)『何言ってんだ』って思ったよ。『おまえが必要だから』って言ってくれれば、『よっしゃ!』っていう気持ちになるのに、『自分で決めろ』って、『なんだそれ』って思った。

 俺は(アウェーの)カザフスタン戦とウズベキスタン戦を見て、代表をなんとか救いたいと思っていた。そういう状況を知っていて『(代表には)行きません』とか言う選手がいるって、(岡田監督は)考えていたのかな? サッカー選手なら、それは絶対にないよ。だから、俺は『当たり前じゃないですか、行くに決まっているじゃないですか』って、即答したよ」

 代表を救いたい――北澤の思いはその一心だった。

「このときの岡田さんの言い方は、今考えても『選手の気持ちをわかっていないなぁ』って思うね。もしかしたら、岡田さんなりの気づかいがあったのかもしれないけど、判断を選手に委ねるってことでしょ。それって、どうなのよって思うよ。こういう対応って、俺だけなのかな? メンバーから外されたときも、同じようなことをされたからね」

 北澤はやや目線を上げて、遠い昔を思い出すようにそう言った。

 北澤が代表に招集されたとき、日本は危機的な状況にあった。加茂周監督がアウェーのカザフスタン戦(1-1)後に解任され、監督経験のない岡田コーチが指揮官になったばかりだった。その初陣、アウェーのウズベキスタン戦も1-1で引き分けて、日本は5試合を終えて1勝3分け1敗(勝ち点6)。この時点で、グループB3位だった。首位を走る韓国とは勝ち点7差をつけられ、グループ1位でのW杯出場切符獲得は絶望視されていた。

 それでも、2位になればプレーオフがある。フランスに行けるチャンスはまだ残っていた。それだけに、ホームで行なわれる2位のUAEとの直接対決は絶対に勝たなければいけない試合だった。

 だが、およそ2カ月ぶりに代表復帰を果たした北澤が見たチームは、以前のようなポジティブで明るいチームではなかった。

「暗かったね。会話もないし、(選手同士)やり合うこともない。カザフスタンとウズベキスタンの試合でいい結果を出せなくて、『国民のみなさんに申し訳ない』みたいな、そんな雰囲気で(チームは)沈んでいた。

 そういう状態だったので、これは『みんなと喧嘩するしかないな』って思った。当たり障りのないサッカーをやっていて、闘争心が感じられないから、練習中から削りにいった。『いてぇな、コノヤロー!』って相手は怒るけど、それがきっかけになって話ができると思ったし、やっぱり試合は闘争心が大事。次のUAE戦では一層そういう気持ちが必要だったし、やらないといけない試合だった。(選手やチーム全体に)そうした気持ちをよみがえらすためにも、意図的にやっていた」

 当時、キャプテンの井原正巳やエースのカズ(三浦知良)は、どちらかと言えば、気持ちや言葉で引っ張るタイプではなく、プレーで引っ張るタイプだった。4年前のW杯最終予選、ドーハで戦ったときのチームには、ラモス瑠偉、柱谷哲二、中山雅史など、ピッチ上で闘争心をむき出しにしてプレーし、雰囲気を変えられる選手がたくさんいた。しかし、このときのチームは淡々とプレーする、おとなしい選手が多かった。

 その分、北澤は練習中から気持ちを前面に押し出し、激しいゲキを飛ばした。チーム内に活気を取り戻すため、あえて”悪役”も買って出た。例えば、バスで移動中、何かしら不満を漏らしている選手に対しては、後ろからモノをぶつけて、その選手からの跳ね返りを待った。また、ある選手が『こう動いたら、こうじゃないですか』と、理論的な細かい話をしてきたときには、『おまえ、それだからダメなんだよ。こんな状況のときに、頭で考えていたってしょうがないだろ』と言い返し、その選手を泣かせたこともあった。

「でも(選手たちからは)ほとんど反応がなかった。それに、そういうことをすると、井原さんから『おい、キー(北澤)やめろよ』って戒(いさ)められた。それでも、(井原に)『今から戦っていかないといけないんじゃないですか』って言ったんだけど、俺ひとりvsチームって感じで、みんなで盛り上がっていこう、という雰囲気にはならなかった」

 迎えたUAE戦。国立競技場は超満員だった。


ホームのUAE戦から代表復帰を果たした北澤豪。photo by AFLO

 北澤は攻撃的MFとしてスタメン出場した。システムは4-4-2で、攻撃時の中盤はひし形となり、北澤はトップ下の位置に動いた。名波浩からのパスをより多く引き出せるようにして、積極的に前線に飛び出し、攻撃の流れを作っていった。

 守備のときは、中盤をボックス型に変更しブロックを作った。中盤のユニットを編成した選手の特徴を生かすため、北澤ら中盤の選手たちで考えて生み出したシステムだった。

 しかし、試合は1-1のまま終了し、勝つことができなかった。

 2位のUAEを追い抜くことができず、残り2試合の段階でグループ3位のまま。フランスW杯出場に黄ランプが激しく点滅した。

 不甲斐ない結果に終わり、フランスW杯出場が危うくなったことで、試合後、憤怒した一部のサポーターが選手バスの進路を塞(ふさ)ぎ、テレビ中継車の上からパイプ椅子を投げ入れた。それに対して、カズが激高するなどして、その日は荒れた一夜となった。

「あのときの国立、5万人のブーイングは今でも忘れられない。勝たなければいけない試合に引き分けてしまい、もう異様な雰囲気だった。それまで、サポーターはずっと日本代表を応援してきてくれたにもかかわらず、あの瞬間だけは敵に回った感があった。『あぁ〜、日本にもこんな時代が来たのか』って思ったよ。

 でも、あれは個人的にはよかったと思っている。もう『勝てなくて申し訳ない』とか言っていられない。とにかく『やらないといけない』ということに(選手たちが)気づいた。あのブーイングがきっかけになって、選手は少し変わったね」

 続く相手は首位・韓国。試合は敵地ソウルで行なわれた。

 日本は中盤をひし形にして、勝負に出た。その甲斐もあって、日本は2-0で勝利。2位のUAEが勝ち点を伸ばせずにいる中、最終戦のカザフスタン戦も5-1で勝って、日本はプレーオフ進出の権利を得た。

「最後のカザフスタン戦は、カズさんと呂比須(ワグナー)が累積警告で出場停止となって、直前にゴンちゃん(中山雅史)がチームに入ってきた。あのとき、俺とゴンちゃんと高木ブー(高木琢也)の3人で『俺たちが(代表チームを)引っ張って、盛り上げていかないといけない』っていう話をしたのを覚えている。仲間が増えてうれしかったし、彼らが入ってきたことでチームが前向きで明るい雰囲気になった。空気が大きく変わったんだよね」

 日本代表は明るさと勢いを取り戻し、それが『ジョホールバルの歓喜』へとつながった。北澤は、4年前のリベンジを果たしたのである。

(北澤豪編・2回目につづく)

北澤豪(きたざわ・つよし)
1968年8月10日生まれ。東京都出身。修徳高→本田技研→読売クラブ→ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)。ヴェルディ黄金時代のメンバー。「ダイナモ」の異名で日本代表でも長年活躍した。(財)日本サッカー協会理事

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